三の常日 『行幸』
一夜明け、三日目の朝。その日のうちに神殿へ戻るため早朝出立した。闇に守られている今は、朝にも関わらず周囲は薄暗い。
「主様、あれが目的の山神社ですわ」
山神社は国中に点在する。一帯を守護する神で、地元の者には土地神様とも呼ばれていた。山神社はこの山の神が住まうとされる神聖な場所なのだ。
「やはりな。ずいぶんと澱んでいる」
その神聖であるはずの場所に、違和感を抱かせる言い回し。主様は馬から降りると案内もつけずに社を目指して山を登っていく。私も農作業でそれなりに体力はついていると思うものの、山に登るとなると話は別だ。
だんだんと息が上がってきた。
「宵宮、登るのが辛いようなら抱えて登ってやってもよいぞ」
表情を変えずに言われると、それが冗談なのか本気なのか判断つかないから困る。畏れ多いからと、無言のまま首を振った。そのついでに後ろを振り向くと神官達は早々に置いて行かれたようで、誰一人として私達に着いてきている者はいなかった。
ふと、足元に咲く可憐な花が目に留まる。真っ白なこの花は夜しか咲かないとされているのに、今咲いているということは闇を夜と勘違いしているということかしら? 珍しいから喜ばれるかもしれない。祭壇に供えようと幾本か手折った。
「ほどよい頃合いか」
そうつぶやいた主様に手を引かれ、胸元へと引き寄せられる。衣からは品のよい香の薫りがほのかに漂う。
「山の神よ、宵宮が限界だ。そろそろ招いて貰えぬか?」
山中に響く、凛とした主様の声。やがて山彦のように反響する誰かの声が応じた。
『いいだろう、おはいり』
社は無人であると聞いている。誰に向かって話しているのかしら?
「すぐに着く。安心していいぞ」
見上げたけれど、山頂まではまだ遠い。にも関わらず、すぐに着くってどういうこと? 吹き下ろす一瞬の強風に目をつぶり、目を開けた。するとそこには光輝く社の入り口があったのだ。
「え、ここは?」
「参拝する社は表の姿。ここは真の神の居処である」
言うなれば、裏の姿であると。清浄なる空気が漂い、社は神々しいばかりの美しさだ。そして闇に包まれているのに、この辺り一帯だけが昼中のように明るい。ただ山頂から下界を眺めれば黒い煙のようなものが、所々に渦を巻いているのが気にかかった。
主様と手を繋いで門の前に立つと、扉がひとりでに開いた。玉砂利を踏みしめて進むといつの間にか屋内へと誘われる。履き物を脱ぎ、廊下を奥へと進むと、導くように明かりが灯った。そして導かれた先にあるのは、祭壇のある小さな部屋だった。
『ようこそ、冥府の主殿と花嫁殿』
やはり声だけが聞こえる。
「なかなか厄介な事になっているようですね」
部屋の一点を見つめ挨拶を返し、主様は問いかける。……厄介な事?
『おうよ。二百年に一度の祓いが出来なくての』
問いかけに応じるように答えが返ってくる。……心が読まれているの?
意味はないのだろうと思いながらも主様の後ろへと身を隠す。主様は苦笑いを浮かべながら私の手を握った。
「大丈夫だよ……山神殿、あまり我が花嫁を驚かさないでもらえるか?」
『これは申し訳ない、つい癖でな。それで本日の用件は?』
「この土地に住まうものを嫁にするのです、挨拶をせねばなるまいと思いまして」
『ほうそうか、義理堅いことよ。なるほど、貴殿の宵宮はその娘か。我も鼻が高い』
「取り急ぎのため貢ぎ物はございませんが、それは後日我が眷属がお届けに上がりましょう。それよりもまずは、身をさっぱりとされてはいかがかと」
『貴殿の気遣いに感謝する』
主様は祭壇を調えて、腰に着けた筒から水を盆に満たした。それから呪を唱える。すると一瞬にして空気が入れ替わったのを肌で感じた。見えてはいないものの、この辺り一帯の穢れが浄められたようだ。あれ、どうしたのかしら……急に息が、苦しい。
「すまない、あなたの身に付いてきたものも祓ってしまおう」
主様が慌てて私の肩に軽く触れる。たちまちのうちに息苦しさは消え、下界と同様に楽に呼吸ができた。
「これは……、一体何が起きたのでしょう?」
「苦しい思いをさせてすまない。あなたは穢れを集めやすい体質なのだよ。本来の手順であれば苦しませることもなかったものを。」
そして手のひらを私の頬に添えた。あまり表情を変えない方だけにわかりにくいが、心配してくださっているのだろう。ひんやりとした手の温度に癒されて、どうしても離れがたい。そのままそっと頬を寄せた。
『うおっふぉん。仲睦まじいのは良きことであるがの、時間は大丈夫か?』
……いけない、山神様に気を使わせてしまった。羞恥に潤んだ瞳を伏せる。名残惜しそうに、ゆっくりと手を離した主様が盆を掲げ庭先へ水を棄てる。禍々しい真っ黒な水の色が見えた。この水の濁りは山神様の力で、すぐに浄化されるそうだ。
「これでまた二百年は大丈夫でしょう」
『感謝する』
これでこの辺り一帯の安寧は保たれるだろう。やり取りから察するに、この場所には相当な穢れが溜まっていたらしい。その穢れを払うのは二百年に一度。おそらくは、……宵宮の御祓。
「練り歩きには披露以外の意味があるのだ。神々はその身に宿す浄化の力が強く、自身では穢れを集めることは出来ない。だから宵宮であるあなたが練り歩くことでその身に穢れを集め、その穢れを参拝した際に神々が祓うという仕組みになっていた」
『一目見ておかしいと思っておった。穢れを集めてくるはずの宵宮に穢れがほとんどついていないというのだからな。他所の神々もおかしいと思っていたようでの、眷属に調べさせたところ穢れの溜まりやすい箇所をほとんど練り歩いていないことがわかった。それでは二百年の間に溜まった穢れを全て集めることはできぬ。しかも祓ったとしてもごく一部だ。全くもって無駄な時間と力を使わされたわ』
主様の説明に重なるのは、呆れたような山神様の声だった。
「……っ、まことに申し訳ございません!」
うなだれた私に、返せる言葉はそれしかなかった。つまり私は宵宮としての務めを果たせていなかったのか。ただ言われたとおりに、無駄な行程を淡々とこなしていただけの浅はかな自分を省みる。宵宮のくせに、なぜ練り歩きがあるのか疑問にも思わなかったなんて不甲斐ない。だが主様は私の頭をなでる。
「そうではない、違うのだ」
「えっ?」
「民草の願いを聞き、穢れの溜まりやすい場所を選定するのは神殿の務めと定められている。練り歩く行程を彼らが決めたのなら、それはむしろ自業自得というものよ」
自業自得、言葉の重みがさらにのしかかる。
「では、なぜこの地の穢れを祓ってくださったのですか?」
「挨拶のついでに祓ったまでのことだ」
それからかすかに微笑み、私の耳元で囁く。
あなたの故郷でもある土地だから、と。
「……主様」
私のためにと心を砕いてくださるのが、とてもうれしかった。言葉だけでない優しさに心が震える……でも。甘えるばかりでなく、できる限りのことをしなければ。
「主様、ここで聞いたことを神官達に伝えてもよろしいでしょうか?」
今からどれだけの土地を巡れるかわからない。かつて行われた宵宮の選び直し、六百年の凶事の数々が思い浮かぶ。今のままでは、そのときと同じ状況になってしまうかもしれない。
「かまわぬよ……だが、そう簡単ではないだろうがな」
『たしかに、二百年分ともなれば相当に穢れが溜まる。でもこれほどまでに溜まることは、本来ならあり得ぬのだよ』
主様と山神様の声が、さらに不安を募らせる。
「もしかすると陽の巫女の力が弱いのかもしれません」
『うむ、恐らくはそうであろう。ここ数年、全く祓いの力を感じることができぬ」
「神子様の力が?」
だが、巫女は数年前に代替わりしたばかりだ。力の衰えを感じた先代の申し出により、神託によって新たな巫女を選んだと聞いている。
『そうであれば、何とも不思議なものよ』
山神様はそれだけしか言わず、沈黙した。
「それでは挨拶も終わったことだし、帰ろうか」
「はい、主様」
主様が差し出した手を握る。
『そうさな、せっかく挨拶に来てくれたのだ。土産のひとつも持たせねばなるまい』
山神様の声がしたあと、祭壇に光が満ちる。そして光が消えたあとには、白い花をかたどった簪が残されていた。私が祭壇に捧げた、あの白い花とよく似ている。
「これは良きものをいただいた。お心遣いに感謝いたします」
主様は祭壇から受け取った簪を私の髪に挿した。耳元で、しゃらりと涼やかな音がする。
「あなたの白い肌に映えて、とてもよく似合う」
髪を伝って、指先が滑るように首筋を撫でる。ひたとこちらを見つめる瞳に熱が籠っているようで、どうにも落ち着かない。視線を逸らした私の頭上から主様のこぼした笑い声が聞こえる。
意地悪な方、からかっていらっしゃるのね!
『いやはや、戯れは下界でやればよいだろう? さあさあ、帰り道を繋げておいたから、さっさと戻られるがよいぞ。山中で迷っていた供の者達も鬱陶しくてかなわぬから先に帰しておいた。戻った先で合流出来るだろう』
乗ってきた馬も一緒に戻して下さったそうだ。離れた場所で社の扉が開く音がする。部屋を出て、入り口まで戻り扉をくぐると、途端に景色が一変する。そこは朝出発した神殿の入り口だった。闇の色が濃いことから、すでに夜になっているようだ。神殿の警備の者が突然現れた私達に驚き、呆然としている。
「帰り道を繋げるとは、こういうことだったのですね」
「穢れを祓い、力を取り戻された山神様には造作のないことだ」
「ああ、よかった。冥府の主様、こちらにおいででしたか! 迷われたかと、我らさんざん探しましたぞ!」
同行した神官達が駆け寄ってきた。衣服が汚れてぼろぼろになった彼らによると、前を歩いていたはずの私達を見失い、そこから終日山中を探し続けていたらしい。そして、ふと気が付くとこの場所に戻っていたという。
「そんなに時間が経っていたのですね。」
「あの場所とは時間の流れが違うからな。ああいう場所に招かれたときは長居をしないほうがよいぞ」
ほんの一時と思っていたのが半日以上経っているなんて……やがて神殿から何事かと神官長が姿を現した。蔑むような視線が一転、驚愕して目を見張る。どうやら私の髪に挿している簪に気が付いたらしい。
「そ、その簪は?」
「山神様が主様へ、お土産にと授けてくださいました」
「それは素晴らしい! そなたの身には過分な品である、それは神殿にてありがたく保管しよう」
「ああ、神官長殿。心配には及びませぬよ。我へ授けられた物のため、我が花嫁に贈ったのだ。たとえこれが貴重な神宝と呼ばれる類いのものであろうとな。それにこの神宝は彼女にしか使えぬように制限が掛かっているらしい。残念だが、他の者に与えるのは諦めたほうがよいぞ?」
「っ、なんと。見苦しい姿をお見せいたしまして、まことに申し訳ございません」
不機嫌そのものである主様の態度に、慌てた神官長は深々と頭を下げ恭順の意を示した。その陰で器用に私を睨み付けている。そういえば神殿の宝物庫には国の宝として神器という物が奥深くに眠っている、と聞いたことがあった。神が古代、巫女に授けたとされるそれらは神の依代を指し、神の力を借りて奇跡のような力を発揮するものとされている。そして私の手元にある神宝は、神自らの力で創られた物だ。主様曰く、直接神の力に作用し、神の力を得たものと同じとされ、この世に二つとない貴重な品なのだとか。
「そんなに大切な物を私が頂いても宜しいのでしょうか?」
あまりにも強大な力は身を滅ぼしかねない。だが主様は表情を変えぬまま、ゆっくりと首を振った。
「そんな恐ろしい力を秘めたものではないぞ。少々の祓いと守護の力が込められているくらいだな。」
私の身は穢れを集めやすい。その影響を受けにくくする程度のものなので、お守り程度の気持ちで普段から身に付けておけばよいとのことだった。お守りか、それはまたありがたいものをいただいた。宵宮の務めが終わって、家に帰ったら山神様に御詣りしよう。そう務めが終われば、家に帰ることができるはずだ。
……そして宵宮の務めが終われば、もう二度と主様に会うことは出来ない。
胸の奥が、ツキリと小さく痛む。いまさらだけれど、そのことが耐えがたいほどに寂しい。最初からわかっていることなのに、こんなにも悲しいのは何故だろうか?
期待してはいけないと、わかっているのに。
三話目です。これでしばらく更新はのんびりです。
あと5話くらいを予定しています。