七の還日『夜明け前』
天に再び日輪が輝くとき、神渡りは終わる。
陽の神と入れ替わるようにして冥府へと戻る客人は、日輪が闇に光る線を描くとき……つまり夜明けとともに、奥の間にある分厚い金属の扉を閉じなくてはならない。そして堅く閉じられた金属の扉の鍵は陽の神によって厳重に封印が施されるという。封じられた扉が再び開くのは、二百年後。
時刻は真夜中。夜遅くに宴から戻られた主様に、話がしたいと乞われ誘われるまま別室へと足を運ぶ。神殿に勤めるような貴族の娘ならば、はしたないと断るところだろう。
だが断るなどという選択肢が頭に浮かぶこともなく、促されるままに長椅子へと腰を下ろした。そしてお茶を入れようと伸ばした手が強く引かれて彼の胸元に倒れ込む。抱きしめられて、存在を確かめ合うように身を寄せる。
無言のまま、刻、一刻。無情にも失われていく時間が惜しくて、切なくて。
ついには涙がこぼれた。
「申し訳ありません、たとえ一時でも離れるのはつらいのです」
これから死ぬまで続くだろう、長く孤独な時間を思うと胸が痛むのだ。
「このくらいなら触れても許されるか」
主様が唇を寄せ、私の目尻に溜まる涙を吸う。悲しい気持ちのはずなのに触れた唇の温もりがくすぐったくて、思わず笑みが浮かんだ。唇越しに主様の優しさが伝わってきて、うれしい。彼の指先が、弧を描く私の口元をなぞった。
「これからもそうして笑っていて欲しい。あなたの笑った顔が好きだから」
「はい、主様」
「だが泣き顔も愛らしいと思う。困るな、どちらも捨てがたい」
「そ、そんなふうに言われてしまうと、私のほうが困ってしまいます」
主様は冗談が過ぎたと笑って再び私を抱きしめる。腕の中で思い出すのは神殿での辛い務めの日々と、愛される喜びに包まれた七日間。こうやって甘やかしてくれたから、辛く厳しい現実を乗り越えることができたのだと、そう思った。
「助けていただいて、ありがとうございました。神渡りを終えた今は、あなたの存在が私の全てです。冥府のお務めで無理をなさらないように、どうかご自愛ください」
離れていても、心配くらいはしてもいいだろうか。陽の巫女様はかりそめの婚約者であることを忘れないようにときの諭したが、事実はそうでなかった。手の甲に咲く白い花がその証拠だ。
たった七日しかないのか。神渡りが始まる前は七日もあると思っていたのに。それが七日しかないという思いに変わるまで、さほど時間は掛からなかった。
その七日目がもう終わってしまう。逢瀬と呼ぶには、あまりにも短い時間しかなかった。
主様は少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。出会ったときはわからなかった感情の機微が今はずいぶんと読み取れるようになった気がする。これもまた、それだけ近くにいたという証拠だ。
「私からも伝えておきたい。約定によりあなたの魂は私のものだけれど、今はまだ陽の神によって与えられた寿命が残されている。だから……悔いのないよう精一杯生きて欲しい。まだ若いあなたがこの世界を生きるために選んだ道ならば、どんな選択をしようとも私は干渉しないことを誓おう」
まだ若い私が、どんな選択をしようとも。そこには言外に婚姻も含まれている気がする。だが私は実家に戻ってからも結婚はしないつもりでいた。どんなに優秀ですばらしいと評判の男の人に出会っても、主様と比べてしまうのはわかりきっていたから。互いに不幸な結果を招くとわかっているのに、これ以上の幸せは望まないし、望めない。
神渡りの七日間で、一生分の欲を使い切ってしまったのよ。だから残りの人生は各地を巡り穢を身に集めながら、主様が繋いでくださった縁のある土地神様におすがりし、穢を祓っていただこうと考えていた。それが神殿に仕えることなく市井に下った宵宮として相応しい生き方だと思えるから。
そう話すと主様は少しだけ安堵した表情を浮かべた。
「あなたの望むように生きてくれればいい。それがあなたに託す私の願いだ。ただもし困ったことがあれば、花影に伝えてくれ。できることならば間接的に手助けしよう」
我が花嫁となるのだから、当然。甘く囁かれて頬を赤らめた私が視線を外した。
そんなときだ、黒縄が慌てて飛び込んできたのは。
彼が携えてきた内容の深刻さに、珍しく冥府の主様の顔色も変わる。
「陽の神が、お戻りになられないと?」
夜が明けなければ、この世界はどうなってしまうのか。
「詳細を話せ」
「へい。いつものように冥府にあるあの場所で、異界からお戻りになる陽の神様をおもてなししようと準備をしていたのですが、いつまで待ってもお姿を見せないのです。不安になった羅刹鬼の皆様がお迎えに上がられたところ、帰り道にある四つ辻の途中に、こんなものが」
彼は手に握りしめていた、赤黒い実のなる枝を揺する。記憶にある植物に似ていて、思わず口を挟む。
「それは、毒芥子ですわね」
「これが、毒を含むと?」
「はい。実だけでなく枝や花にも触れるなと親から子に教えられております」
それは実だけでなく枝や花にもわずかに毒がある。畑の周囲に植えて農作物を荒らす動物を避けるために使われる。可憐な花が咲き、美味しそうな実がなるのだが子供達は絶対触れず、実を口にないよう厳しく教えられるのだ。主様は鋭い視線を黒縄に向ける。彼はごくりと唾を飲み込んだ。
「この枝はどのように置かれていた?」
「四つ辻の、交わる場所に一本ずつ。道を塞ぐようにして置かれていました」
「帰り道を探し、迷われたか」
「ご無事でしょうか、陽の神様は」
返事はなく、すっと血の気が失せた。主様は真剣な表情で私を見つめ、青褪めた私の頬を撫でる。冷えているはずの主様の手が、なぜか温かく感じられた。
「陽の神は何より穢を嫌う。毒は生命を死に至らしめるもの、つまりは死に親しいものだ。当然穢も呼び込みやすい。だから陽の神はそれらに近づくことを嫌がり避けた。たぶん帰り道を変えたのだろう。それでも他の道に何も置かれていなければそちらを使い戻られるはずなのだが……」
「他の道も全て毒のある植物で塞がれていた、と」
黒縄が勢いよく顔を上げた。
「まさか帰り道を探し、冥道を彷徨われていると? それは大変だ! 冥府の住人ならばともかく、冥府の道に不慣れな陽の神が四つ辻を通らずに現世に戻ることができるわけがありません!」
「たぶん、自力で何とかなるとでも思われたのだろうな……変に前向きなところのある方だから」
主様は深々とため息をついた。それからすぐに立ち上がると衣を翻し、黒縄を従えて部屋の戸を開ける。
「主様、冥府へと向かわれるのですか?」
彼は振り向きざまにうなずいた。
「宵宮はここで待っているとよい」
「いえ。叶うならば私もお連れ下さい、主様!」
思いの外、大きく声が響いた。主様は一瞬目を見張ると、ゆるく首を振った。
「それはいけない。あなたはまだ冥府の住人ではないからだ。か弱き肉の器に、冥府の陰の気がどのような影響を与えるか私にもわからないだろう? それにあなたにとっても冥道は未知の世界。自分が迷ってしまう可能性もある」
たしかにそのとおりなのだが、どうしても行かなくては。先ほどからずっと、その思いが膨らんで止まらないのだ。私は黒縄が握り締める毒芥子の枝を指差した。
「主様がご存知ないということは、それは現世にしか存在しない植物なのではありませんか? もし、そのようなものが他にも持ち込まれているようならば、私の知識がお役に立てることがあるかも知れません。邪魔にならぬよう、後ろに必ず控えておりますので、どうかお連れいただけませんか? どうにも先程から嫌な予感がして……私はどうしても行かなくてはならないのです。どうか、どうかお願いいたします」
「しかし……」
「よろしいのではないですか、主様」
突然、聞き覚えのある声がした。慌ててそちらを振り向けば開いた戸の先に花影が控えている。
「陽の神の領分に一番詳しいのは花嫁様ですもの。私達には気が付かないことでも、花嫁様なら気づいていただけるかも知れませんでしょう? 緊急事態ですもの、陽の神様もお許しくださいますわ」
万事に慎重な彼女から後押しされるとは思いもしなかった。まじまじと顔を見つめれば、ふいと視線を逸らされる。主様が深く息を吐いた。
「いいだろう。決して我らの側を離れるなよ?」
「はいっ!」
微笑みを浮かべた主様は、黒縄を引き連れて静まり返る廊下を奥へと進んでいく。行き先はおそらく冥府への入り口がある奥の間だろう。私の後ろを着いてくる花影が軽い身のこなしで隣に並ぶと私の耳元で囁いた。
「あんな風に言いましたけど、一歩間違えたら本当に死んでしまうかも知れませんわよ、花嫁様。その覚悟はちゃんとお有りになって?」
いつも私に苦言を呈するのは心配しているからなのだろう。彼女なりの優しさなのだ。多少は親しくなれたのだと思うと思わず本音が口からこぼれ落ちる。
「ええ、今はもう命が惜しくないの」
もし命が尽きても主様と冥府で暮らせる。一瞬驚いた表情を見せた花影は次の瞬間、呆れたような笑みを浮かべた。
「あらまあ、でもそれだと主様は陽の神との約定を反故にすることになるわね。……はあ、仕方ないわ。私も貴女を守るために、己が命運を掛ける覚悟をしておきます」
「ごめんなさい、花影。あなたまで巻き込んでしまって」
「そう思うのなら、主様のためにしっかりと働いてくださいませ」
すっぱりと切り捨てて、彼女は軽やかに移動すると先導する主様の隣に並んだ。どうやら集めてきた情報を伝えるため、らしい。すれ違うとき、彼女の身体からはわずかに雨の匂いがした。
ここは神殿の奥深く、そんな場所に雨の名残りなど見当たらないというのに。短い時間とはいえ凄まじい量の雨であったから、外で雨に降られたのだろうか。
「花嫁様、どうなさいました?」
「っ!」
突然、黒縄から声が掛かり、身体が跳ねる。どうやら花影と入れ違うようにして背後を守ってくれていたらしい。
「ごごめんなさい、驚いてしまって!」
「いや、こちらこそ失礼しやした。音を消して這い寄るのが習い性なので、つい癖で」
彼はいたずらがバレた時の子供みたいにへへっと笑い、誤魔化した。驚かされてばかりだけど、なんだか子供みたいで憎めないのよね。
「……黒縄、我が花嫁に何をしてる?」
「いえ、後ろを歩いているだけでさぁ」
ふと気が付くと、いつの間にか隣に主様が隣に立っていた。その後ろに立つ花影は呆れたような表情で私と黒縄を見ている。
「黒縄?」
「だから手を出してませんて! そんなおっかない表情で睨まないで下さいよ」
黒い表情を浮かべた主様に睨まれて、大袈裟なまでに私と距離を置く。すると主様が私に手を差し出した。
「無防備過ぎる。宵宮、手を」
「は、はい」
主様の大きな手が強く握り返し、そのまま身体が引き寄せられる。包まれるような体勢になった私の耳元で、甘い声が囁いた。
「忘れないで。あなたは私のものだ」
かあっと頭に血が上り、私の頬に赤みが指す。うれしいだけれど、この状況で言われるのはなんだか恥ずかしいわ。思わず顔を伏せた私の頭上から小さく笑う声がする。こういうのはちょっと意地悪だわ。
すると背後から、ボソボソと他の二人が会話する声が聞こえた。
「溺愛じゃないの」
「……俺、今マジで魂ごと食われるかと思った」
「あのねぇ、黒縄。悪いことは言わないから速やかに眷属へ通達しておいたほうがいいわよ? うっかりでも花嫁様に手を出したら間違いなく一族諸共滅せられるわね。この様子だと跡形も残らないんじゃないかしら?」
「うん、そうする」
それだけ主様が、私に執着してくださっているということだろう。包み込むような体勢よりも二人の会話が示すもののほうがもっと恥ずかしい。だけど間もなく離れ離れになるこの状況では、何よりもうれしい言葉だった。
やがて板戸の前にたどり着くと主様は迷うことなく戸を開けた。
再び出会う、白と灰と黒が織り成す静謐で優美な世界。前回と異なるのは、その世界のもっと奥深くまで踏み込んでいるというところか。
ギィ、ギィ……。
物悲しいような木の擦れる音が響く。灰色と黒で彩られた道を降りた先、白と淡い灰色の水を湛えた大河の岸辺にあったのは、濃い灰色と擦れた痕が使い込まれた質感を感じさせる舟着き場だった。
ここが噂に聞く冥府の入り口、三途の川にある渡し場ね。
そこには濃い灰色の衣を纏う人物と、鈍い光を放つ豪奢な銀の鎧を纏う人物が、深く頭を垂れてひざまずいていた。
誤字報告ありがとうございました。
お楽しみいただけると幸いです。




