タカコ気力管理部の珍しくない残業
疲れた。ああ、疲れた。
家に帰るなり、多香子は鞄を放り投げてベッドに飛び込んだ。今すぐ起きあがって服を着替え、風呂と食事を済まさなければいけないのは分かっているけれど、ベッドから動きたくない。何もしたくない欲求が全てに勝っている。あと二時間はベッドの上で寝転がっているだろう。
ここの所、いつもこんな感じだ。朝起きて、身支度を整えて、仕事して、仕事から帰ってベッドでゴロゴロしている内に時間が過ぎて、もたもたとご飯とお風呂を済ませて眠る。そして、朝が来て悔やむのだ。仕事以外、何もしていない、と。
このままなら、明日も同じ事を思うことになるだろう。分かっているくせに、多香子は起きあがらない。
だって、疲れているのだ。趣味の読書や映画鑑賞をしたい気持ちはあるけれど、一日のエネルギーを仕事に持って行かれて、やる気がでない。
しょうがないじゃないか、疲れているんだから。やらなければいけない事はやっているのだから、いいじゃないか。
誰にともなく言い訳をして、多香子は目を閉じた。
※
とうとう明かりが落ちた。タカコが眠ったようだ。
夕方頃から徐々に暗くなっていたので覚悟はしていたが、予想よりも少し速い。即座に通常よりも照度を落とした省エネモード電灯へ切り替わったものの、それすらもいつもより暗く感じる。
「ストレスが溜まっていたかなあ」
「高子部長。ちょっといいですか?」
独り言を漏らしていると、部下の多加古が走ってこちらにやってきた。薄暗くても、その表情が渋いのは分かる。
「見てください、これ」
そう言って多加古が差し出してきたのは、明日に持ち越す気力量が載せられている資料だ。その数字に、高子の眉間に皺が寄った。
行動に伴って増減する気力を調整し、適度に管理するのが気力管理部たる高子と多加古の仕事である。
だが、多加古が差し出した気力の量は少なすぎる。適度とはとても言えない量だ。ましてや今日は水曜日、気力の回復が望める週末はまだ遠い。
「こんなに少ないのか。もっと余裕があると思っていたよ」
「月曜も火曜も最小限の補充しかできませんでしたので」
「ああ、そうか。そうだった。ここの所、仕事しかしていない状態だったよなあ」
仕事が趣味というタイプならそれでもいいが、生憎タカコはそのようなタイプではない。むしろ、趣味のために仕事をするタイプだ。それなのに、ここ最近は趣味に時間を費やせていなかった。
「先週までは、先々週に発売された樫戸隆正の新刊のおかげで気力が保てていましたが、さすがに」
「今週は無理か。見通しが甘かったな。――よし、起こそう」
気力管理部は、適切な気力管理のためにタカコの行動に干渉できる権限を持つ。気力がなくなれば、生命活動に支障を来すこともあるからだ。
とはいえ、今回はタカコが眠ってしまったので、他の部署とも連携してタカコを起こしてから行動誘導を行わなくてはならない。他を巻き込んでの残業だ。恨まれるのは必至だが、見通しが甘かった自分を恨むしかない。
「起きたら、着替えと風呂、食事でいいですか?」
「それは、ちょっと待った」
気力回復のための定石のプランを差し止められ、多加古は首を傾げた。
「今のタカコの状態で着替え、風呂、食事をさせると、たぶんマイナスになると思う。計算してみて」
場所をパソコンの前に移し、気力計算ソフトを起動させて多加古に行動を打ち込ませる。数秒も経たずに結果がはじき出された。高子の予想通り、補充どころか今の気力を下回っている。
結果を見守っていた多加古が驚きの声を上げた。
「わ、本当だ。どうしてですか?」
「疲れが溜まって、何をするにも通常よりも多くの気力を必要としているんだよ。気力を回復するための行動でも、その行動をするための気力が回復分を上回っているんだ。だから、マイナスになる」
「へえ、なるほど。高子さん、すごいですね」
「すごくない、すごくない。勤め出してから割とよくあるんだ、この状態。これだけ疲れているのは、久しぶりだけど」
「へえ」
「ともあれ、起こした後のプランを修正しないといけない」
高子と多加古はパソコンの画面に向き直る。
「まずは、着替え。これは譲れない」
外行きの服を部屋着にするだけで、体が楽になるし気分も切り替えられる。
「風呂はどうします?」
「うーん」
高子は悩む。
風呂は大いに気力を回復できる。服を着替えるついでに風呂に入れば、効率もいい。
ただ、風呂に入るためには浴槽に湯を溜めなくてはならならないし、風呂から上がったら掃除をしなくてはならない。この億劫な手間で、結構気力が減ってしまう。疲労が溜まっている今なら、なおさらだ。
「無しにする」
「わかりました。次は食事ですね。確か、冷凍食品か作り置きがあります。今から作るのは無理だから、これを食べた方がいいと思います」
「僕も同意見。それじゃ、計算してみて」
眠っているタカコを起こして、服を着替えさせ、食べさせる。昔はこれらの行動に伴う気力の増減を、いちいち電卓で計算しなければならなかったという。高子が気力管理部に配属されたときは、さすがにコンピューターに計算をさせていたものの、結果が出るのがかなり遅かった。ところが、今はあっという間に結果が出る。良い時代になったものだ。
しかしその結果に、高子と多加古は同時に目を見開いた。
「え、マイナス? 何で?」
「詳細を見よう」
アプリを操作して、計算過程を表示させる。
起床――減りが大きいが、予想の範囲内。着替え――予想通り。食事――大幅なマイナス。
「食べるだけなのに、この減りは何だ!?」
高子は訳が分からなくて思わず叫ぶ。一方で、多加古ははっとして自分の腕時計を見た。
「高子さん、時間です。九時過ぎてます!」
「何で時間が・・・・・・あ、ああ!」
一般的に、午後九時を過ぎての食事は太りやすいとされている。タカコも女。太るというワードには過敏だ。
「食事を軽いものに変えたとしても、結果は同じだよなあ」
「食べることは変わりないですから」
「うーん」
体重が少しばかり増えたとしても、見た目にはそれほど影響はないから食べて欲しいと言ってやりたいが、この声が届くはずもない。
「何か、罪悪感無く食べられるものはないか・・・・・・」
「あの、高子さん。いっそ食事を削ってしまったらどうです?」
「ええ?」
多加古の提案に、高子は難色を示す。
「単に食事を削ったとしても、気力の回復は見込めないと思うよ」
「はい。なので、シャワーを浴びるんです」
「食事を削って、シャワーにすると?」
「はい」
「うーん、想像つかない。計算してみて」
頷いて、多加古がパソコンに入力を始める。
高子は横でそれをじっと見守る。
シャワーは思いつかなかった。浴槽に湯を張る必要がないし、掃除も最低限で済むし、気分転換にもなって良い手段だ。けれど、食事を削ってしまうというのは、どうだろう。食事は大きな気力回復手段だ。シャワーがそれになり代われるとは思えない。
計算アプリはいつもより少し時間をかけて、結果を打ち出した。
ほんの少しだが、プラス。
わざわざ起こすほどの回復量ではないが、他に代案も思いつかない。
「よし、これでいこう。各所にメールして。俺は電話するから」
「はい」
多加古がマウスを動かす横で、高子は内線で各部に電話を始める。
もう終業しようとしている各部署に残業をお願いするのだ。恨みがましい相手の声を聞きながら、高子はひたすらに頭を下げるのだった。
※
ベッドの上で、多香子は目覚めた。
はたと、自分が着替えないまま眠ってしまったことに気づいて身を起こす。慌てて時間を見れば、まだ夜の十時だった。
(あー、良かった。朝まで寝てなくて)
胸をなで下ろし、のろのろとベッドから降りる。着替えるついでにシャワーを浴びよう。そう思って、箪笥から服を引っ張り出し、浴室へと向かった。
※
「よし、ここまでは順調」
「計算より、気力の回復も大きいです」
多加古の報告に、高子は満足げに頷く。
だが、問題はこの先。シャワーからあがってから、どれだけ気力を回復させられるかにかかっている。
ここはやはり、趣味に興じてもらうべきだろう。となれば、映画か読書になる。だが、どれを選べば最も気力が回復できるか。
「多加古。映画と読書、次はどちらが良いと思う?」
「分かりません」
すかさず帰ってきた答えに、「そうだよね」と高子は肩を落とす。
分からないのなら、もう仕方ない。
「タカコに任せよう」
高子の言葉に、多加古は頷いた。
※
着替えてシャワーを浴びると、少し気分が楽になっていた。
冷蔵庫を開けて400ミリリットルミネラルウォーターを取り出す。コップに注ごうかと思ったが、中身が残り少ないので止めた。ペットボトルを煽る。ぐびぐびと喉を鳴らして中身を飲み干してしまうと、ほっと人心地付いた。口元を腕で拭う。とてもではないが、女子力の欠片もない姿だ。人には見せられない。
注ぎ口だけを洗い、流しにひっくり返して置いておく。乾いたら資源ゴミに捨てておこう。
そこで、自分が夕飯を食べていないことに気づく。流しに寄りかかりながら、どうしようか考えて、今日の夕飯は見送ることに決めた。お腹空いてないし、片づけるのが面倒くさいし、食べたら太る時間だし。女子力はないが、体重を気にする乙女心は少し残っているのだ。
しかしそうなると時間が余る。寝るには早すぎるし、どうするか。ぼんやりと思案しながらベッドの上に戻る途中、一冊の本が多香子の目に入ってきた。
かなり昔に購入した本だ。買ったばかりの時は何度も読み返したが、最近は全く触れていない。久しぶりに読んでみるか、と多香子はそれを拾い上げてベッドの上に戻った。
※
「おお、懐かしい! 田妻早実の『ソーランド・ネスト』だ」
「・・・・・・」
「この本、俺がここに配属されたときに丁度タカコがはまっていた本なんですよね」
「・・・・・・」
「だから、すごく思い入れが深くて。久しぶりに読むと、なんだか興奮しますね!」
「・・・・・・」
「高子さん?」
「・・・・・・」
「もしかして、泣いてます?」
「うう、ハルネー・・・・・・」
※
最後のページを読み終えると、多香子は大きく息を吐いた。
久しぶりとはいえ、かつて何度も読み返したというのに、気づけば夢中になって読み進めてしまった。体の内側が満たされたような、もしくは空洞になってしまったような不思議な心持ちで、多香子は見慣れた天井を仰ぐ。
「やっぱ、面白いわ。ソラネスさいこー」
小さな声で賞賛し、多香子はもう一度同じ本を開いた。慣れた手つきで頁を繰り、お気に入りの場面で手を止める。
登場人物の一人、ハルネーの孤独な死に様。そのシーンを読む度に、多香子の目を潤ませてしまう。
「うう、ハルネー・・・・・・」
悲惨な生い立ちでありながら、人と関わることを愛し、最期は友人や密かな思い人の為に遺体すら残さず一人で死んでしまう。神の目線に立つ読者はその事実を知っているものの、作中の登場人物たちは最後まで彼の死を知らないままなので、彼らがハルネーのことを口にする度に読者は胸を痛ませるのだ。
主役ではなく、敵役でもなく、鮮烈な脇役。
もしも、『ソーランド・ネスト』の登場人物人気投票をしたら、おそらく主人公や敵役を押さえて一位に躍り出るのは、ハルネーではないだろうか。少なくとも、多香子はハルネーに一票を投じる。
今度こそ多香子は本を閉じた。
そのまま、ごろりとベッドに寝転がる。しばらくは読後の余韻に浸っていたが、ふと携帯電話を引っ掴んだ。
他の人は、この本やハルネーについて、どう思っているのだろう。
誰かと語り合いたいけれど、こんな夜更けに友人に連絡するのも気が引ける。インターネットなら、誰かが感想をこぼしているのではないか。そう思って、検索エンジンに『ソーランド・ネスト』と打ち込む。
検索結果はすぐに出てきた。最上位には、『ソーランド・ネスト』の出版社。次は、有名な大手インターネット通販サイトだ。このサイトには購入した商品の使用感を述べる欄がある。商品が本の場合は内容への感想になるので、早速そちらにアクセスする。
少しだけ待つと、『ソーランド・ネスト』の商品紹介ページが出てきた。感想欄は下方にあるので、画面の上で指を滑らせてページを動かす。やがて、感想欄に行き当たった。
そこには、「ソラネス最高!」という感想から、「つまらない。何故この本がこれほど人気なのかよく分からない」といった意見まで様々あった。時に、異様なほど内容を扱き下ろしている感想もあるが、それについては深く読まないようにする。
とりあえずざっと読んだところ、自分と同じようにソラネスを面白く思っていて、ハルネーが死んだシーンが一番印象に残っているという意見が多いようだ。何処の誰かも分からないが、自分が好きなものを同じく好きと言ってくれることに嬉しく思う。
良い気分になりながらサイトを閉じようとした寸前、ふと一つの感想に目が止まった。
その感想は、多香子と同じくソラネスを面白く思っていて、ハルネーが一番好きだというものだった。だが、多香子の目に留まったのはその部分ではない。
――ハルネーと『クララデータ』の春野は同一人物だと思っています。
春野とは誰だ? 『クララデータ』とは何だ?
多香子は再び身を起こした。再び検索エンジンを起動させ、「クララデータ 春野」と打ち込む。
調べたところ、『クララデータ』と『ソーランド・ネスト』は全くの別作品であるとのことだ。世界観も著者も違い、同じなのは出版社だけ――ということになっている。しかし実際には、『クララデータ』にところどころ『ソーランド・ネスト』を想起させる描写がある事と、『クララデータ』の著者名が『ソーランド・ネスト』の著者名のアナグラムになっている事から、『クララデータ』は『ソーランド・ネスト』の作者の別名義作品ではないかと囁かれていた。
何故作者や出版社がそのような事をしているのかは分からないが、問題はそこではない。
『ソーランド・ネスト』のハルネーと、『クララデータ』の春野。この二人が同一人物ではないかという説は、『クララデータ』が出版されてすぐに噂されていた。春野の言動が、あまりにもハルネーと『ソーランド・ネスト』のストーリーを思い起こすものだったからだ。両者の関係について、著者は黙秘を貫いている。
ハルネーが好きな人は、きっと『クララデータ』も気に入るはず。
インターネットに載せられた感想の一文に、多香子の読書欲は燃え上がった。
※
気力の回復量を示す棒グラフが、ぐんぐん上昇していく。
「すごい。気力がみるみる増えていきます!」
「よしよし。このまま勢いに乗ってくれ」
高子と多加古が見守る中、多香子はまず地元の公立図書館のホームページにアクセスした。そこでは市内全域にある公立図書館の蔵書検索ができる。もし『クララデータ』がどこかの図書館にあれば、その場で近くの図書館まで取り寄せることが可能だ。誰かが借りていたとしても、予約することもできる。
多香子は興奮したまま検索する。その結果、目的の本は所蔵されているものの、あまりの人気作のため予約件数が二百件を超えている事が分かった。予約すれば半年先くらいには読めそうだが、多香子は今すぐにでも読みたい心境である。しかし今すぐ読むなら、通販にしろ本屋で買うにしろ、お金を払わなくてはならない。
その瞬間、棒グラフの伸びが止まった。
「ああ、金が絡んだせいで気力の伸びが止まった!」
「大丈夫、止まっていない。遅くなっているだけだ」
嘆く多加古に、高子は首を振る。
棒グラフは一見止まってしまっているようだが、よくよく見ると上昇している。
「趣味のための出費だから。悩むのもまた、少し楽しいんだろう」
先ほどまでの勢いはないが、順調に気力は回復していた。
※
多香子は、悩んでいる。
本を買うか否か。
ハードカバーの本の料金はそこそこする。安月給には辛い出費だ。しかも半年経てば読める本だと思うと、購入の意気が挫けてしまう。
多香子は再び、大手通販サイトにアクセスする。そして今度は『ソーランド・ネスト』ではなく、『クララデータ』の商品紹介ページへと飛んだ。慣れた手つきで画面を動かし、下方の感想欄へ。
そこに並ぶのは、賛否両論の様々な感想だ。『ソーランド・ネスト』の時は、どちらかというと肯定的な意見ばかりを見ていた。けれども今回は否定的な意見を見てしまう。
面白くない。つまらない。ソラネスで終わっておけば良かったのに。読まなければ良かった。
作品への否定的な言葉が、多香子の購買欲に水をかける。このまま火が消えてしまうのなら、それまでの話だ。半年待って、図書館で借りればいい。
けれど、感想には肯定的な意見も並んでいる。
面白かった。ソラネス好きな人は読むべき。ソラネスを抜きにしても、これだけで面白い。――それらの意見は、萎んでしまった多香子の購買欲を再び燃え上がらせる。
散々悩んで、多香子は大きな溜息と共に決めた。
「買おう」
決めてしまえば気が楽になった。
そのまま商品購入ボタンを押そうと指を動かす寸前、手が止まった。
※
「ちょっと待て、タカコ!」
叫びながら、高子が行動抑制ボタンを押した。今にも購入ボタンを押そうとしていたタカコの指が直前で止まる。
突然の大声に、多加古はぎょっとして高子を見た。
「どうしました、高子さん。本を買うのに何か問題でも?」
「本を買うのには賛成だ。だが、通販サイトで買うのは反対する」
「どうして?」
「もっと気力が稼げる買い方がある」
そう言って、高子はマイクを引き寄せた。
「あー、あー。タカコ、私は君の内なる声だ。聞こえているかな?」
タカコからの返事はない。その代わり、タカコを写すモニターの右端に小さな耳のマークが付いた。こちらの声が聞こえているという証だ。
「単刀直入に言おう。タカコ、通販サイトで買うよりも、明日本屋で買った方がいい。その方が早く読める」
「なるほど」
隣で小さく多加古が呟くのを聞きながら、高子は続ける。
「通販は時間がかかる。しかも、配達したときに不在だったら再配達してもらわなければいけない。その点、本屋で買うのは簡潔だ。本棚からレジに持っていって精算してもらえば君の物。そうだろう?」
高子の説得に、タカコの指が購入ボタンから離れる。ほっと胸をなで下ろしたとき、隣の多加古が高子のマイクを奪った。
驚く高子に頭を下げて、多加古はマイクに向かう。
「もしもし、タカコ。それなら、電子書籍という選択もあるよ」
耳のマークが点いたのを確認しながら、多加古は更に言う。
「電子書籍なら今すぐ読める。データだから場所も取らない。初めての電子書籍だから不安かもしれないけど、何事にも初めてはある。むしろ、これは初体験のまたとないチャンスかもしれないよ」
モニターの向こうでタカコが悩み始めた。だが、気力の回復を示す棒グラフは止まっていない。どちらに転んでも楽しい悩みだからだろう。
マイクを切って、高子は多加古に向かって親指を立てる。
「よくやった」
「いえ」
多加古は笑い返す。
後は見守るだけだ。さて、タカコはどうするのだろう。
二人でじっとモニターを見ていると、ピリリと内線の着信音が鳴り響いた。電話の近くにいた多加古が受話器を取る。
「はい、気力管理部です。はい・・・・・・はい・・・・・・え? あ、そうですね。少々お待ちください」
多加古は保留ボタンを押して、高子を見る。
「高子さん、体力管理部の方からなんですが・・・・・・」
「なに?」
多加古が伝えた電話の内容に、高子は目を見開いた。
※
「あー、悩む。どうしよう」
多香子は大きく息を吐いた。
最終的には本を購入して読むのだが、購入する方法、本の媒体まで選択しなければならないとは、現代は複雑化している。
だが、嫌ではない悩みだ。趣味のためなら苦労も楽しい。疲れも吹っ飛ぶ。
とはいえ、少し眠くなってきたかもしれない。時間を確認すると、いつの間にか十二時を超えて二時になろうとしていた。ちょっと遅くまで起きすぎたようだ。
「寝るか」
考えも煮詰まってきたことだ、丁度良い。多香子は携帯電話の目覚まし機能をセットして、電気を消し、ベッドに潜り込む。
明日購入する『クララデータ』と春野とハルネーに思いを馳せながら、目を閉じた。
※
本格的に照明が落ちるまで、後わずかだ。稲妻のようなスピードでキーボードを叩く多加古を、高子は横で見守っている。
体力管理部の電話は、タカコをそろそろ寝かせてほしいというものだった。タカコの体力はもちろん、職員たちの体力を考慮しての話だ。確かに、気づけば日を跨いでいる。一度は眠ったタカコを起こしての業務だ。気力は十分回復していたので、高子はこの意見を受け入れた。
体力管理部からの干渉を受けて、タカコはもうベッドに潜ってしまっている。急いで気力の最終確認をしなければならない。そのような処理は高子よりも多加古の方が圧倒的に速いので、高子は下手な手出しはせず、はらはらしながら多加古の手さばきを見つめていた。
そして、多加古はやり遂げた。
「最終的には、こうですね」
多加古が、パソコンの画面を見せてくれる。それは、潤沢な気力の量だった。数時間前まで枯渇しかけていたとは思えない量だ。
「良かった。この分なら、余程のことがない限り明後日まで持つだろう」
「明日は『クララデータ』を読むでしょうし、何事もなければ来週まで持つかもしれません」
多加古の意見は少し楽観的だが、高子は頷いた。
タカコも生きるために働いている。生きるだけでも気力を使うのに、仕事で嫌な思いをすれば、なおさら気力は消費される。それは仕方のないことだ。
けれど、体を休めたり、楽しいことがあったりすれば、気力は回復する。気力を使う以上に楽しいことがあればいいと、高子は願う。
とうとうフロアの照明が落ちた。タカコが眠ったのだ。
すぐに省エネ照明に切り替わるが、これもすぐに消すと既に体力管理部から連絡が回っている。気力を回復させたからといって、体力の回復をおろそかにするわけにはいかないのだ。二つの両立があって、生きることができる。
優秀な多加古は、すでにデータを保存した後パソコンの電気を消していた。パソコンの画面が真っ暗になると同時に、フロアに間の抜けた音楽が響きわたる。
『本日の業務は終了いたしました。職員は速やかに休息に入ってください』
機械的な声を聞きながら、高子と多加古は向かい合う。
「お疲れさまでした、高子さん」
「お疲れさま、多加古くん。また、明日」
「はい、また明日。よろしくお願いします」
多加古が頭を下げると同時に、辺りは暗くなった。
どちらともなく、ほう、と息を吐く。
明日も、何か良いことがありますように。
深い眠りに溶けながら、そっと願った。