五の常日『ハレギとケガレ』
長らく更新をお休みしました涙
ちょこちょこ書いてはいたのですが、なかなか纏まりませんでした。
お楽しみいただけると嬉しいです。
「土地に住まう者の恨みつらみ、そして欲。まるで水底に溜まる澱のようなものを穢と呼ぶのだ」
主様の指が指す先にあるのは、とぐろを巻く黒い何か。人々には見えていないようで、すれ違う度に黒い何かがその人の纏う澱を吸い成長していく。そうやって大きく育ったのだろう。一際成長したモノが、全部で八体。高い場所から見下ろせば、それはまるで鎌首を持ち上げた蛇の頭のようにも見えた。
「では、アレを私が土地神様の元へお連れするのですね。」
緊張からか、ほんのわずかに声が震える。主様は眉根を寄せた。
「さすがにあなた一人では荷が重いだろう。花影を付き添わせよう」
「仰せのままに、主様」
腰を折って、花影は優美な仕草でそれを受けた。その一挙手一投足が、心底うらやましいと思った。何もかもが足りない今の私には出来ないものだから。
主様は、また花影を頼られるのね。親しげに呼ぶ彼女の名を聞くと、なぜか胸が苦しい。胸の奥が爛れたように重くなって、何かに押し潰されそう。こんな気持ちではいけないと小さく首を振った。
「大丈夫です、一人でできます」
「あら、花嫁様には荷が重いのではありません?」
「その……いつも頼りきりでは申し訳がなくて」
「失礼ながら大事なことは主様の願いを叶えることですのよ? この期に及んであなたの意思など関係ありませんわ。やってみてできませんでしたでは済まされませんの」
教え諭すような口調は愛にあふれているようだった。だからこそ表情とは裏腹な突き刺す気配に気がつくというものだ。たぶん、試されているのね。だからって、このまま彼女の言いなりになるわけにはいかない。
「大丈夫です、主様。やらせてください」
すると彼は笑みを浮かべた。彼もまた、私がどう彼女をあしらうのか試していた。黙っていたのは見極めるため。優しく甘やかすだけが愛ではない。己の才覚を試すことなく従うのは逃げているのと同じだと、言われているような気がした。脳裏に昨日の出来事が思い浮かぶ。
主様の言ったとおりに、程なくして彼女は戻ってきた。手に持つ花籠から取り出されたのは何枚もの袿と、見るからに質が良いと思われる化粧道具が一式。袿の装飾は控え目ながら華やかな色合いに目が眩むほどだった。
これを地味な私が? とまどう私を上手いこと誘導して、花影が手際よく着付けてくれる。
「さあ、着付けが終わりましたよ」
季節を配慮して色を合わせた袿は、とてもよく私に似合った。外出を目的とするために動きやすいものを選んではいるがそれでも女官服とは勝手が違うようだ。はじめての着心地にとまどっていると、今度は彼女が化粧を施してくれた。
為すがまま、というのはこういうことを言うのね。緊張のあまり、微動だにできない私を気遣って、彼女は自身のことや土地での出来事を面白おかしく話してくれる。その心踊る内容の数々に、気がつけば笑みがこぼれていた。
「ふふ、花嫁様は笑顔が似合いますのね」
「そ、そんなことはないと思いますが……」
「年頃の女性が難しい顔をしていても、もったいない。主様が花嫁様に心配りをなさるのは披露のためという理由だけでなく、純粋に花嫁様に喜んでいただきたいからだと思いますの。ですからどうか主様の隣ではその表情のまま、面白おかしく笑っていてくださいませ」
とはいえ、急に笑えと言われると、どうしたらよいかわからなくなる。笑顔とは呼べない微妙な表情になったところで扉の外から声がかかった。
「入ってもよいか?」
「ええ、ちょうど支度がすんだところですわ」
主様の声に応じた花影が扉を開ける。視線が合うと、無言のまま驚いた表情で私を見つめている。
やはり似合わないのかしら。華やかな衣装は着る人を選ぶという。着慣れない私にはどう振る舞えばよいかわからない。
「花嫁様、その場でくるりと回って主様によくご覧になって頂いて。そうすればあなたの心持ちも変わりますわ。」
「こ、こうですか?」
恥ずかしく思いながらも、その場でくるりと一周回ってみる。ふわりと揺れる鮮やかな袿の色。裾からは品よく重ねた衣の色合いで一層華やかさが増した。たしかに、色鮮やかな衣装は心浮き立つものらしい。
いつの間にか口元に微笑みが浮かんでいた。
「……これはまた予想以上だ。美しいよ、誰よりも輝いて見える」
主様は嬉しそうに目を細めると私の手を引いた。誰よりもって、それは言い過ぎではないのかしら。
「彼女の旅立ちに相応しき晴着。見事だな、花影」
「ありがとうございます。」
彼女は優雅な所作で礼を返した。彼女のような人を洗練された大人の女性というのかしら。
もっと努力すれば私もこうなれる? 綺麗な袿に心が浮ついていたことも否定しない。
ふと射抜くような視線と交錯した。そこには月のない夜の闇を思わせるような深い黒の瞳があった。まるで浮ついた気持ちを見抜かれたようだった。
『あなたは、本当に主様の隣へ立つのに相応しい人なのかしら?』
ああ、気づきたくなかったのに。浮かれた気持ちが急速に冷めていく。彼女の闇の奥に隠された優越感に気がついてしまった。今のままの私では彼女には敵わない。主様の信頼に応えるだけの器量を私は持たない。
彼女の素晴らしさを知るほどに。胸の奥が騒がしくなる。伏せた視界の端に主様の手が映った。
「さあ、我が花嫁。我が力の一端を披露しよう」
そして私を部屋の外へと連れ出した。途中、廊下ですれ違った侍女に外出する旨を伝えた。するとしばし進んだところで神官長が慌てて追いかけてくる。主様が問題の方角にある土地の名を尋ねると、訝しむ表情を浮かべつつ神官長が答えた土地の名は、やはり巫女様の故郷であった。
そのまま手を引かれて誘われた先は冥府への入り口、主様が最初に姿を現した戸の前だった。必死の形相で行き先を問う神官長に主様は行き先を告げず、ただ夜には戻るとだけ伝えると戸を開けた。戸の内部をのぞき込んで、驚愕の表情を浮かべて固まる神官長を置いて、私と花影を戸の内側へと誘った。
戸の奥は、黒と、灰と白だけが景色を織りなす不思議な世界が広がっていた。まるで異国に伝わる水と墨のみを使い描かれた水墨画のような景色だ。躊躇いながらも足を踏み出す私を置き去りにして、花影はさっさとへと踏み出した。
「お覚悟なさって。のんびりなさっているなら、私が美味しくいただいてしまいますわよ?」
真っ赤に染まった唇を、ぺろりと舐めて。すれ違いざまに囁く声が聞こえる。またひとつ、胸の奥が騒いだ。
「これもまた、試練というものかしら」
「どうした、大丈夫か?」
「なんでもありません」
覚悟などできているはずはない。宵宮の本当の役目を聞いたのはまだ昨日のこと。だからなんだというの、しっかりしなさいな。今からでも、遅くても、腹を括らなければ。
主様の期待に応えたい。
彼と視線が絡む。極上の笑みの奥に滾る熱が、私を縛る。この方についていくのなら私は逃げるわけにはいかない。心の内を読んだのか主様の笑みが一層深くなった。仕方がないわ、こうして出会ってしまったのだもの。
この世とあの世の境にある戸が閉まる、その少し前。
私はふわりと笑った。
いかがでしたでしょうか。
次話はもう少し早めに投稿したいです。