幕間 醜い世界②『虚ろ』
一回投稿しましたが、長すぎるので切りました。
暴力的な表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
望むところと瞳を閉じたのに、触れている場所から混乱している様子が伝わってきた。沈黙が場を支配する。しばらく待って、うっすら目を開いてみると、そこには鈍い金色の目に困惑を浮かべている男の姿があった。
「おまえは、俺が怖くないのか?」
「ええ、どうして怖いの?」
普段どおりの声で答えれば彼は忌々しいとばかりに怒りの表情を浮かべる。すでに片面の取り繕うような笑顔は消えていた。両方の顔の表情が憤怒で揃ったということはこれが本心である証か。存外わかりやすいと思えば、笑みが浮かぶ。
「今度はなにがおかしい!」
「取り繕うような笑顔の消えた、今の表情があなたの素の感情を表しているのね」
「は?」
「別れの挨拶代わりに教えてあげる。胡散臭い笑顔よりも、そのふてくされた表情の方が、よほど人間らしいわよ」
愛に飢えた子供みたい。そう答えれば呆然とした彼の手が力なく私の首から離れる。
「人間らしいって……俺は顔が二つ、腕が四本あるんだぞ?」
「でも迷い、荒ぶるところは私と同じだわ」
だらりと垂れ下がった彼の指先が、ぼろぼろになった私の衣の一端に触れた。布の近くには生々しい傷跡のついたふくらはぎが剥き出している。これ以上、身体についた傷跡が見たくなくて、痛みで動かない体を無理やり動かし衣装を整えた。必然的に彼の指先から衣が抜き取られたけれど、無意識なのか、彼の手が衣の端を掴む。
それは、まるで迷子にならぬよう幼子が親の衣を掴むよう。
離したくないと、言わんばかりに。
「なぜ、おまえなんだ」
「なぜって?」
「あの女でなく、なぜおまえがそれを言うんだよ⁉︎」
話が全く見えない。誰と比べているのかもわからないけれど、私が彼の抱く何かに触れたのは確かなのだろう。彼は唐突に理解したような表情を浮かべてニヤリと笑う。
「……なるほど、だから冥府の主はおまえに執着するのか」
たしかに役に立ちそうだ。
ちろりと唇を舐め、そう呟いた彼の表情は先程とは一変していた。これは捕食者の目、私を糧として食らおうと狙う者の視線だ。背筋が、ぶるりと震えた。
「気が変わった。ここから助けてやる」
「は、どうして?」
「おまえを死なせるのが、もったいないからだ」
「だからどうしてよ!」
「生かしてやる、だから俺を選べ」
どうして、そうなる。呆然とする私にかまうことなく彼は濁った金の瞳を光らせた。バキンとけたたましい音を立てて弾ける牢の鍵。鉄格子がきしんだ音を立てて開かれる。彼は熱に浮かされたような表情で私を強く抱き寄せる。視線を牢番に向ければ、彼は怯えたようにこちらを眺めていた。
「おまえだって本当は死にたくないのだろう? だったら、俺のものになれ」
その瞬間、なぜ彼と話が噛み合わないのか理解ができた。すれ違う様子があまりにも滑稽で、抱かれたままに笑い出した。興を削がれ、理解不能なものを見るまなざしを向けた彼に笑いながら答えた。
「お断りだわ」
「なっ!」
「だって死ねば主様の元へ逝けるもの」
私は助けなど望んでない。何もしなくとも望みが叶うのに、助けを求める理由などないわ。
「あなたが私を生かして現世に留めようとするなら、むしろ大嫌いよ」
これ以上ないほどに明確な拒絶。私の言葉に男は怒りを滾らせ、憤怒の表情で彼は立ち上がった。
「ならば冥府の主を始末しておまえを俺のものにしてやる!」
「……自分が言っていることを理解している? あなた程度の男に主様が負けるとでも?」
どうしてそこまで私に執着するのか。理解者を欲しているのなら、適性のある別の人にして欲しい。
「そこまで煽っておいて、いまさら他の人間を押しつけようとしても無駄だ」
心中を察した彼に、抵抗する間もなく唇を奪われる。主様との思い出を汚されるようで腹立たしい。
荒々しく、口内を蹂躙しようと差し入れた彼の舌に思い切り噛み付いた。
「!」
痛みに私の体を引き剥がした彼は自分の口元についた血を舐めとった。それから唇を歪め、ニヤリと笑う。
無言で睨み返した私は唇をぐいと強く擦った。残った痕跡を拭うように、強く、何度も何度も。
「獣が……!」
「物静かな顔のしたで激情を飼い慣らすとは器用な奴だ、そこも気に入った。いいだろう、おまえを奪い壊れるまで可愛がってやる。俺に狂っていくおまえを彼奴に見せつけるのもまた面白い」
私の吐き捨てるような台詞と鋭い視線を受け止めた彼は不敵な表情で笑った。
「恐怖に震えながら待っていろ」
不穏な台詞を言い置いて、彼は闇の中に消えた。私はため息をついた。待っていろって言われたって。
「そもそもあなたは誰なのよ、一体」
暴風のような男は最後まで名乗らなかった。さんざん振り回しておきながら、後始末もしないなんて勝手が過ぎるでしょう。呆然とした表情の私だけが、鍵の壊れた牢の前にぽつんと取り残される。
当然のことながら、様子をうかがっていた牢番によって速やかに捕らえられ別の牢に入れられた。誰かが出て行った音がしたから、別の者が顛末を報告に向かったのだろう。程なくして、場違いなほどに澄んだ白い衣が視界の端で翻った。
「……本当に、どこまでも図々しい女ね」
聞き覚えのある声に視線を上げれば想像どおりの人がいた。陽の巫女を騙る女と鉄格子越しに向かい合う。
「なぜかしらね。おまえに関わると皆が堕落していく。まるで穢のよう」
「穢って、あなたは……!」
「卑しいお前に話しかける許可を与えていない。ゆえに不敬罪も追加する」
彼女は表情を変えず、淡々と私の罪なるものを明らかにしていった。先ほど男が告げた罪状とほぼ同じだったが、彼女もまた一方的で私の反論を許す気はないらしい。そして最後に、こう締めくくった。
「どうしておまえのような無能でふしだらな女が選ばれるのか不思議だったけど、相手の魂を堕落させるために、その身を差し出して虜としたのだとすれば納得ね。本当に穢らわしい」
妄想とも思える言い掛かりに、呆然として言葉を失う。憎しみが勝ると、どうして人はこんなにも愚かになるのか。こんな論も証拠もない戯言を高潔と名高い彼女が言うなんて。
私の知る限り、彼女は賢い人のはずだった。他人に知られてはまずいような裏の顔を決して表には出さない人だ。平民にも慈悲深い態度を取り繕っていた彼女が、牢屋とはいえ安易にそれを覗かせたことが意外だった。牢番が彼女の変わりように怯えた視線を注いでいることにすら気づいていない。彼女の得意とした表裏の使い分けが、今では跡形も残ってはいなかった。
堕落したのは、むしろ彼女だ。たった七日の間で彼女の身に何が起きたというのだろう。
「あの方の助けなど期待しないことね。予定どおりに全てを奪い尽くしたあと、おまえに相応しい無様な死を与えてあげる。その忌々しい澄ました顔が絶望に歪むのが楽しみだわ」
「……」
「ああ、それと不当に奪われていたコレは当然返してもらうわね。祓いの力が込められたという神宝は、本来私に与えられるべきもの」
彼女は自身の髪に飾った簪を、目に付くように翳した。白い花飾りが力無く揺れる。それから嘲るような笑みを浮かべた。
「そういえば冥府の主はこれをおまえにしか使えないと言っていたわね。嘘をつくなんて最低よ」
「嘘なんてついていません!」
「所詮は道具なのだから、私に使いこなせないわけがないでしょう? でも、そうね……もし私が使ってあげているのに役に立たないようだったら、ゴミとして打ち壊しましょう。神宝といえども、私の役に立たない道具なんて存在する価値もないわ」
「ですから、嘘ではありません! 主様が嘘をつくわけがないわ」
「平民風情が神の名を語るな、穢らわしい。おまえの意見など聞く価値などない、黙っておれ」
なんて、恐ろしい人。神を神と思わぬ傲慢さに恐怖を覚えた。そして彼女はその傲慢さゆえに、簪も、自分自身も……とうに光を失っていることに気づいていない。
巫女の力を何だと思っているのかしら。神宝は神から力を借りるための媒体に過ぎず、従えるという感覚からして間違いなのだ。彼女の台詞は自分の望む力を与えなかった神に価値がないというのに等しい。
中身が変わってしまったかのような彼女が纏うのは、かつてと同じ煌びやかな白い唐衣。だけど今はその唐衣が、死に装束のように思える。死んだような彼女は牢番を呼んだ。
「明日のため、この女が生きることを放棄するように……、そうね、宵宮に選ばれたことを後悔するくらいに痛めつけて、身も魂も粉々に砕いておきなさい。もちろん、死なない程度にね」
この人を人とも思わぬ言い方、やはりお嬢様を襲わせたのはこの方なのだろう。牢番に痛めつけられながら、遠ざかっていく彼女の白い背中を睨んだ。
おまえこそ、偽物のくせに。はじめて人を憎んだ。そして同時に彼女を憐れだと思った。
今から二年ほど前、彼女は一度死んでいるのだろう。陽の巫女に成り代わるために、彼女は自分を殺した。一度死んでしまった彼女は神という存在を信じない。
だから彼女は人形のように美しく、それでいて虚ろなのだ。




