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冥の花嫁がみる夢は  作者: ゆうひかんな


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六の常日裏話『通り雨②』


 言葉に隠された主旨に気づいたのだろう。

 わずかに空気を揺らして、陽の巫女の口から息を呑むような音がする。


「魂を造るなんて嘘よ、そんなこと、嘘に決まっている」

「冥府の主様を疑うのですか? それは不敬にあたりますよ、陽の巫女様」

「では、真面目に役をこなしてきた私の努力は一体……」


 神官長は未だに開かぬ戸へ向かい、皮肉げに唇を歪める。彼女が切望する非凡な力は、神から直接与えられるものだ。口先では神などいないと言いながらも、いつかは力を授けられると信じていたのだろう。

 宵宮を揶揄したように、所詮は()()()()()()だ。なかなか良く踊ったが、結局この少女も迷える者のひとりだということ。


 迷う者には導く者が必要だな。


 これから先、主導権を握るのは私のほうだ。そのためには完膚なきまでに小娘の反抗心を潰しておかねばならない。先代のように、口うるさい高慢な陽の巫女とならないように。従順に大人しくなるよう、しつけ直さねば。


「そういえば冥府の主様はこうも言っておられましたよ。陽の巫女と宵宮は磁石の両極と同じ。相反する力を持ちながら、互いに惹かれ合う。それはまるで家族に親しむ時のように仲睦まじいものだと冥府に伝わっているそうです。だから本物の陽の巫女と宵宮は出会ったときから親しみを持って接し、どちらかが一方的に嫌うことも、仲違いをすることも決してない、そうですよ」


 接触を控えることはあっても、放置することはあり得ない。


 駆け引きに慣れた貴族の娘であれば、表向きだけでも宵宮と仲良くしていただろう。神渡りは七日間で終わるのだ。冥府の住人に気取られなければいいわけで、帰った後ならどうとでもできる。それをおだてられて驕り高ぶり、調子に乗って無視を決め込むからこうなる。脇が甘いから器量良しなだけの田舎者と揶揄されるのだ。


「そんな……そんな事は()()()()()()わ」


 誰に聞いたのだろう、ふとそんな疑問が過ったが気にしすぎだろう。


「これを知るのは冥府の主様を除けば客人と陽の神様だけのようですから、仕方のないことでしょう」

「それでは、私の態度は……」

「あなたは宵宮に対する対応を誤った。環境に慣れないで困っている彼女を放置して、自ら偽物であると認めてしまったのですよ。よりにもよって、冥府の主様に」


 これで堕ちただろう。戸の内側を沈黙が支配する。より一層、闇の気配が濃くなった。

 そうだ、もっと堕ちればいい。そうすれば一層操りやすくなる。


「さきほど陽の巫女様は伯爵家の一件に証拠がないとおっしゃいましたね。だがそれとは別に証言や状況証拠というものがある。そしてそこからもたらされる心証、というものもあります」

「何が言いたい?」

「まず皆見の神からもたらされた神宝。陽の巫女であるあなたではなく、宵宮に与えられたということ」


 宵宮の説明では祝いの品として授かったと聞いている。だが冥の花嫁は神渡りの間だけの役目だ。期間限定の婚約であると考えれば神宝を授けるなど過剰とも思える。それを知るはずの皆見の神が、それでも与えたということは、見方を変えれば今代の陽の巫女では不適格と神が判じ宵宮へ与えたともとれよう。

 ではなぜ不適格としたのか。それは穢を祓う力が足りない、つまり資質に疑問があるからだ。


 まずひとつ。数えるように指を折る。


「そして都で起きた怪異。神渡りの薄暗闇を照らす陽光と思うような眩い光。この光が何であるか、冥府の主様や古参の神官は気がついていましたよ。そして経験はないけれど知識だけは持っている新参の神官達でさえ光の正体に思い至っております」


 神殿に仕える神官は各地で修行を積み、深い知識を得た優秀な人物ばかりだ。だからほとんどの者は、あの眩い光が陽の巫女の魂に宿るものであり、陽の巫女が陽の神の力を使う際に発する光であると感覚的に気がついていた。

 そしてなぜこの光を放つ魂が穢と共に、凄惨な事件のあったこの場所に留まっていたのか。一般的に無念を抱き死した魂は自身が縁の深い場所に留まる、と考えられていた。伯爵家は生前、信者として神殿に参拝していたから家族構成や人となりは神官達にもよく知られている。かの家には陽の巫女に選出されるふさわしい年頃の令嬢がいたことも知られていた。

 件のご令嬢は幼い頃から聡明で、身分に関係なく人々を公平に扱い、目下の者や使用人からも慕われたという。そして貴族にしては珍しく右京の人間とも親しみを持って接していたという。少々気が強く、潔癖な質であったが、それは逆に穢を祓う陽の巫女に相応しいとも思えよう。敏い者なら何かしら思う事はあるだろうし、その者が推測する内容はおそらく皆同じ。本来、神殿にあるべき魂がここにある理由にも繋がる。


 もしかしたら伯爵家の少女こそが本物の陽の巫女ではないか?


 それと同時に彼らが抱くだろう疑念にも想像がつこうというもの。今の陽の巫女は彼女が亡くなったために選ばれた代役ではないか。

 つまり、偽物だ。そして彼女の一族が彼女を陽の巫女につけるため、本当の陽の巫女を害したのでは? 再度神託で伺いをたてるわけでもなく宰相の娘が後任におさまった。証拠はないが、心証としては限りなく黒に近い灰色。

 今回、光を目撃した神官達は陽の巫女に対し不審感を募らせている。その不信感の一部が神託を告げた自身にも向けられてはいるが、神託の内容そのものに疑惑が向くことはないだろう。

 なぜなら神託の巫女が告げた神託の内容を知るのは神官長たる自分だけ、だからだ。当たり前のことと思うなかれ。神託を受け、それを己の口から話した神託の巫女がいるではないか。民も神殿の人間も神託の内容は神託の巫女と神官長たる私の二人が共有しているものと認識している。その神託の巫女が疑義を申し立てないのだ、誰が神託の誤りを指摘できよう。

 それに役目として神託を伝えただけの神官長が嘘をついているならば、神託を告げた巫女も嘘をついたことになってしまう。そして神託の巫女を疑うということは、すなわち今まで下された神託の全てを疑うことになるのだ。神託が神殿のもつ価値のひとつである以上、憶測だけで面目を潰す行為は神官達にはできない。


 ではそれを知る私が偽りの神託を帝に奏上できたのはなぜか。それは神託の内容を知ることはできないからだ。

 私も初めて見た時は驚いた。神託の巫女は神に依代として身体を貸し与えるそうで、一種の憑依されたような状態に陥る。瞳を閉じた巫女の口から語られるのは、明らかに口調の異なる他者の言葉だった。


 男性か、女性か。大人か、子供かもはっきりしない。具体的な指示もあれば、抽象的に告げられる予言もある。

だが神託の内容に関わらず、意識がないというのはいつも同じだった。つまり本当に神託の内容を知るのは、その場に立ち会う神官長だけだ。このことは代々神官長の役目を引き継ぐ時に口頭でのみ伝えられ、紙に残すことを禁じられる。神官長になるまでは自分も知らなかったからな。神託の巫女の側も神託の内容を知らないことは秘匿している。その理由はここにあるのだろう。


 暗黙の了解というのは、双方にとって都合が良いからだ。巫女は神に近しい存在であるとする根拠に神から言を託されるという状況を利用できればよい。世俗に疎い彼女達にとって、自分が何を話したのか内容など、どうでもよいのだ。こうして幾度となく神託は神殿にとって都合の良い内容へとすり替えられてきたのだ。

 六百年前のように神託がすり替えられた結果、被害でもなければわからない。それに前回の被害も偶々凶事が重なっただけとも思える。こんなことになるのなら、今回も高位貴族の娘にすげ替えてしまえばよかった。そうすれば高位貴族と繋がりが出来て、地盤を固める事ができたものを。

 神官長は役職を引退した後、できるだけ速やかに貴族位を得たいと考えていた。そのためには資金が必要であったし、根回しのための人脈も必要だ。


 彼は伯爵家の三男だった。一番上の兄は家督を継ぎ、伯爵家の主となった。そして次兄は望まれて侯爵家の婿となり、今や侯爵家の主となった。

 だが自分は……。養子の話もなく、成人すれば家を出なくてはならないため仕方なく神官の道を選んだ。そこから死ぬまで神に仕える単調で退屈な日々が続く。もちろんその日々があったからこそ今の地位を手にいれたのだから選んだ道を否定する気はない。それに少しくらい贅沢をしても罰は当たらないのではないか?

 生まれた順が早いというだけで恩恵の全てを奪われるのは理不尽だと思った。先に生まれたというだけで恩恵を享受する彼らを見返してやりたい、そのために今まで努力してきたのだから。その願いを叶えるために努力し、この地位を手にいれた。だから地位に伴う恩恵を自身のために使うことに対する抵抗は全くなかった。

 今までだってすり替えが行われてきた可能性が否定できないのだから、自分がそれをして何が悪い。割り切ってしまえば情報を漏らすという行為にすら罪悪感を感じなかった。


 そう、私がしたことは誤って情報を漏らしただけなのだ。直接誰かの命に手をかけたわけではない。


 今回の件で重要なのは神官達の心証がどう変化するかである。数々の行事で陽の巫女は神殿や神官の補助を得ているが、表向きはともかく、好意的に接してきた神官達が一線を引くようになるのは確かだ。人の心の機微には敏い彼女のこと、言わなくとも気がつくはず。潤沢な財力を背景に強引な手を使ってきたことも今回は裏目に出るだろうな。今までのように、すんなりと宰相や皆見の一族が望む意向がまかり通るとは思えない。


 これでふたつめ、とばかりに指を折る。


「これから冥府の主様に、穢が溜まる場所を特定した理由を聞かなくてはなりません。宵宮も迷える女性の魂から当日の状況を聞き出したようですから、それも聞かねばなりませんな」


 二人共に、あの場所へ目星をつけた理由を詳しくは聞いていない。だが内容によっては、陽の巫女にとって、知られては都合の悪い情報が含まれているはず。


 それにしても、あのときは驚いた。愚鈍で生意気なだけだと思っていた宵宮が、光を纏う人型と言葉を交わしたのだ。まさかあの娘にあんな利用価値があるとはな。話した内容の詳細まではわからないが、途切れ途切れに届く会話から、襲われたときの状況を聞き出しているのだと判断ができた。

 まあ、話の内容についての詳細は宴の後にでも聞き出せばよい。今この場では陽の巫女にとって都合の悪い内容が含まれているかもしれないと疑いを持たせればよいだけ。


「宵宮から聞き取り次第、速やかに帝に報告しなければなりますまい。それが私の務めですから」


 これでとどめとばかりに、三本目の指を折ろうとした。ところが扉の内側から、ふっと笑いがこぼれた。


「……何がおかしいのです?」

「あなたは、どうやら宵宮から当日何があったか()()()聞いていないようですね」

「どういうことですかな?」

「迷える魂がどんな話をしたか内容は聞いていないようですね、と言ったのですわ。先程あなたは私が宵宮に冷たくしたと仰っておりましたが、神官長の方があからさまでしたでしょう? だから宵宮が自ら話しかけるなんて状況は考えにくいでしょう? ですから私の身をご心配いただくよりも、よほどご自身の身の振り方を見直されたほうがよろしいのではと考えたら楽しくなってしまったの」


 戸の向こう側であからさまに、ふふっと笑う声がした。


 おかしい。先程までは余裕をなくしたように取り乱していたのに今は別人のようではないか。混乱する神官長を置き去りにして自信に満ちた陽の巫女の言葉が場を支配していく。


「だって当日何があったのか、詳細をお聞きになられたのなら強気に出ることはありませんもの」


 心底楽しそうに彼女が笑う。その言葉に、一抹の不安を覚えた。彼女は何か私の知り得ない情報を握っているのか? 激しく降る雨が板戸を叩く音が不安を煽る。


「たぶん宵宮が聞いたのはこういう内容ですわ」


 ――――強盗は神殿からの指示で陽の巫女となるはずであった少女を襲い、家族諸共殺害した。


「な、そんな馬鹿なことをするわけないだろう! 我々に何の利益もないではないか!」

「そうですわね、こんな筋書きはいかがでしょう? 神殿は、陽の神の力が失われる神渡りの期間を利用し、畏れ多くも帝から国の権力を簒奪しようとした。そのための下準備として、まず本来の陽の巫女を殺害し、偽者として私を陽の巫女に据えた。何も知らない私は、次代の陽の巫女であるというあなたの嘘を信じて騙されただけ。神託を知るのは神託の巫女と神託を唯一その場で聞くことのできる立場にあったあなた。つまり二人が共謀して帝を謀ったというわけ。私が心ならずも宵宮につらく当たったのは、あなたの恐ろしい企み気がつき、彼女を巻き込みたくないと思った優しさからだったとすればどうなるかしら?」

「……」

「私は自分が偽者だって知らなかった、だから日々真面目にお務めを果たした。つまり被害者なのよ」


 被害者と加害者の立場が一気に逆転する。

 

 たしかに彼女は役目を拝命してからずっと今まで陽の巫女の役目を真面目にこなしてきた。その裏には自分が陽の神に認められたいという別の思惑があったからだが、見方を変えるとたしかにそうなる。万が一偽物と発覚しても、今までの働きに免じて命を奪われることはないだろうし、騙された側であると主張すれば厳しく咎められることはないだろう。

 それにきっと、帝の覚えめでたい人物の娘であるということも心証に味方する。それが貴族という立場に付随する特権だ。結局は、家が人生を左右するのか。逃れようのない柵に捕らわれているようで、心底腹が立って仕方がなかった。


「そんな作り話が冥府の主様に通用するとでも思っているのか⁉︎」

「誤魔化すのは簡単ですわ。私が直接主様と話さないようにすればいいのです。主様には私の侍女から申し開きさせますわ。冥府の主様とはいえ、伝書鳩(侍女)を通じて伝えられたら嘘か本当かの判断はつかないのでしょうから」


 脳裏にほくそ笑む陽の巫女の姿が思い浮かんだ。陽の神の力が万事を支配するこの世では、肉体という恩恵が魂を守るとされ、冥府の主様の力をもってしても嘘を見抜くには色々と制限がかかるものらしい。


 そこまで聞いて、ふと気がつく。そもそもなぜそんな重要なことを、この娘が知っているのか?

 冥府では魂の記憶を直接読むことのできる主様に偽りは通用しないと言われている。この世なら、やり過ごすことはできようとも、死してのちに魂は冥府で裁きを受けるのだ。犯した罪の重さを冥府で暴かれるというのに、その事がまるで念頭にはないような態度が気にかかる。まるで生前の罪を帳消しにするような技があるのか。そんな荒唐無稽とも思うような疑問すら浮かぶ。


 第一、なぜ殺された令嬢本人が神殿が伯爵家の令嬢を害したという嘘を聞いているのか?

 まさか死に際の少女に、嘘を吹き込んだというのか。


 思い浮かぶ状況はただひとつ。そこには悪意しか感じられなかった。


「なんて恐ろしいことを。あなたは、なんと恐ろしい罪を犯したのか」

「そう思うのは、あなたが無条件に神の行いを善と信じているから。本当に、()()()の言ったとおりだわ。神は弱い人間の心に巣食う穢と同じ、油断大敵ね」

「あの方?」

「そうね、そろそろ頃合いかしら?」

「何が頃合いだと?」

「ふふ、あのね神官長。もうすでに私とあなたは一蓮托生なの。ひとりだけ無傷のまま逃げ出そうなんて許さないわ」

「……」

「それからあなたが、この場において不躾にも私を従えようと画策した件については、有益な情報を携えてきた献身に免じて許して差し上げます。私の温情に感謝なさい? これからは誰が飼い主か忘れないように気をつけることね」


 神官長たる私に、何という傲慢な言い草か⁉︎  耐えかねたように、ぎりっと奥歯が鳴った。所詮は偽物のくせに、生意気な。だがなぜここまで傲慢に振る舞うことができるのか。別の思惑でもあるのか、そう思った瞬間に突然、目の前の戸が内側から開かれた。


「どうぞお入りになって」


 白魚のような指先と、白い袿の裾が戸の隙間から垣間見えた。さきほどまでは頑なに扉を開くことを嫌がっていたのに、急にどうして。

 白い色は陽の巫女の色とされているから侍女が身に着けることはない。ということは、どうやら陽の巫女自ら戸を開けたようだ。


「……よろしいのですか?」

「かまいませんよ、どうぞこちらへ」


 なんだか嫌な予感がして、一応そう聞き返した。たしか散らかっているからと、入室を拒まれたはず。だが薄暗い部屋の中は整然としていて、散らかっているようには見えなかった。神殿でも清らかな場所のひとつであるはずである陽の巫女の部屋。視線を下げて白地に品よく柄を織り込んだ高価な白い袿を追うように部屋を進む。


 だがどういうわけか部屋の奥へと進んでいくたびに身に絡みつくような暗闇が気持ち悪いと感じた。 


 ――――こんな禍々しい空気に包まれた部屋にいては駄目だ。


 意識ではそう思うのに、身体は前を歩く白い背中を追っていく。まるでそうしなければいけないような気がしてしまう。どこか崩れたような後ろ姿は、本当にあの陽の巫女なのだろうか?

 神渡りの間に、彼女が別の何かへと生まれ変わったような、違和感。見慣れぬ背中をこちらに向けたまま、聞き慣れた声が几帳の奥へと声を掛ける。


「ご紹介したい方を連れてまいりましたわ」


 几帳の前で振り向いた顔は、やはり陽の巫女のものであった。相変わらず輝くような美しさだ。ところがしばらく会わない間に、かつてはなかった陰が生まれ、表情に険しいものが目立つようになっていた。

 別人のようだが、気のせいか? だがそれよりも気になったのは、彼女の台詞が自分以外の他者へと向けられたように聞こえたことだった。


「この潔斎時に、まさか客人がいらっしゃるとは申しませんよね?」


 潔斎とはすなわち穢を祓い、身を清浄なものに保つということ。どのような穢を持ち込むかわからぬために、神渡りの間、陽の巫女への謁見は不可としている。にも関わらず客人がいるというのは陽の巫女自身が招き入れたからだろう。

 暇に耐えきれず、仲の良い令嬢を居室へ呼んだのか。侍女の姿が見えぬのは、それを誤魔化すために下がらせているからに違いない。それでは潔斎の意味がないと苦言を呈そうとしたところで、のそりと大きな影が動いた。貴婦人が外出するときに頭からかぶる黒い被衣(かつぎ)、やはりどこぞのご令嬢がと思ったら視線が合った。

 背筋を悪寒が走って、ぶるりと身が震える――――いや、違うぞ。こんな色の目をした人は見たことがない。大きな黒い影は被衣を下げた。薄暗闇に晒された顔をみて、神官長は思わず叫んでいた。


「お、男ではないか!」


 陽の巫女が目線で示す先には見知らぬ男が立っていた。衣を被ったままのために風貌はよく見えないが、身体は神殿の警護にあたる神兵よりも一回り以上大きく、衣で隠されていてもわかる程に筋肉は盛り上がり、頭髪は短く刈り込まれている。蝋燭の灯りに照らされた顔の造作は整っているが、日に焼けた濃い褐色の肌のせいか、品性よりも野性を強く感じさせる。

 そして瞳の色は、金。獰猛な野生動物を想像させるのは、この瞳の色のせいか。それとも彼の身体から異常なまでに強く放たれる威圧のせいなのか。


 冥府の主様のように、人型でありながら、まるで人ならざるもののような。容姿の特徴は対極にありながら、似た雰囲気の人物を思い浮かべる。真っ直ぐに向けられた威圧に呼吸が荒くなり、上手く動けないでいるところを、黒い衣のうちから太い腕が伸び、そのまま口元を強く抑えつけた。

 猛る獣が獲物を捉えたように、壁に押しつけられる。これでは上手く息ができない。


「状況が見えぬのか、愚か者よ。大きな声を出すな、そして俺がよいと言うまで動くなよ?」


 徐々に空気を失い意識が朦朧とする中、相手の声を聞いただけでピシリと背筋が凍る。まるで、棒で殴られたような衝撃を感じた。この声はなんだ、どうしてこの声を聞くと身体の自由が効かなくなる?

 動けない自身の傍らで、陽の巫女がケラケラとあけすけに笑っていた。


「大人しくなりましたわね。素晴らしいですわ、聞き分けのない方で困っておりましたの」

「こんな程度のこと俺には造作ないことだからな」


 嘲笑うような会話を不愉快に思うよりも、恐怖が勝り、小さく震える。

 男から感じるのは圧倒的な力の差だった。反発したところで、一瞬にして命を奪われるだろう。そう思わせるような危うさがあった。自身の無力さを痛感して死への恐怖が心を真っ黒に塗りつぶした。


 死にたくはない、生きていたい。コトリと音を立てて、自分の中に新たな価値観が生まれた。

 生きていられるならば命以外の全てを捧げてもかまわない、と。


「おまえを、我が下僕とする」

「ありがとうございます」


 ああ、まだ生きていられそうだ。男の台詞を聞いて神官長は歓喜した。憂いはすっかりと晴れて、妙に気持ちが高ぶっている。それどころか警戒心は吹き飛んで、もはや彼が誰かという根本的な疑問すら浮かぶこともなかった。


「もう動いてよいぞ」


 私は何を迷っていたのか。だだ命ある限り、彼に従えばよいのだ。

 恍惚とした表情で男を見つめると、神官長は深々と頭を下げた。


 再び面を上げた彼の瞳からは、己の意思という光が消え去っていた。


次の一話は目線が変わります。

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