幕間 青天に霹靂を②
改訂作業で追加しました
「嘘ですね」
「なぜおまえが否定する!」
しらけた顔で鬼師三白が即答した。
「あたりまえでしょう、私の伴侶は宵宮ですから。うちのところは千六百年経っても相思相愛です」
「羅刹鬼孤月の嫁なんて種族どころか世界を越えてまで嫁いできたぞ?」
「彼女達の番に対する愛情の深さは桁違いなんですよ。命すら惜しくないくらいに」
「説得力が違うな」
うろたえるか、怒り狂うと思っていたのに。
だがどれほど待っていても、三人共に冷めた眼差しで見下ろすだけだった。
「……なるほど、自ら唇を重ねて宵宮に噛みつかれたか。盛大にやり返されて火がついた」
目をすがめて、冥府の主は皮肉げに呟く。
――――なぜそれを知っている。怒りと羞恥で双面の顔が歪むのを主はニヤリと笑った。
「残念ながら彼女の唯一は私だ、彼女が求めるのは絶対におまえではない。どれだけ彼女に焦がれようと、おまえが選ばれることはないのだ」
なぜなら創造主の手によって彼女の魂はそう作られているから。宵宮と客人が協力して神渡りの闇を共に守るためにはそうするのが効果的だからだ。
「彼女が助けてくれと縋るのは私なんだ、悪いな」
完全にバカにされて遊ばれている。
どうしても崩れない余裕のある表情に、双面は手を出しかねてギリリと唇を噛んだ。
「おまえはどこまでも間抜けな男だな。嘘を吐いて誤魔化そうとしても無駄だ。ここは冥府、肉体を失って魂となったおまえが私の前で嘘をつけるわけがないじゃないか。真実は全部筒抜け、おまえが何を言い、宵宮に何を言われたか私は全て知ることができる」
「ならばなぜ、怒りに駆られて俺の魂を砕かない! おまえはあの娘を愛しているのだろう?」
「だからだよ」
「は?」
「一片の瑕疵もなく、完璧な状態で彼女を迎え入れるためだ。彼女に憂き目を見せたくない」
ガス抜きのおかげと、拒絶する宵宮の健気な姿にグッときて気が削がれたのもある。
――――あなた程度の男に主様が負けるとでも?
きっぱりとそう言い切ったときの彼女は清廉で、赤みを帯びた口元が弧を描き嫣然と笑っていた。清楚でありながら妖艶さも持ち合わせるなんて、最高じゃないか。思い出して、口元がほんの少しだけ緩む。すると隣から鬼師三白の咳払いが聞こえてきた。いかん、仕事だ仕事。
「それにしても、ずいぶん好き勝手してきたようだな。他人に罪を擦りつける秘儀だと、アホらしい。おまえの言うことは嘘と偽りばかりだな」
「なっ、どうして。……まさか魂の記憶を!」
「それが仕事だからな。双面、なぜおまえが人間に受け入れられなかったかわかるか?」
「それはあいつらが無能だからだ。力を持ち、さまざまな能力に秀でた俺に嫉妬した」
「違うよ、おまえが中途半端だったからだ。人間に寄り添うわけでもなく、自分と彼らは違うと自ら線を引いた」
「違う、違う! あいつらが先に俺を仲間外れにしたんだ! 仲間でないのだから穢の贄にして何が悪い!」
だから俺は悪くない。悪いのは人間のほうなのだ。
呆れた顔で否、と冥府の主は即答した。
「ならばなぜ、冥府を裏切った? 少なくとも我々はおまえを仲間はずれにはしていないぞ?」
「それは……だが、頼まれて仕方なく迎えたのだろう⁉︎ 当たり障りなく接していたのが証拠だ」
「あたりまえだろうが、我々にとっておまえは客人なのだから。なぜ我々が万事おまえの望むように振る舞わなくてはならない? 我々には心がないと思っていたのか?」
俺にだって心はあった。誰にも理解されず、傷ついて血が流れてこうなった。
だから俺は悪くない。俺のほうが悪いなんて理不尽が許されるわけがないのだ。
「おまえは知らないだろうが異なる時空にある世界には蝙蝠の出てくる童話があってな。毛皮と牙があるから獣の仲間だといい、翼があるから鳥の仲間だという。種族の間で争いが起き、戦争になっても最後までどっちつかずだった。おまえはその蝙蝠と同じだ。どっちつかずだから信用されず、最後は仲間はずれにされた」
「言っている意味がわからんな」
「これを見てもか?」
手のひらをかざすと、何もない空間にぼんやりとした映像が浮かび上がる。激しい通り雨とともに、黒狐が一匹忍び込んで持ち帰ってきたものだ。
『気づかれてはいまいな?』
『はい』
『力だけが強くて、駆け引きに疎い者というのは操るのも楽で助かる。おまえの手足となるように、術者を神殿に差し向けておいた。あの者が帝を排し我らが権力を手に入れれば、もう用済みよ。上手く誘いをかけて、あの者を冥府に帰せ。術者には冥府に繋がる戸を閉じる力がある。どう追い返し、いつ戸を閉じるかの判断はお前に任せよう』
宰相と、陽の巫女。自分が帰ったあとに二人が何やら画策していることには気がついていた。だがどうした、俺は最初から奴らを信用していない。人間とは裏切る生き物だ、この程度で俺の心が揺らぐものか!
裏切られて受ける痛みなど、とうに忘れた。ただ陽の巫女の諦めたような微笑みだけは、ほんの少しだけ記憶に残ったけれど、それだけだ。
「だからなんだ。この程度の裏切りで、俺が動揺するとでも思うのか? こんなもの、俺の人生では当たり前のことだ、いまさら動揺も、傷つきもしない。ハハ、残念だったな」
「……そうだな、本当に残念だよ。陽の神が人間達の守護者であれと願って生まれたおまえが、ここまで堕ちてしまったことに。裏切る者は裏切られる。先に神の期待を裏切ったのはおまえのほうだ」
「守護者になりたいなんて、そんなこと俺は望んでいない!」
「では陽の神が与えた頑健な肉体や特殊な力は飾りか? 全く使わず恩恵も受けなかったと言えるのか?」
「ふん、与えられた力は俺のものだ。俺の好きに使って何が悪い」
「そう、つまりおまえは世を混乱させるためだけに神の与えた力を使い、守るべき人の命を軽んじた。それに相応しい罰を与えなくてはな」
片手で双面の魂を押さえたまま、命を受けるために羅刹鬼青坡はひざまずいた。
「罪人を奈落の底へ収容せよ。そして八将に預ける、だから好きにしていいぞ?」
途端に羅刹鬼と呼ばれるにふさわしい凶相が羅刹鬼青坡の顔に浮かんだ。
想像を絶する陰鬱で凄惨な笑みに双面はゾッとした。元より冥府の住人は聖人ではないのだ。誰もが凶暴で苛烈な一面をその身に宿す聖人君主には程遠い者ばかり。だからこそ転生せず、望んで冥府の住人となることを選んでいるのだ。
冥府の住人ではあったが、どっちつかずだった双面はこの凶暴性に全く気がついていなかった。自由気ままで、気が良いという外面に騙されて侮った。だからこそ無謀にも手が出せたのだ。
「日々、励む将達にも癒しとなりましょう」
見下ろす羅刹鬼青坡の顔を見た双面の背筋が凍りつく。傲慢にも陽の神に成り代わろうと画策し、皆見の土地神を冒涜した。そのうえ冥府の主が好きにしていいと許したのだ。もはや彼への仕打ちを咎める者は誰もいなかった。奈落の底でどれほどの責苦が待っているのか、神にすら見放された男には想像もつかないだろう。
「奈落の底ならば犼駝の遊び相手になってくれるだろうから、ちょうどいい」
「ああ、では羅刹鬼孤月は手が出せませんなぁ。また氷雨殿に噛みつかれる」
「奴のいないほうが他の羅刹鬼が喜びそうだから問題ないだろう」
犼駝は奈落の底で飼われている狗だ。巨大で真っ黒な体、火を操り毒の息を吐く。一応霊獣なのだが同じ霊獣でも白虎の氷雨とはとことん相性が悪いらしく、顔合わせの日には縄張り争いの体を成して堅牢なはずの奈落の底が揺れた。あれには冥府の主である自分が驚いたくらいなので、いろいろ想定外だったことは察してほしい。
羅刹鬼孤月が奈落の底に降りたときは、戯れてくるのをかまって遊んでやっていたようで、それが氷雨には気に入らない。奈落の底から帰ってくると、大抵噛みつかれるか、踏みつけられている。が、噛まれても踏まれても幸せそうなので放置しているが。
「まあとにかく、好きにしていいが砕かぬように。それだけは周知してくれ」
「御意に」
「なぜ、そんなひどい仕打ちを!」
「そんなこと決まっている。冥府を裏切ったからだ」
「は?」
「おまえを預かったのは陽の神に頼まれたからだ。ただ預かったからには、冥府の住人として暮らせるようにおまえのために棲家を整え、衣食を与えた。つつがなく生を全うできるように我々は環境を整えたはずだ」
「……」
「それだけじゃない。思い返してみよ、誰もおまえを見た目だけで怖がらなかったはずだ」
冥府の住人にも似たような苦労を味わってきた者がいたから。彼らと助け合っていけるものと、信じていたから。
「だがおまえは我々の信頼を裏切った。冥府の住人は裏切る者には容赦しない。裏切り者にふさわしく、冥府の責苦を余すことなく体験してもらおう」
「っ!」
裏切り者は許さない。
冥府には、冥府の掟がある。だから秩序は保たれるのだ。救いを求めるように双面は青白い顔で天を仰いだ。
「残念だが、陽の神はおまえを助けないぞ」
本当にどこまでもどっちつかずの男だ。善人ではないが、悪人にもなりきれない。だから陽の神も一度は情けを掛けたというのに。ひとつ首を振り、地に向かって手を翳した。
「時間切れだ……冥府の主として命ずる、奈落の底へ収容せよ」
ヴォオオオオオオオーーーーン。
地鳴りのように響くのは数多の人々の悍ましい呻き声。口を開くように、ぽっかりと底の見えない大穴が開いた。その穴から無数の手が伸びて、双面を穴の底へと引き摺り込んでいく。
「いやだ、イヤダアアアアアアーー!」
抵抗虚しく、あっという間に姿はかき消えた。
興奮した犼駝の吠える声を残して静かに大穴が口を閉じる。
これでひとつ終い。
さて急がねば、主は振り向きもせず羅刹鬼青坡に声をかけた。
「双面のこと、あとは任せた」
「御意に」
「主様、寧々が急ぎ冥府の四つ辻まで案内するということです」
いつの間に戻ってきたのだろう、鬼師三白の腕の中で墨絵の猫がにゃあと鳴いた。気持ちはうれしい、だがそれすらも時間がもったいないと思った。渡された双面の首を懐にしまう。
「ありがとう。だがこのまま直接戸まで向かうつもりだから不要だ」
「承知しました」
「鬼師三白、後始末は頼んだぞ」
「もちろんです、あとは心配なさらず。お急ぎください」
全ての台詞を聞き終わらないうちに空間を繋ぎ例の戸の前に立った。そして引き手に手を掛け、一気に開け放つ。するとキンという音がして結界に阻まれた。だが一瞬ののちに霧散する。陽の神によって現世に立ち入ることが許されたからだ。しかも冥府から現世の人間を守るために身を焼くはずの陽光が、全くこの身を焦がさない。
冥府の住人が領域を侵すことを許している、それだけ失望と怒りが深いという証拠だろう。
ああ、今も神が怒りに震えている。肌で感じるほどに神気がピンと張り詰めていた。それなのに聞こえてくるのは能天気な人間どもの耐えがたい嘘ばかり。知らないということは、なんとも恐ろしいものよ。
裁きのためと理性で押さえつけていた怒りが膨れ上がっていく。怒りと共に変化していく体。宵宮の気配がするほうへと、ただ走る。ああ、愚かな人間どもよ。日が照り、空が青いことを当たり前と思う愚かさを打ち砕いてやる。
さあ青天に、霹靂を――――。




