幕間 青天に霹靂を
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時は遡って、神渡りが終わった間もなくのこと。
現在進行形でとある事件が起きていて、冥府の住人達は浮き足立っていた。彼らにとって、まさに青天の霹靂だ。
冥府の主である自分は息をつく暇もなく仕事を片づけていた。鬼師三白からは終わらなければ部屋を出るなとまで厳命されている。仕方ない、宵宮を手に入れるため、さまざまな無理を通したのだから。
「それにしてもまさか、ここを冥府と知りながら攻め入る者がいるとはな」
ニイと口角が上がる。面白い、ここまでたどり着いてくれば直々に相手になってやるものを。そうはならない自信があるからこそ、余計に残念だと思った。
冥府には冥府の掟がある。冥府の住人は皆、思い思いに振る舞ってはいるが一定の秩序は保たれていた。悪人を収容する場所だけに彼らを制圧するだけの実力はもちろん持ち合わせているし、気質も穏やかとは言い難い。それでも連携が取れているのは全て頂点に冥府の主という揺るぎない存在があるからだ。
戸を叩く音がするので視線を上げると、そこには羅刹鬼孤月がいた。そして最上位を示す黒き衣を身につけた自身に敬意を現す礼の姿勢をとった。
「愚か者を捕獲いたしました、いかがいたしましょう?」
「ちなみに、どこまでたどり着けた?」
「三階層まで、羅刹鬼青坡に討たれました」
「青爺か、いい歳なのに戦うのが生きがいの人物だからな。むしろご褒美だ」
冥府の主は苦笑いを浮かべ硯に筆を置いた。
「八将までか。四宝に届かないとは、腕前は口ほどでもない」
「本当は俺が戦いたかったのですけれどね」
「一対一だとしても、実力がその程度では四宝を相手にするのはキツイだろう」
四宝と八将は冥府の守護者である。羅刹鬼から選ばれ、選定基準は純粋な強さのみ。抜き出た実力を持つ曲者揃いだ。冥府の主が自ら選定し、外敵を退け、ときには脅威を排除する。そして冥府の安寧と秩序を守る代わりに報酬として主から専用の武器を与えられるのだ。羅刹鬼孤月の炎を吐く剣も四宝を拝命したときにもらったものだった。
「冥府に下る前に、陽の神様によって力を削られたのかもしれませんな。我々の害になってはいけないからと」
「本来なら現世の守護者となるために生み出された男の技量を試す良い機会だったから少々もったいない気もするが。冥府に攻め込んだ目的を聞き出すのが先だな。私が直接問いただそう」
「ただ聞き出すにしてもですね、口が……」
「わかっている、張り切りすぎたのだろう。奴の魂さえ無事ならばそれでいい」
羅刹鬼孤月が懐から取り出したそれを一瞥して、冥府の主は立ち上がった。それと同時に激しい音を立てて別室の戸が引き開けられる。真っ青な顔で、書類をにぎりしめた鬼師が飛び込んできた。
「どうした?」
「現世より知らせがきました。陽の巫女が断罪の小鎚を使うそうです」
「なんだと⁉︎」
「前代未聞です、よくあんなおそろしいものを……」
張り詰めたような緊張感が部屋に満ちた。沈黙を破るように、一拍ののち叫んだ。
「鬼師三白!」
「こちらに」
「調べろ」
「承知しました」
短いやり取りで、全て通じるのは相手が彼だから。青ざめた顔の鬼師から書類を受け取って鬼師三白は奥の部屋へと急いだ。なぜだろうか、胸騒ぎがする。どこか落ち着かない気持ちを押し殺して再び羅刹鬼孤月へと視線を戻した。
「先にそちらを片づけよう」
彼と共に建物を出たところで、今度は獄卒に声に呼び止められた。
「主様、お待ちください!」
「なんだか今日は忙しないな、どうした?」
「へい、それが亡者の群れが到着しまして」
「それがどうした、よくあることではないか」
「で、ですが亡者の一人が言うには、なんでも宵宮様の身内だと」
「!」
そうか、胸騒ぎの原因はこれだったか。触れれば胸元に忍ばせた折鶴がほんのりと熱を帯びる。彼女の身に危険が迫っている、そう思い至って振り向きざまに指示を飛ばした。
「羅刹鬼孤月、全責任は俺が負う。鍵を開けておいたから例の戸から宵宮の元へ向かってくれ。先ほどから嫌な予感がするんだ」
「っ、承知しました!」
「陽の神にも知らせておく。私は宵宮の身内を別の世界へ送り出してから急いで向かう」
「わかりました、必ず守ってみせます。氷雨!」
「ガウッ」
叫ばなくてもいるわよとばかりに足元で鋭く吠える声がする。
冥府から現世に至る扉の場所を彼らに教えておいてよかったと心底思った。神渡りで国の現実を目の当たりにした結果、万が一、不測の事態が起きたときに備えるためと羅刹鬼孤月と鬼師三白には戸のある場所を教えておいたのだ。冥府の主である自分の権限がなければ、どちらにせよ開かないのだからかまわないだろうと。そして六百年前の宵宮であった氷雨も、観光気分でついてきていた。鼻のきく彼女が場所を知っていることも運がよかったとしか思えない。羅刹鬼孤月は、ひらりと氷雨の背に跨がった。
「待ちなさい、羅刹鬼孤月!」
誰かが止める声がした。声のしたほうへ振り向くと、突然眼前に鬼師三白が姿を現した。墨絵で戸が描かれており、彼の腕には寧々の姿もある。どうやら彼女の力で戸を描き、空間を繋いだらしい。それでも急いで来たのは確かなようで、服装が少々乱れている。
「道すがら報告書に目を通してください。そして指示どおりに。必要な根回しはすでに終わっています」
「根回し、必要なのか?」
「無駄に世界をひとつ滅ぼしたくなければ」
「……」
「冥道の四つ辻までは寧々が道を開きます。そこから先は自力でお願いしますね」
鬼師三白のまさに鬼気迫る勢いに目を見開いた羅刹鬼孤月は無言でうなずいた。そして氷雨は風のように駆け去っていく。彼らの背中を一瞬目で追い、鬼師三白は別の書類を差し出した。
「話は聞いております。宵宮様の親族を送り出す先はヤンナ・ルーダイがよろしいかと。調べたところ、宵宮様は喜多山の神を祀る祭司の一族でした。清廉潔白、ただ一人も欠けることなく最後まで宵宮様を信じ抜いて亡くなられたそうです。ヤンナ・ルーダイはそんな彼らにふさわしい平和な楽園。道案内できる者を待機をさせております」
手渡された履歴にはたしかに喜多山の神との深い縁が記されていた。
「なるほど。我が花嫁は祭司の一族で、しかも直系か。道理であれだけの器を持ち合わせているわけだ」
宵宮の家族が最後まで強く生きたこと、そして正しさゆえにたどった凄惨な末路も記されていた。
「限られた時間しかありません、とにかくまずは彼らの裁きを最優先に」
「まだだ」
「は?」
「おまえらしくない。情報が足りていないではないか」
やはり誤魔化されてはくれないか。鬼師三白は静かに息を吐いた。
「……答えよ、鬼師三白。魂を砕かれるのは誰だ?」
本当はなんとなくでも予想はついているくせに。
だからか、鬼師三白はこれほどに主が怒る姿をはじめて見た。急に温度が下がったようで、背筋に悪寒が走った。
「もう一度聞く。誰だ?」
「わかりました。これが真名と、生年月日。それから出生地です……覚悟はいいですね?」
「……」
周囲の羅刹鬼に目で合図を送ってから、ため息をついて解析した知らせの内容を渡す。
目を通した瞬間、一瞬にして目の前が真っ赤に染まり我を忘れた。
「主様! こんなところで暴れている場合ではないでしょう、花嫁様があなたを待っているのですよ!」
焦れた鬼師三白の怒鳴る声に意識を取り戻したときは、四宝を中心とした羅刹鬼が必死に自分を止めているところだった。ハッとして彼らを見ると手加減を忘れていたようで、全身がぼろぼろだ。
「勘弁してくださいよ、主様ー、冗談抜きでもう一回死ぬかと思った」
「す、すまない」
四宝は辛うじて立っているが、八将は半分以上が完全に伸びている。こんな激戦の最中でも普通に落ち着いて見ていられる鬼師三白は逆にすごいのではないだろうか。
「まあ、いいガス抜きにはなったでしょう。さあ、宵宮様の親族がお待ちです。とっとと裁きを終わらせて、彼らを送り出したら諸悪の根源が待っています。それを裁いてから出発です、いいですか?」
「わかった……」
「はい、はい。無駄に落ち込まない、とにかく急いで! 一刻も早く奪い返してくるのです!」
いつもよりも扱いが雑だ。だが今はこのくらいがちょうどいいのかもしれない。
「助かったよ、ありがとう」
「いいのです、荒れる気持ちはよくわかりますから。私だって、寧々を奪われたら我を忘れるでしょう。出会ってしまったら、もう出会う前には戻れません」
狂って、狂わされて。我々にとって冥の花嫁とはそういう存在なのですと鬼師三白は幸せそうに笑った。それから表情を改める。
「我々が使用許可を出していない状況ですし、陽の巫女が偽物であれば、間違いなく小鎚は正常に機能しないでしょう。ですがあれは陽の神が作られた神宝です。正しく使われないことで、逆になんらかの影響が出てしまう可能性はあります。楽観視はできません」
「愚かな人間どもが、覚えておれよ」
そこからは時間との戦いだった。宵宮の家族や親戚は誰もが協力的で、今もまだ苦しんでいるだろう宵宮の身を案ずる者ばかりだ。間違いなく、彼らは高潔な喜多山の神に愛されている。きっと今頃、お気に入りを奪われて怒り狂っているだろう。速やかに裁きを終わらせて、丁寧に送り出すと、諸悪の根源とも呼ぶべき男の元へと足を運んだ。
「久しいな、双面」
肉体を失った彼の魂が、ゆらりと立ち上がる。魂となっても人型を保てるとは、さすが陽の神の恩恵を受けていただけある。
「……何しにきたんだ?」
「決まっているだろう。おまえにも、ようやく冥府で裁きを受ける刻がきた」
「ハハハハハハハ!」
双面は、突然腹を抱えて笑い出した。その首筋に籠手をはめた手が伸びる。そして首筋を掴むと地面に叩きつけた。
「痴れ者が。冥府の主様に対して頭が高い」
「青爺、相変わらずだな」
「愚かな男に現実を教えてやる滅多にない機会ですからの。四宝にすら見せ場を譲ってやる気はありませんな」
羅刹鬼青坡は豪快に笑った。殺伐とした場面に似つかわしくないが、なんとも楽しそうだ。そんな楽しそうな彼の腕の下で双面は呻くよう呟いた。
「冥府の主、のんびりしていていいのか?」
「というと?」
「おまえが唯一と焦がれる娘が、これから命を奪われる」
ニヤニヤと嫌らしく笑う双面を、冷めた目で見下ろした。
「だからどうした?」
「は?」
「ここは冥府、死者の集うところだ。なぜ狼狽える必要がある?」
「ふん、余裕なのは今のうちだ。断罪の小鎚が使われれば、おまえの元にあの娘の魂は届かない!」
私は深々と息を吐いた。
「おまえは中途半端だな」
「は?」
「人間として生きる道を選ぶこともなく、冥府で一生を終える気もさらさらない。どっちつかずで、だから知ったつもりでも大事なことは何も知らない」
「なんだと、おまえに俺の気持ちはわからない! 生まれたときから冥府の主として敬われ、大切にされてきたおまえが、苦労に塗れた俺の人生を評価するなど醜悪極まりないな!」
毒のように言葉が吐き出される。こめかみにビキリと青筋が立つ鬼師三白を目線で制し、うっすらと笑った羅刹鬼青坡が繰り出した拳は片手で受け止める。
「断罪の小鎚は陽の巫女が使うから正しく機能する。つまり偽者には使いこなせない。神宝とは使い手を選ぶもの、そういうふうにできている」
「は、え?」
「だから中途半端なんだよ。知識だけでなく、生き方だってそうだ。どう生まれたかではなく、どう生きるかではないのか? 私は恵まれた環境であったかもしれないが、おまえと違って生き方を選ぶことはできない。否応もなく生まれてから消滅するまで冥府の主として生きることに縛られる。人として生を受けたおまえは、生き方を選ぶことができたのにな」
わかったふりをして、腹立たしい!
双面は唇を歪めて再びおかしそうに笑い出した。彼はずっと、その澄ました顔が気に入らなかったのだ。どうせこのまま魂が砕かれるのならば、その顔が失望に歪むのを見てみたい。
「いいことを教えてやろう。おまえの宵宮は牢で散々痛めつけられて心が折れたようでな、俺に助けてくれと縋ってきたのだ。そして自ら唇を重ねて、寵愛を求めてきた。あまりにも可愛らしく冥府の主を倒してくれとおねだりされるものからな、ついその気になってしまって冥府に挑んだというわけだ」
もちろん嘘だ、だが双面の吐く嘘に人間はよく踊ってくれた。
さあ、愛する者に裏切られたと絶望するがいい!




