二の常日 『冥の花嫁』
冥の花嫁。
いつの頃からか、宵宮のことを彼らはそう呼ぶようになったという。人前でもかまわず溺愛し、はばかることなく寵愛はするけれど、神渡りの間で宵宮に選ばれた女性達と深い関係になったという記述は残っていなかった。だから宵宮はあくまでも接待役の花形であると思われていたようだ。
宵宮は慎ましやかに侍っておればよいとのだと、それ以上は求められるものはないと、そう言われていたのに。
「意外ですね」
「うん、何がだ?」
冥府の主と呼ばれるだけに、どちらかと言えば静寂を好むかと思っていたが、とんでもない。むしろ好奇心旺盛で活発な方であった。今も城で飼われている馬の背に揺られ、乗馬を楽しんでおられる。
「ああ、この服装か」
主様は乗馬用の動きやすい服に着替えられていた。それをちょんと摘まんでみせた仕草に笑みがこぼれる。思っていたよりも、ずいぶん子供っぽいのね。
――――主様が馬に乗ってみたいと所望されている。
そう伝えたときの神官達の慌てぶりは今まで見たことがなかった。数拍、活動を停止した彼らの様子を相変わらずの無表情のままで、でもよく見れば面白がっている風情で眺めていた主様が私に尋ねた。
『宵宮は馬に乗ったことはあるか?』
神官達のよく知る貴族のお嬢様方なら否と答えるところだろう。だが私は真逆の答えで応じた。
『はい、ございます』と。
完全に神官達が固まった。それを面白いと思った主様が鉄壁の無表情を崩して笑い出し、彼らはさらに言葉を失ったのだ。なぜ馬に乗れるのか、それは私の身分が身分だからだろう。
私は平民であったから。選ばれたのが貴族ではなく平民だとわかって、選定の儀は何とも言えない空気に包まれたという。
歴代の宵宮で最も身分の低い者。
それが彼らから見たときの、宵宮としての私の評価の全てだった。もちろん歴代の宵宮に平民が選ばれたことがなかったわけではない。今回はじめて聞いたのだが、私の前にもかつて一度だけあったという。ただそのときは神殿が神託を受けた巫女の誤りだろうと判断し、すぐさま相応しいと思われる貴族の姫を選び直した。
彼女こそ見目も美しく、教養もあり、まさに冥府の客人に相応しいと思われたのだが。実際に対面させてみると客人は彼女を見るなり冷めた表情でこう言い放ったという。
『ふざけるな、こいつは冥の花嫁じゃない』
なぜわかったのかと、人々は驚愕した。
不興を買ったとはいえ、いまさら新たな宵宮を差し向ける訳にもいかず、そのときは宴会や余興で何とかやり過ごした。だが次の神渡りまでの二百年、害獣の被害や外敵の侵入や干渉など経験のない凶事が続いたらしい。それ以降は身分により差別することなく宵宮に選ぶよう定めたそうだ。
そして今回の神渡りで、平民である私が神託により選ばれた。前例があるために表立った混乱はなかったものの、通常は行われる帝への宵宮の披露は取り止めとなり、地方を廻る禊は行われたものの規模は縮小された。おそらくだが神殿は貴族の寄付で宵宮の支度を賄っていたのだろう。身分の高い人物が宵宮であれば彼女の実家から多額の援助が期待できるが、平民である私の実家が多額の寄付などできようはずもなかった。
みすぼらしい衣装を纏った宵宮を人前に出すことは神殿の面子にも関わるという気持ちがあるのかもしれない。私には華美にも思える衣装が、彼らからすれば地味に見えるというのだから感覚の違いというものは恐ろしい。彼らは仕方なく国の援助金だけで宵宮の衣装や食事を賄うこととしたようだ。必要最低限の衣服を揃えて、以降は援助金がないから無理だと言われた。
だから今の私は乗馬服ではなく神殿が用意した女官服に身を包んでいる。乗馬には動きにくくて向かないと思うのだが、これ以上動きやすいものは用意出来なかったのだから仕方がない。自宅から着てきた平服を着たいと申し出たら即時に却下された。一応、両親が用意してくれた新品を着てきたのだけど。
「宵宮は馬に乗るのが上手いな。この国の女性は皆乗れるのか?」
主様の声で我に返る。
「いえ、そういうわけではありません。自宅の場所が中心部から離れているために、ときどき移動手段として使っておりました。両親からもいざという時のために良く習っておきなさいとも言われておりましたので」
実際のところ、必要がなければ乗らなかったけれど、それでも月に数回は馬に乗る機会はあった。高貴な女性の移動手段は馬車や輿と呼ばれる人力を必要とするものがほとんどだ。それは淑やかさの象徴であり、彼女達の身分が高いことを示す。一方で、男性は嗜みとして乗馬を趣味とされる方もいるようだ。
「聡明なご両親だ。体裁よりも貴女が自分で身を守る手段を得ることを一番としている」
女性の場合、はしたないからと両親が習うことを止める場合もあるそうだ。彼は身分に拘らず優しい人で、私を理解しようと努める人でもあるらしい。
うれしいと思った。そして闇に包まれているこの状況をありがたいとも思う。これなら赤く色づいた顔を見られなくて済む。それにしても何でこんなにも心を尽くしてくださるのか。
仮初の婚約者ではなく、まるで本物の婚約者みたい。
――――勘違いされませぬように。あなたの立場は仮のものなのです。
神の婚約者としての振る舞いを教示してくださった方の言葉が脳裏によみがえる。ほんの少しだけ浮かれた気持ちが、たちまち萎んでいった。
揺れる心を隠して前を向く。するとと広い背中が視界に入った。主様は私の乗馬の腕を誉めてくださったが、彼の腕前こそ素晴らしい。たぶん、はじめて馬に乗るというわけではなさそうだ。薄闇の中駆ける主様の背は、異界にあっても揺らぐことなく自信に満ちているように見えた。速度を落としてくださるのは従う者がついて来れるようにという配慮だろう。冥府の主は闇の番人であるともいう。闇すらも従える力を持つにも関わらず、この方は何故こんなにも優しいのか。
憧れる位ならかまわないでしょう?
身を慎めというのなら、せめて憧れるくらいは許してほしい。
やがて見通しの良い場所にたどり着くと、主様はぐるりと辺りを見回して思案するそぶりを見せる。眉間にシワを寄せ、厳しい表情で景色を一望すると小さく溜め息をついた。そして手招きをして私を呼ぶ。
「宵宮、本当に各地を巡ったのか?」
「はい、神官長より申し付けられました土地は全てです」
「土地の名を挙げてみよ」
指を折りながら巡った土地の名を明かす。すると、さらに表情が厳しくなった。
「足りぬ」
「……えっ⁉︎」
「巡った先で何をした?」
「神殿に参拝いたしました。」
「まさかそれだけか……。宵宮だと披露して、土地を隅々まで練り歩いたか?」
「詳しい指示はございませんでした。ただ時折付き添われて歩けと言われたので、それだけです」
眉間のシワがさらに深く刻まれる。やがて首を一つ振ると表情を穏やかなものに戻した。
「宵宮、あなたの住む場所はどっちの方角にあるのか?」
「この場所からみると……あの辺りでしょうか」
山の描く稜線を確認しつつ指し示した。主様はうなずくと、視線の先を神官達へ向ける。そして無表情から一転、にこやかな笑みを浮かべた。
「本日はとても有意義な時間を過ごさせてもらった。こんな素晴らしい眺めを堪能できるとは思わなかったよ」
「こちらこそ、幸いにございます」
満足そうな主様の様子に安堵の表情を浮かべる神官達。今晩、開催される宴には参加するという言葉を聞いて、それはもううれしそうな表情を浮かべている。おそらく相当な圧力があったのだろう。
宵宮は仮とはいえ婚約者であるが、主様の誘いがなければ参加しなくともよいとされている。特に私の場合は衣装の用意がないため、この女官服で宴に参加することになってしまうのだ。私は気にしないが気にする者は気にするだろうし、良家のお嬢様などは美しい主様とお知り合いになりたいとこぞって参加されるということだから、私は参加しないほうが都合よいのだろう。口を挟まず、大人しく聞いていると話の流れは明日の予定へと移っていった。
「それで主様、明日の予定ですが……」
脳裏に明日の予定を思い浮かべる。明日はたしか外出の予定が入っていた。ここから程よく近い場所にある栄えた町を観光していただくという予定のはずだ。
「外出が許されるのなら、私はあちらの方角へ行ってみたい」
見れば彼の指先は私が先ほど指差した方角を指している。神官はちらりと私を見た後、弱りきった表情を浮かべた。
「おそれながら、あの方角にある土地は栄えておらず主様に喜んでいただけるような場所が何ひとつございません」
たしかに人は少ないし、観光客での訪れるような土地ではないが、ひとつもというのは言い過ぎではないだろうか? かの土地を守護される土地神様に失礼ではないかしら、そう思いつつも黙って成り行きを見守る。すると主様はこちらを向いて微笑みを浮かべた。
「かまわぬ。宵宮、案内してもらえるだろうか?」
「はい、仰せのままに」
微笑んで応諾した。望まれたのだ、叶えないわけにはいかないでしょう。神官達が不満そうな表情を私に向けてくるが、もてなす側が明確な理由もなく断ることができるはずもない。そもそも客人が望んでいるのだ。それを断れというのなら、自分達が直接言えばよいのに。
「私のわがままに付き合わせて申し訳ないが、かの地の神とは懇意でな。誇り高いゆえに挨拶せねば相手の機嫌が悪くなる。ああ、先ほど聞いた神官殿の言葉は伝えておこう。栄えていないそうだが、もっと頑張れとな」
さあっと音を立てて神官の顔色が一気に悪くなった。彼らは神々と人とを繋ぐことが仕事なのだ、神に嫌われては仕事にならない。さすがにかわいそうになって主様にだけ聞こえるように小さな声で囁く。
「意地悪ですよ」
「私は本当のことしか言っていないぞ? 誇り高いというのは本当だし、挨拶する必要があるというのもな」
「何の挨拶をするのですか?」
「あと教えてやろう」
無表情のまま、私にだけ聞こえるよう彼は耳元へと唇を寄せる。甘い吐息がかかり、思わず背筋がぞくりとした。緊張のためか心拍数が上がる。主様は神官と明日の予定を調整するということなので、一旦神殿へと帰り、装いを変えるお手伝いをさせていただいた。あとは宴へと主様を送り出したら私の一日が終わる。
馬の世話をしながら、明日の予定を思い描いていると気づかないうちに笑みが浮かぶ。私も本当は楽しみで仕方がないのだ。
自慢の故郷だ、何をお見せしよう。
何をすれば喜んでくださるかしら?
二話目です。
お楽しみいただけると嬉しいです。