月
スイッチを押して基地の出入り口を開けると、外には真っ暗な海が広がっていた。
本物の海ではない。何も無い真空の海、つまり宇宙だ。
一歩踏み出すと、ザリ、と砂塵の感触。地面はずっと向こう側まで灰色が続いていて、遠くにはクレーターが見える。
月面基地は今日も殺風景だった。なにせ、今の所彼の他に人類は居ないし、基地以外の建築物もない。ただ灰色の地面とクレーター、それと満点の星空だけがある。
二歩、三歩をゆっくり歩き出す。そのたびに蹴り上げられた塵がきらりきらりとかすかに光る。幻想的な光景であったが、男は勤めて無関心に、一歩また一歩と歩を進めた。
何も無い、灰色の荒野だけが続く。平然としているようで、そこには空気も無く、表面温度は日照度によって地球とは比べ物にならない範囲で激しく上下する。
宇宙服と酸素発生器が無ければ、三分と生きてはいられない。美しいようで居て、実際は地獄のような場所なのだ。
男は歩いた。
そうして何分ほど歩いていただろうか。旧式の宇宙服には時計がついていないため、男には分からなかった。
たどり着いたクレーターのふちは、高い崖のように反り返っていて、男の何倍もの高さがあった。隕石などが衝突した衝撃で、岩石が捲れ上がったのだろう。
そのふちに手を添えて、男はゆっくりとクレーターを迂回し始める。ざり、ざり、と男にしか聞こえない音だけが、しばらく響いた。
ふちに沿ってまたしばらく歩いて、クレーターの裂け目を見つけると、彼は躊躇無くその隙間に入って言った。
中はそりたった壁によって真っ暗になっていて、その暗さに反応して、宇宙服に付属しているヘッドライトがキュイーンと甲高い音を立てて起動した。
裂け目を抜けると、クレーターの内部に至る。クレーターの中央から外側へと向かって衝撃の後があり、衝突したものの重さを伝えている。
時折落ちている落下物の破片や残骸を避けて、中央へ中央へと彼は歩く。
そのうちに、人工物も増えてきた。ぐにゃぐにゃと歪に曲がった鉄の骨組み、男の着ているそれよりも新しかったであろう宇宙服、中身のこぼれた合成食料のパック。
――そして、骨組みで作った無数の十字架。男は足を止めた。
自己満足だった。何かしていないと、すぐにでも狂ってしまうだろうと分かっていた。
救難信号を出しても、月中を歩き回っても、誰一人として人類を見つけることは出来ず、もう何年も経っていた。
彼は膝から崩れ落ち、呆然と黒色の海を見上げる。もはや一人として棲む者の居ない地球は、ただ青いだけの球体に過ぎなかった。
――人類は既に、彼以外に残っては居ない。
何もかもが終わった灰色の星で、男は泣いた。