七の環日『行きはよいよい、帰りは』
不穏な空気のままに、会話は続く。
「あの者はいかがされますか?」
「あなたに任せる。私はもう助けないよ。犯した罪に相応しい罰を与えて」
声を落とした主様の問いに、陽の神様が答えたのはそれだけ。話の流れからして、あの者とは今回の一件で画策した人物ということだろうか。冷ややかな、温度すら感じさせない陽の神の声。神殿で耳にした、人が感情を切り捨てたときの声に似ている。
……おそらくあの者と呼ぶ人物と陽の神には少なくない因縁があるのね。
舞台裏の情報は何一つ知されていないけれど、声色からそれだけは察することができた。主様は首肯し、陽の神は無言のままに再び歩き出した。その後を、葬列は粛々と続いてゆく。やがて先頭を歩く主様が思い出したように口を開いた。
「そういえば、宵宮。あれは決めたかい?」
「主様が決めていいという、羅刹鬼孤月の……」
「ああそうだよ」
決めたかと問われて思い当たることは、それしかなかった。冥府の四つ辻で主様から与えられた課題であり、私の裁量で彼に罰を与えてよいと仰った、あれだ。もちろん覚えているが……そこまで答えたところでその先は言い淀む。
正直なところ、お二人の幸せに水を差すようで言い出しにくいのよね。会うまでの苦労を思えば文句の一つも出て当然だろう。冥府には、冥府の規律があって、それに照らすと罰が必要なのだろう。
でも本当に償いは必要なのだろうか?
答えは見つからなかった。だからこのまま聞かれなければ、何も言わずに去ろうと思っていたのだが。私が戻ったあと、それが問題とされれば残された彼らに迷惑がかかるかもしれない。それなら後腐れのないよう、はっきりさせておこうと決めた。
「でしたら罰ではなく、私のお願いを叶えてもらうというのではだめでしょうか?」
せっかく宵宮に会えたのだ。再び縁の繋がった二人の未来は盛大に祝福されるべきものであり、やはり罰など相応しくないと思うのだ。的外れとも思える私の言葉に一瞬目を丸くして、主様は苦笑いを浮かべた。
「甘いな。それもまた、あなたらしいが……」
「やはり、ご迷惑でしょうか?」
「かまわないよ、私が決めてよいと言ったのだから」
うなずいた主様の視線の先には、察したように佇む羅刹鬼孤月と彼の番の姿があった。羅刹鬼孤月は覚悟を決めた表情で膝をつく。
「花嫁様、私はいかような罰でもお受けいたします。……ですが、彼女は関係ありません。どうか彼女には寛大な措置を」
番をかばう姿に胸が熱くなる。だが隣に立つ白虎の姿を視界に納めたところで、思わず口元がほころんだ。彼女は勇敢でありながら、なんと健気な人でもあるのだろうか。
「あなたはそのつもりでも、花嫁様はそうでもないようですよ?」
私の台詞に顔を跳ね上げて、隣を見た羅刹鬼孤月がぎょっとした表情を浮かべる。そこには大きな体躯を器用に縮め、伏せる姿勢を保つ白虎がいた。それは彼女なりに服従するという意思表示なのだろう。そして白虎はじろりと羅刹鬼孤月を睨んだ。
アンタなにやったの、とか。もしくは私を除け者にするわけとか、そんなことを言っているような顔だ。言葉はなくとも尻尾だけが不機嫌そうに揺れている。
「……完全に尻に敷かれているな」
苦笑いを浮かべた主様の言葉に、どっと笑う声が重なって場の空気が和やかなものに変わった。どこか恥ずかしそうな彼らに、ひざをついて手を差し伸べる。
「私が肉体を失い魂となった暁には、お二人が迎えにきてくださいませんか? 冥道が不慣れなために、一人で主様の元へたどり着けるか不安なのです」
「……花嫁様、まさかそれが罰だと?」
「罰ではありませんわ。私からの厚かましいお願いです。」
私は、にこりと微笑む。冥府のために働く羅刹鬼を私用で使うなど礼儀を知らないにもほどがある。だからこそ、失礼を承知でお願いすることで相殺したかったのだ。
彼も元は人であったのだから、誰かを恨むことだってあるだろう。罪を罪と知らない者のために裁きの場があるというのなら、これ以上は不要なもの。
「ありがとうございます。必ずや、二人揃ってお迎えに上がります」
頭を垂れる羅刹鬼孤月と白虎。満足げに主様は微笑んだ。
「冥の花嫁は冥府において唯一赦すことを認められた存在だ。そのとおりに、あなたが慈悲深い人でよかった」
「赦すことのできる存在、ですか?」
「時が満ち、冥府に来たら詳しく説明しよう。だが今は……その愛らしい顔をもっと見せて?」
はぐらかすように笑みを深めた主様が、私の指先に口付けを落とした。這わせるように少しだけ指先を舐める赤い舌先が見えて、その妖艶さにくらりと揺れる。
……甘いの意味は違うけれど、主様の方がもっと甘いのではないかしら。赤みを帯びた頬を隠すように顔を背ければ、彼は端正な顔に意地の悪い笑みを浮かべた。
「からかっているのね、ひどい人!」
むくれたように横を向けば、彼の指がなだめるように頬をなでて……。甘やかな空気が二人を包んだ。
すると背後から生ぬるいような視線を感じた。
「これもまた、苦行の一環ということかしら?」
「花影……それ以上話すな。甘すぎて、気が抜ける」
「黒縄は肝心なところで抜けてるから今更じゃないの?」
「何をうるさ……ぐぐぐ」
「うるさいですよ、二人とも」
「あははは、怒られてるわね!」
「ばか、おまえもだ!」
このとき、空気の読める冥府の住人達は景色に徹していた。彼らは時間限定で、自分は木や土だと思い込み、川の水や山だと思っている。ただ残念ながら口元は引き攣ったりニヤニヤとした笑いが収まらない者もいたが。
それでも空気の読めない者は一定数存在する。そんな不心得者は胴体を握られ中身が出そうになったり、番に噛みつかれ角を毟られそうになった。が、それすら一致団結した住人達によってなかったものとされ、無理矢理過ぎゆく景色の一つとされたのだ。ほんの少しだけ、活気が戻ったそんなときだった。先頭を歩いていた陽の神が足を止める。
「……うん、少し遅れたけれど誤差の範囲だね。日の出に間に合ってよかった」
ようやく現世との境にある戸へとたどり着いたのだ。この鄙びた風情の民家が境を守っている結界らしい。
カラリ。陽の神は戸を自ら開く。目の前には、堅く閉ざされた金属の扉があった。その背後に控える私は、今一番見たくないものを目の当たりにして思わず面を伏せた。
この扉が閉まれば、次に会えるのは私が死ぬとき。
終わりがいつかわからないからこそ、果てなく続くように思える。
陽の神様は私と主様を交互に眺めると、微笑みを浮かべた。
「宵宮、先に戻っているよ。大切な二人の時間を使わせたお詫びに、少しばかり時間をあげるから、ちゃんと話しておいで。それから冥府の主殿、此度は客人として神渡りの安寧を守ってくれてありがとう。……我が名において冥府に今一度の秩序をもたらし、末永い安寧の闇があらんことを祈願する」
「神渡りの儀を終えられましたこと、冥府の住人一同、心より御祝い申し上げる。冥府の主として、現世に繁栄のあらんことをお祈り申し上げる」
形式的に定められた口上、なのだろうか。互いに言祝ぐような言葉を贈り、礼をする陽の神様と恭しく頭を垂れる主様と冥府の住人達。厳粛な場に相応しいやりとりのはず。
だが、なぜだろうか……。私は主様に倣い頭を垂れながらも内心では違和感を感じていた。祝いの言葉が、どこか虚ろに響く。まるでそうならないことを知っているかのような口調に不安が拭えない。
「それは彼ら次第かな」
微笑んだ陽の神様が、かろうじて聞こえるくらいの音量でそう呟く。不吉な予感は増すばかりだ。そして陽の神様は静かに戸を閉めた。
一瞬の、静寂。振り向き、主様が厳かに告げる。
「約定に基づく神渡りの儀はつつがなく執り行われた。皆、大儀であった」
冥府の住人達から、意図せずとも一斉に安堵のため息が漏れる。これで、ようやく神渡りが終わった。
そう、終わってしまったのだ。
「宵宮」
「主様」
どちらからともなく歩み寄り、きつく抱き締め合う。今はもう、彼の衣に染み付いた香の薫りすら覚えてしまった。彼のことを知ってしまったら、今までのような無知で平穏を享受するだけの自分には戻れない。
神渡りの期間が、私の生き方すら変えてしまうものになるとは思いもしなかったわ。身体をきつく抱いたまま、主様が耳元で囁いた。
「言いたいこと、伝えたいことは山ほどあったはずなのに言葉が出てこないなんて、不甲斐ないことだ。神渡りが始まる前は、こんな気持ちを抱くなんて思いもしなかったというのに……」
「私もです……言いたいことはたくさんあったのに」
衣越しに伝わる、彼の不安。彼ほどの力を持つ存在であろうとも、心は揺れるものなのか。不安に揺れるのであれば、いつでも隣で受け止めて差し上げたい。
できたらこのまま、冥府に。
そう願えば、主様は私のためにそれを叶えようとしてくださるだろう。だけどそれを口にしてしまえば誰も幸せにはならない。神同士の約定は絶対に守らなくてはならないものだから。
だから浅ましい願いは私の胸一つに。その代わりにと滲んだ涙の粒を払いつつ、口を開いた。
「ああでも、一つだけ必ず言わなくてはならないことがあります」
視線が絡むと、彼の目が優しく細められる。この深い闇色と理性を宿す瞳に、どれほど救われたことか。愛などという言葉では足りない。この人の存在だけが、私の欠けた部分を満たすことができる。
「お約束いたしますわ。必ずあなたのもとへ嫁いで参ります。羅刹鬼孤月の花嫁様のように姿を変えて世界を違えようと、どれほど時間が掛かっても、必ず。ですからいつか私がたどり着くその日まで、この冥府というかけがえのない場所を守りながら、私をお待ちいただけますか?」
この約束だけが、私を生かす。
彼にとっては私に縛り付ける呪いみたいだ。だけどもし今後何が起きても、この言葉があれば主様はきっと待っていてくれる。待ち合わせ場所である冥府を最優先に守ってくれるはずだ。だって、これが宵宮としての、私の最後の願いなのだから。
鬼師三白が主様の背後でそっと瞳を伏せる。私はそれに気がつかない振りをして主様に微笑んだ。彼は闇色の瞳を瞬かせ、小さくため息をついた。
「……ここまで聞き分けがいいと、それはそれで問題だな」
「主様?」
意味が分からなくて、首をかしげた。主様が私の肩を抱いて背後を振り返る。
「皆、後ろを向け!」
黒白の空間を切り裂くような主様の号令だ、秒もたたぬうちに皆が揃って後ろを向く。一糸乱れぬ動きに感心したところで、顎の下に添えられた指先によって顔の向きが変わった。
目の前には、大好きな闇色の瞳。それが嬉しくて、ふわりと微笑んだ。途端、唇に触れる温かなもの。それが主様の唇と気がついて、意識が遠のくような衝撃を受ける。
唇は貪りながら、舌は奥へ奥へと分け入り蹂躙する。急き立てながらも、互いを慰撫するような相反する熱を孕む濃厚な口づけ。どこまでもどこまでも、魂の奥まで食い尽くされるようだった。
食い尽くされても、かまわない。何度生まれ変わろうと、自分はもうこの人しか愛せないのだと悟った。
「大人げないからと牛車の中ではあなたの選択を尊重しようと思っていた。あなたの生き方を縛る、そんな権利はないのだからと。けれど、やっぱり無理だ。あなた私のもの、本当は誰にも……相手が神だろうと絶対に渡さない」
……渡したくないのだ。
吐息の合間を器用にぬって、甘い声が耳元で囁く。甘い言葉に背中が痺れ、蹂躙される快楽に溺れそうになる。
うれしいです、主様。
ああ幸せで、涙がでそう。時間にしてみれば、ほんの一瞬。だけど今の私には永遠にも思える瞬間だった。
唇が離れる。最後、名残を惜しむようにして主様から贈られたのは、軽く啄むような愛らしい口付け。熱に浮かされて呆然とした様子の私に、主様は決まりの悪い顔で囁いた。
「このことは陽の神には内緒だ」
「はい、内緒にします」
私は小さく笑いをこぼした。本当に可愛らしい人だわ。こんなにも幸せな秘密なら、いくらでも重ねてしまいそう。見上げた主様の顔は悲しみに満ちて……だけど、どこか幸せそうだった。きっと私も同じ表情をしているに違いない。
「扉の手前まで、送ろう」
促されて陽の神の消えた戸を開ければ、その先にある金属の扉が半分開いている。そして金属の扉の先には、うっすらと陽光が射し込んでいて。陽の神は無事にあるべき居場所へと戻られたらしい。
あるべきものは、あるべき場所に。
これでもう、あと二百年は冥府の住人が現世に立ち入ることはない。そして薄日が射す扉の前には神官長を筆頭とした神官達が腰を折り、頭を垂れていた。面を下げているせいで、表情は見えない。その体勢のままに、神官長が恭しく口上を述べた。
「冥府の主様。このたびは神渡りの安寧をお守りいただき、一同、厚く御礼申し上げます」
「お務め、ご苦労であった。此度の客人として現世に今再びの繁栄があらんことをお祈り申し上げる」
これもまた、形式として定められた台詞なのだろう。主様は心得たように金属の扉の内側から言祝いだ。そして扉を挟んで向かいに立つ私の耳元で他人には聞こえないよう、抑えた音量で囁く。
「宵宮、覚えていて欲しい。羅刹鬼孤月との約定があろうとも、あなたの身に危険が及んでいると判断した場合には私が直接出向く。絶対に、それだけは譲れない」
この期に及んで、あなたを奪われるわけにはいかないから。私は応ずるように頭を垂れた。
「仰せのままに、私の主様。」
言葉に潜ませた、執着。私だってあなたを誰にも渡さない。意図に気づいた彼の口元が、嬉しそうにつり上がる。神渡りの初日に私が口にした言葉は、神渡りを経てさらに重さを増していた。
「私の花嫁を、よろしく頼む」
少しだけ音量を上げた主様の、凛とした声が部屋中に響き渡る。言葉の持つ意味に驚いたのか部屋の空気がザワリと揺れた。主様があえて口にしたのは、一人残してゆく私への気遣いなのだろう。私はできるだけ美しく見えるようにと願いながら微笑んだ。そして心を込めて、礼の姿勢をとった。
一番美しい姿で、覚えていて欲しいから。
「……また、会おう」
主様は淡く微笑んで、自らの手で金属の扉を閉めた。途端、扉の隙間を埋めるような閃光が瞬いて音なき音が部屋に響く。
ガチャリ。
神渡りの始まりを告げた錠が再び下ろされた。これで二百年後まで、扉が再び開くことはない。私は温度を失った冷たい金属の扉に額をつける。伝わるのは身に染み込むような冷気だけ。この温度は、触れても熱を感じさせない主様と同じ。でも大丈夫です、主様。
「……そう遠くない未来に再びお会いできるでしょう」
予知などという、たいそうなものではない。彼らにとって既定路線だったというだけだ。神渡りが始まったときにはもう、私の行末は決められていたのだろう。
私の背後で金属同士の擦れる嫌な音がする。面倒とばかりに緩慢な動きで振り返れば、神殿を守る神兵達が半円を描くように私を囲っていた。顔が写りそうなほどに磨き上げられた矛先が私に突きつけられる。やがて彼らの背後から、虚ろな眼をした神官長が進み出た。
「神官長、これは?」
「帝の命によりおまえを国家反逆罪で捕らえる」
また、大層な罪名を被せてきたものだわ。
やはりという思いが先に立って、抵抗する気もおきなかった。神官や兵士の中には先ほどの主様の言葉が気に掛かったようで、とまどう者もいたが極めて少数に過ぎない。命令に粛々と従う者達によって手際よく縛り上げられ、あっという間に猿轡を噛まされる。
「恨むなら、自分の卑しい血を恨むのだな」
「……」
「残念だが、証拠も揃っているから逃げられはしない」
神官長は狂ったように嗤った。
前回が長くなったので、キリの良いところで切った後半部分です。
お楽しみいただけると嬉しいです。




