六の常日裏話『薄暗闇に蠢くもの②』
『俺の双面が表すのは善と悪ではない。運命の始まりと終わり、その両面を支配するために存在するのだ』
意味のないものと思われた、彼の台詞が脳裏に蘇った。今回の神渡りは始まりから違和感があったのだ、だから神渡りの始まると同時に情報を集めた。今になってみると、陽の神が異界に渡る際に言い置いていく言葉の趣が、いつもとは違っていたのが気にかかる。
「しかし、いつもながら陽の神は人使いの荒いことよ」
主にこき使われているのは蛇や狐といった眷属だから、そもそも人ではないが、これほど相応しい言葉はあるまい。自分とは対象的に、のんびりおっとりとした性格の彼を思い浮かべる。きっと任せきりだろう。さて、どう始末をつけるか。
そこで、まずは宵宮の望みを叶えるためとして穢を発する場所へと皆の意識を誘導した。そこは左京と呼ばれ、位の高い者が住まう地域であるらしい。着飾った人間が自分の周囲を取り巻き、知己を得ようとするあさましい姿に、こぼれ落ちそうなため息をなんとか飲み込んだ。
かまうのも面倒だからと、適当にあしらいつつ彼らから離れようとすれば今度は興味をそそられたようで我々の後をついてくる始末。
無知とは、なんとも厄介なものよ。ここまで図々しいと取り繕うのも面倒で深くため息をついてから、後ろをついてくる神官長へと問いかけた。
「神官長。出発前に申したとおり、我らは穢が発する場所へ向かっている。はっきり申し上げるが、何が起こるかわからない以上、あなた達を確実に守ると約束できない。いかが?」
「ああ大丈夫です、ご心配には及びません! 我々神官は穢を受けにくい呪のかけられた服を身に着けておりますので、穢からは守られております」
「では同行する左京に住む民は、どうされる?」
「ご安心ください。皆様には我が神殿の用意した護符を身に着けていただいております。大事はありますまい」
大事にならぬかは、その場に行ってみないとわからないのではないか。それに穢を受けにくい服やら護符があるのに、宵宮が身に着けているところを見たことがない。
「宵宮は冥府の客人と共にあるため、そういうまじないを施さぬ習わしなのです」
そう問えば、厳かな表情で微妙な内容の回答が返ってきた。彼の口調には悪意が伺えないことから、本当にそう思い込んでいるのだろう。その考え方が我々が穢と同じと言っているようなものだということに彼らは気がついてはいないようだ。そうこうしていると、ついに花影がキレた。
「……なんなら今すぐ神官全員にとり憑いて、覚めない悪夢でも見せてやりましょうか。たとえば化物に身を食われる夢、得体の知れないものに繰り返し追いかけられる夢なんか、どうでしょうかねぇ?」
「落ち着け、花影」
花影の、それはもう楽しそうな台詞に思わず苦笑いが浮かぶ。
まあ気持ちはわかるが、それは時間の無駄というものだ。そもそも彼らは穢が何なのかを知らない。現に、その場所へ到着してみれば、神官達は穢の放つ異様な雰囲気に慄いている。
そして気配に気がつくのはまだマシな方だった。全く気がつかない野次馬は、緊張感の欠片もなく、この地を巡る噂話に花を咲かせている。人魂が飛ぶ、夜毎女の啜り泣く声が聞こえ、燃え残った家が人の魂を喰らう……次第に空想じみてくる内容にため息をついた。命を危険に晒すような場所に、のこのこ着いてくるなよ。
どうやら彼らは我々の行為を余興が始まる程度にしか思っていないらしい。護符の効果を過信しているらしいが、これほどの穢の前ではたいした守りにもならないだろう。
彼らを傷つけるは陽の神との約定に差し障るか――――仕方なしに、穢を避ける結界を張った。
取り巻く空気が変わるから敏い人間なら気がつくかもしれないな。これにはさすがに神官達も気がついたようで、初めて感じる結界の気配に、どよめき口々に褒めそやす。今はそれどころではないだろうに。見えないとは、気楽なものよ。
ちょうどその時だった。弾かれたように宵宮が穢の前に飛び出したのは。
結界に気を取られ、皆の意識が彼女から外れた瞬間だった。手を伸ばした程度では届かぬ場所に彼女の姿がある。
誰かが、彼女を突き飛ばした再び穢に飲み込まれる彼女の姿を想像し、怒りの感情が浮かぶ。するとこちらの気持ちを逆なでするように、神官長の馬鹿にしたような声が響いた。
「まさか祓えぬとは言えますまい。のう、宵宮様?」
薄暗闇でもわかるほどに馬鹿にした顔……敬称をつけて宵宮の名を呼ぶなど、初めて聞いた。この場で我が花嫁を試そうというのか。怒りを無理やり抑え込み、改めて彼女の姿を確認すると、同じく怒りを顕にする花影をたしなめていた。花影と二言三言、言葉を交わしたのち彼女は真っ直ぐ私に力強い視線を向ける。穢と話すとことができるのは、闇に親しい者だけ。今この場にいる人間でそれが可能なのは、宵宮だけだ。
いいだろう、あなたの稀有な力を無知な人間共に知らしめてやればよい。
そのためなら、いくらでも力を貸そう。
私がうなずくと、彼女は臆することなく穢に話し掛け、手を差し伸べる。恐れもせず、怯みもしない後ろ姿。その力強い背に、思わず感嘆のため息をついた。
「強く、成長したものだ」
「可愛くて仕方がないなんて顔をされてますよ、主様。まるで雛を育てる親鳥みたいです」
傍らで花影が揶揄する声が聞こえるが、そんなことはどうでもいい。可愛くて仕方がないのは確かだ。見守っていると、彼女の掛けた言葉が女の魂の琴線に触れたらしい。我が花嫁が差し出す手に、女の伸ばした手が触れる。
だが穢が奪われまいと逆に力をこめた。彼女は手を離さない。必死の様子で女の手を握っている。
……手を貸すべきか? 一瞬、逡巡したのち、私の掌に闇の力を溜めておくことにした。この力をまともにぶつけたら、彼女が助けようとする魂は衝撃で砕けてしまうだろう。だが宵宮を、我が花嫁を失うわけにはいかない。
もう待てないと力を放とうとした、その刹那。ずるりと穢から女の魂が引き出された。その魂から放たれる眩い光に掌に貯めた力が霧散する。眩い光を浴びながら、思わず陽の神の神殿の方角へ視線を向けた。
なぜこれほど眩い魂が、ここにある? これこそ陽の巫女に宿る陽光そのものではないか。
例えるなら視界を眩ます光の反射、容赦なく大地を焦がす真夏の陽射し。そんな陽の巫女の魂が放つとされる強い光は、人が生来持つ抵抗する意志に宿るという。潔癖なまでに正義と愛を貫こうとする、強固な意志の力。だがこの力は永続的なものではなく、巫女が若く、魂が無垢であるほど力が強いとされる。なぜなら人は歳を重ね成熟すると、徐々に抵抗する意志を失う生き物だから。それに伴い彼女達の力も弱まる。
そのため個人差はあれど、本人の意志に関係なく代替わりを必要とし、陽の神は当代の陽の巫女の力が弱まる時期になると神託を下し、次代の巫女を選定するという。こうして陽の巫女は頻繁に代替わりを行い、新陳代謝を繰り返しながら常にこの世界を穢から守ってきた。身に宿る陽の神の力を借りることで、巫女は穢を祓い、闇の力を退ける。つまり陽光こそ陽の巫女が持つ力の根源であり、陽光を湛える魂を持つことこそが陽の巫女である証。
そしてこの眩い光は、神殿に勤める神官達であれば馴染みのはず。陽の巫女が陽の神の力を借りるとき、眩い光を発すると伝えられているはずだから。
宵宮から聞いたが、陽の巫女の代替わりは二年前。ごく最近の出来事といっても差し支えはないだろう。だから先代の陽の巫女が在職中、浄化のために発した眩い光を目の当たりにしていた者もいるはず。そう思い居並ぶ神殿の者達に視線を向ければ、彼らは顔色が悪い。確実に先代の巫女を知っているだろう神官長に至っては、薄暗闇でもわかるほどに顔色は真っ青で、しかもわずかに震えていた。
……あれは、我々の知らぬ何かを知っている顔だな。
魂の記憶など読まなくとも、すぐにわかった。彼の抱いているだろう感情は冥府でも馴染みのものだから。おそらく彼は甘言に惑わされ、陽の神の選定を蔑ろにしたのだろう。
では誰に惑わされ陽の神に背いたのか。誰が、についてはおおよそ見当はつく。理由まではさすがにわからぬがな。皆見の一族はなんのために双面と接触したのか? 彼らに双面は何を願ったのか?肉体に守られて、この世の人々の魂の記憶が直接覗けないことが口惜しい。
「さあ、もうよいでしょう? 皆、良い子だ、良い子だから、ね?」
核となる女性の魂が引き出されたことで穢の力が弱まった。それに気がついた彼女が懐から扇子を取り出し、扇ぐ。柔らかい風に擽られた穢が気持ち良さそうに身をよじった。そして彼女の優しい声に促され、一体、また一体と魂が冥府へと導かれていく。送り出された魂は迷うことなく、冥府へと辿り着いている。その様子を満足げに眺めながら宵宮が一際輝くような笑みを浮かべた。
とてもうれしそうだ。そのことがいつにも増して喜ばしく、誇らしい。
皆見の神からは素晴らしいものをいただいた。土地神とも呼ばれる喜多山の神とは異なり、あの方は古くからこの地に住まう神ではない。かつては異国で芸能と商売を守護する神と崇められていた。だが住処とした土地を追い出され、仕方なく海を渡ると、放浪の果に皆見へとたどり着いたのだという。やがて皆見の風土と住まう人々の気質を知り、いたく気に入った神は、古くからある社の一角を別の神から借り受け、他の神々と助け合いながら皆見の地を守るようになったのだ。
『この地は活気に満ち、見知らぬ客人をも温かく迎え入れてくれる懐の広さがある。そして辛いときでも笑い声を絶やさぬ強さも持つのよ。そのしたたかでありながら懸命に生きる健気な姿は、なんとも愛おしいもの』
穢を笑わせながら冥府へ送り出してくれる気遣いも、そのため。あの神もまた、客人であった。だから陽の神を祀るこの国では異端とされる宵宮を気にかけてくれるだろう。彼女に困ったことがあっても、相談すればあの方なら力を貸してくださるに違いない。そう思って彼女をあの方に紹介したのだが。
皆見の地を統べる一族が双面と繋がっているのならむしろ危険だ。不用意にあの地へ近づけば、どのような扱いを受けるかわからない。黒縄のように穢の核にされてしまうのは困る。
「やはりもっと情報が欲しいな」
「黒縄の仲間にも声を掛けておきました。おそらく、そろそろ到着しますよ」
「それなら先に頼みたいことがある」
「はい、主様」
「陽の巫女を調べてくれ」
「承知しました」
「それと双面には気をつけるように」
「黒縄とは格が違いますもの、お任せください。それに神渡りの闇は私の味方ですから」
「それと彼女を突き飛ばした者は?」
「もちろん確認してありますわ。殺り……んっ、失礼、やり返してもよろしいでしょうか。」
物騒な言葉が混じっていたような気がするが気のせいだろう。やったほうだって、やり返される覚悟があってやったのだろうから。突き飛ばした者は彼女を侮って、何もできずに失態を晒すと思っていたのだろうが、結果的には彼女の力を見せつける機会になって好都合だった。宵宮の名を連呼し煽った神官長の行為すら、民に彼女の働きを知らしめるためには好都合。――――だがそれと、我が眼前で宵宮を害しようとしたことは別だ。
「死なない程度になら、何をしてもかまわん。我が花嫁に手を出したのだ、覚悟はできていよう」
「世間知らずなお嬢様のようでしたよ? 誰かに唆されたのかもしれませんわね。だからといって許しませんが」
ニヤリと笑った花影が礼の姿勢をとると、そのまま闇に溶けるように姿を消す。あんなこともできるようになったのか。闇の力が優勢な神渡りの期間だからこそ磨かれる技があることを初めて知った気がする。
宵宮へと視線を戻せば、彼女は女性の魂と語り合っていた。真剣な表情から、何か重要な事を伝えられている様子だ。……あれも後で聞き出さねばなるまい。あの女性に何が起こったのかは貴重な情報のひとつだ。話せと言わずとも話してはくれるだろうが、彼女は遠慮して、感情を抑える傾向があるから悲しみの深さは推して図るしかない。
なんとなく、それが寂しい。
もっと我儘を言ってもかまわないのに。
視界では宵宮が女性の魂を両手で包み、ほろりと涙をこぼした。薄暗闇の中、両手から魂の放つ光が彼女だけを明るく照らす。感嘆し、思わずため息をついた。
なんと美しい。
潤んだ瞳から次々とこぼれて落ちる涙は、光に照らされ真珠のように輝いていた。浮かべた表情は淡く滲み、寂しげで現実感に乏しく今にも儚く消えてしまいそうで目が離せない。彼女の繊細な美しさの一端に触れて、そこかしこから人々の息を飲むような音がした。
まさに月下に咲く花の風情、清らかさと儚さを併せ持つ月の女神のよう。安易に触れてはならない気高い存在がそこにはあった。だが彼女が讃えられても、私の心は晴れない。
「……なぜ、泣くのだ」
泣かせないよう、心を尽くしてきたのに。
なんでそんな幸せそうに泣くのだ。
神渡りが終われば、再び、この世で会うことはない。そんなこと痛いほどわかっているから彼女が苦しむような悲しい思い出は残せないと、一線を引き、理性的に振る舞った。いつまでも彼女が自分だけを求め続けてくれるよう、鮮やかな色褪せない存在でいたくて。
だが彼女の流す涙が自分のためではないことが、これだけ口惜しいとは思わなかった。
手中の珠のように愛でるだけでは、彼女の全てを手に入れることはできない。死した後、魂は手に入れても、彼女が人として生きる時間を共に過ごすことは叶わないのだ。
私は彼女の全てが欲しい。
滾るような欲望は醜いと誰よりもわかっているのに、自分の心はままならない。今はただ、彼女を自身に縛り付けるような枷が欲しかった。
もう一度、時間を始まりの時に戻すことができるなら。神渡りの終わりを先延ばしにできるというのなら。望むものを……、彼女の全てを手にすることができるかもしれない。
運命の始まりと終わりを支配すること。それは生命を司る陽の神の領域で。ひとつの生命の始まりと、終わりがいつ訪れるかは陽の神のみぞ知ること。冥府の主であろうと、手を出していい領域の話ではなかった。
「そうか、双面はこの世の新たな神となろうとしたのか」
理解不能と思われた彼の意図が読めた、そんな気がした。彼の望みは自身を否定した、この世界を新たに作り直して支配すること。自身の手で新たな生命を生み出し、今ある生命から奪おうとしたのか。
「彼にとって、神はいないのだから、自身が新たな神となることに迷いはないのだろうな」
荒唐無稽で無謀とも思える。だが、一方でそうとも言い切れない己がいた。そのためには、まず障害となる陽の神に関わる人物――――陽の巫女を排除する。その結果、現世から陽の巫女が失われ我が花嫁が涙を流すのだ。
「やはり本来の陽の巫女は、こちらの女性だったのか」
「め、冥府の主様……それは一体、どういう意味でしょうか?」
神官長が囁くような声音で聞いてきた。盗み聞きとは品のないことを。そんな態度では他人に聞かれると問題がある、そんな態度ではないか。
「宵宮が離れがたくて泣いているのは、相手が陽の巫女だからよ」
なぜ知っている、まるでそう書いてあるかのような表情だった。
立場上、神官長が神託を重く受け止めていれば、決して強盗に殺されるような失態はおかさなかっただろう。適当な理由をつけて、陽の巫女としての資質を持った少女を神殿に留めてしまえばよかった。もし彼の立場で保護を最優先にしなかったとすれば、神官長としての資質を疑うくらいだ。
「陽の巫女と宵宮は磁石の両極と同じ。相反する力を持ちながら互いに惹かれ合う。それはまるで家族に親しむときのように仲睦まじいものと冥府には伝わっている。だからどちらかが一方的に嫌うことも、仲違いをすることも決してないそうだ」
「……そ、それはどなたから聞いたのでしょうか?」
「かつて客人となった冥府の住人から。……そして陽の神ご自身からもな」
「な、なんですと……!」
「二人が協力しながら、つつがなく世界を維持できるようにと願って自らの手で彼女達の魂を造るとそうなるそうだ」
相反する力を持つのだ、時と場合によっては互いを深く傷つけてしまう可能性がある。例えば二人が反発し、敵対すれば、世界に及ぼす傷は深い。だから互いをかけがえのないものと認識し、どちらかを排除しようなどとは決して思うことはないようにと陽の神の手で造られるのだ。
「まさか、そんな……」
「私の言葉は疑わしいと?」
「いえ、いえ。決してそうではありません! そうではありませんが……」
明らかにまずいことになったという顔をしている。
「それならば、教えていただきたい」
神官長と視線を合わせる。薄暗闇ではあるけれど、彼が恭しく頭を垂れる振りをしながら視線を逸らしたのを見逃さなかった。
「申し訳ないが今代の陽の巫女は、彼女を慈しんでいるとは思えないのだが。何か理由があるのか?」
「そ、それは神渡りの期間は不浄な気が満ちるため、陽の巫女は神殿で身を清らかに保つよう潔斎を行っております。そのため、なかなか忙しくされており手が回らぬせいかと……」
「……のう、神官長」
はっと、彼の顔が上がる。声音から何かを察したのだろうが。いまさら遅いというのに。
「あなた達は我ら冥府の住人を侮ってはおらぬか?」
神官長は顔色が真っ青になり、言葉半ばにして口を閉じた。人が得体の知れない冥府の住人を恐れているのはわかっている。そして畏怖の念がいつしか忌避する心を生み、やがて蔑むようになるということも。陽の神の恩恵に慣れて、異形であり闇を好む我々を不浄のものとし、その果てに我々が自分達より劣ると思うようになった。
もしくは、そう思いたいだけなのかもしれない。なぜならそう思うほうが、相手が自分より上の存在だと認めるよりもよほど楽だから。唇の端を歪める。だからこそ、彼らには隙が多い。
「本当に私が何も思うところがなく、この場に立っていると?」
私が何も言わず、直接手を下さないのには理由があるなどと思いもしないで。
連休中は、なかなか進まなくて、他の方が書かれた小説を読んで過ごしてしまいました。
お楽しみいただけると嬉しいです。




