第36話 背後
ネリネ・ソーワートはこちらの姿を認めると、柔らかく微笑んだ。
ネリネ本人には先程と変わった様子は見られない。身にまとう衣装も先程と変わらぬ出で立ちだ。だからこそ、今のこの状況が一際、異様なものに映る。
背後に上ってきた階段があることを除けば、周囲には他に何もない。ただ広がった空間があるのみで、何かの儀式をやる風でもない。
誘拐が意図するものであるならば、何らかの準備があっての良いだろうに。
二人が倒れている場所までは距離があり、俺達の手が届くより先にネリネの手が届くだろう。
何か行動を起こすのならば、まずはネリネを封じる必要がある。
その為にもまずはネリネの力量を見定めないとな。
「ようこそいらっしゃいました。いいえ、ここはお帰りなさいませと、言った方が宜しいのでしょうか」
「そんな問答はどうだって良いさね。連れ去った人間を返してもらおうじゃないか」
「構いませんよ。と申し上げたいのですが、残念ですがお心に添うことは出来ません。こちらも故あってのことですから」
その口調から取り合う気はないと言う、強い意志が伺える。
「理由があると言うことでしょうか。宜しければその理由をお伺いしたい」
「そうですね。何も知らないことへの憤りは、私にも覚えのある事です」
リナリアの問いに、ネリネが一瞬眉をひそめた。その後、瞳を閉じ、息を吐き出した後、改めて口を開く。
その物腰も、一連の所作も心得が在るもののそれではない。
隙だらけじゃないか。誘ってるのか? それともそれだけ自信があるのか?
どう言う訳かアルカイドのやつは、ここへはやってこなかった。
俺は思索を巡らせた後、決断する。
『タイム、お嬢様を結界で閉じ込めろ』
『良いんですか?』
『話を聞くなら優位性を確保してからで十分だ。好機を逃してまであいつの与太話を聞く理由はない』
『判りました』
タイムが俺に同意し、ネリネの周囲に結界を張り巡らせ、ネリネを閉じ込める。だが、その結界は即座に砕かれた。
『そんな!』
「くっ――」
「無粋な方ですね」
ネリネが俺に視線を移し、そう吐き捨てた。
「てっきり案内が終わって帰ったもんだと思ってたよ」
「まさかこのような野暮な真似をする方が存在するとは、思いもよりませんでしたよ。お二人が危険だとは考えなかったのですか?」
ネリネの背後に、舞い降りるようにアルカイドが現れる。アルカイドは杖を手にしており、その頭を俺へと向けていた。
「……目的があって拐ったんだろう?」
「……それは、浅はかな考えですね」
軽口を叩く俺に対し、アルカイドは凍えそうなほど冷たい視線で、睨み付けてくる。そのまま前へ進み出ようとするアルカイドを、ネリネが手で制した。
「アルカイド、控えなさい」
「失礼致しました」
アルカイドはネリネに一礼し、後方へと下がる。
「ソルトさん、次はありませんよ?」
「ちっ」
正直、今のが失敗したのは痛い。あの化け物が控えている以上、俺達に勝機はない。
今のタイムの結界をものともしない? はっきり言って異常だ。国の上にはあんなのがゴロゴロしてるのか? 冗談じゃないぞ。
「私の目的のお話でしたね。フェンネルさんはすでに気づいていらっしゃるのでは?」
「クラリスの蘇生だろう? 出来るかどうかはともかく、あたしならその方法を探すだろうさ」
姉さんは一度ミントちゃんへ視線を向ける。その後、自身の身に照らし合わせたのか、あっさりと言い切った。
「ええ、その通りです。初めてお会いした時、どこか通じるものを感じましたが、間違いではありませんでしたね」
胸の前で手を合わせ、ネリネは本当に嬉しそうにしている。まるで良き理解者を得たと言わんばかりだ。
リナリアはそんなネリネを見咎める。
「その為にその者たちを犠牲にするというのですか? その様な非道な真似はおやめください!」
「非道な真似? そうでしょうか。愛する者の為邁進する。それは人として尊ばれる道でしょう?」
「正気で言ってるのですか!?」
駄目だ。彼女はすでに正気じゃない。あの素人のお嬢様にくだらないことを吹き込んだ人間がいる。心を壊したやつがいる。
あいつだ。後ろに控え愉しんでいるあの野郎だ。
やつの目的だけは絶対に砕いて見せる。
俺は後ろで嗤うあの野郎を睨み付けた。




