五の常日裏話『穢の底』
長くなったものを切ったので短めです。
彼女を飲み込み、穢は満たされた喜びに身を揺らした。撒き散らされた呪詛はこの地を穢し、人の身に降り注げば魂を侵す。そして人の悪意を増幅させ、さらなる悲しみや憎しみを寄せる温床となる。姿形は見えずとも、撒き散らす呪詛によって不快な空気が辺りに充満し、人々は眉を潜め、足早に通り過ぎていく。
昼中、人通りの多いはずの大通りから、人の姿が消えた。
「主様、どうします?」
「どうもせぬよ。こうなれば、あとは彼女次第」
「冷たい人ですねぇ」
「そう思うのは、彼女を信じておらぬからよ」
穢を真っ二つに裂き、囚われている彼女を救い出すこともできた。だがそれでは彼女は抗うということを学ばぬままに冥府へ下るということになる。彼女はそこまでして守らねばならないほど、か弱い女性ではなかった。
『常ならば、ですが』
凛と澄んだ声音。彼女がそう申し添えたのは、客人の意志を尊重するためなのだろう。計画どおりに過ごすことを望む神殿の者に対し、彼女だけは予定変更の可能性を示した。
ただ流されるばかりの怠惰な人間には難しい所業だ。彼女の魂は力強く、そして誇り高い。だからこそ、余計に現世では生きにくかろう。
その誇り高い彼女を不用意に飲み込んだ穢。この醜い穢の姿がいつまで保つか見ものだな。
見上げれば、次第に湧き上がる何かに侵され、穢の塊がもがき苦しむ。奥底からは彼女の確かな鼓動が聞こえ、彼女の抗う気配に笑みを浮かべた。彼女は我がもの、そんな容易く取り込まれるわけがない。
我々と人は似て非なるものであり、本来ならば出会うはずのない者同士だ。一度見失えば二度と手に入らない。だから我々は神渡りの間に宵宮の手の甲に特別な印と眷属を残していた。
死して後、彼女を守護する眷属から知らせが冥府へと届くように。そして印を持つ魂を探せば、迷わず彼女達へとたどり着くことができるようにと。
自身が宵宮の手の甲に咲かせた印である白い花。彼女によく似て愛らしいだけでなく、凛と花を咲かせる姿が気に入ってそれを選んだ。それは供物として彼女が手折り、土地神に捧げた栄えある花でもある。
あの花の名を月見草というらしい。
夜にしか咲かず、しかも一晩で萎れてしまうという儚さ。宵宮曰く、陽の神が愛する月の女神の下に通うために贈ったとされており、一斉に咲くと花弁の輝きが闇夜を明るく照らすのだという。
『満開となる夜は、まるで山全体が白い宝玉みたいに淡く光るのです』
それは陽の神が月の女神に会いにいくため喜多山を通るからだと言われており、地元の民は、それを神からの知らせとして受け止め、山には決して近付かないようにしているそうだ。
『あの日の山の美しさは、私達、地元に住む者だけが知る秘密ですわ』
誇らしげに、そう宵宮は語った。神官が何もない場所であると揶揄したが、それは知ろうとしないから。こうして探せば陽の神が残した威光は各地に根付き、愛する民と共にある。
我が見ておきたいのは、そういうものよ。だから宵宮へと繋がる道しるべとして月見草を選んだ。
あの印こそ彼女が我がものである証。
そしてあれがある限り、何があろうと彼女を見失うことはない。
ほら、今も。私との約定を思い出した彼女が穢から吐き出され、腕の中へ落ちてくる。感じる身体の柔らかさと温もりに愛おしさが増した。
「おまえ達にはやらないよ。彼女は私のものだ」
自身の声が、ずいぶんと冷ややかなものとなったのも仕方がないと思える。
一瞬でも誰かに触れさせるなど、宵宮の願いを叶えるためであろうとも許せない。
我が腕の中で彼女が安堵のため息を漏らした。怖かっただろうに、臆することもなくここまで来た。弱さを知るからこそ芯が強く、愛らしい我が番。
冥の花嫁は、そうでなくてはいけない。
穢が力尽きたように身を崩した。拘束する力が弱まったことで核となる黒い塊が吐き出される。その容姿を確認して眉を寄せた。なぜこやつが、こんなところに?
それは黒い紐のような体がとぐろを巻いた状態で。よく見れば斑模様をもつ黒蛇だが、その姿に花影が思わず目を丸くした。
「あら、いやだ。黒縄じゃないの! ちょっとなにやってるのよ、穢に取り込まれるなんて気を抜きすぎよ⁉︎」
「いろいろあってな、ちょっとばかり油断した。面目ねぇ」
いつもはふてぶてしい奴の、力ない返答に苦笑いを浮かべる。ここまで力を奪われれば、移動すらままならぬだろうな。仕方なく人の姿をとった花影の持つ手籠へと奴をしまった。
黒縄のような力ある者を核とするからこそ、あの姿と大きさを保つことができたのか。核を失った穢は、その場にどろりと溶けた。こうなれば、浄化は簡単だ。
「道が開く。手をこちらに、我が花嫁」
「はい、主様」
幸せそうに私を見つめる視線が、横に逸れた瞬間、わずかに揺れる。私の背後に花影の姿を見つけたようだ。寄せた体を離し、彼女の握る手に力がこもる。最近まで、彼女の瞳には暗く陰りを帯びた熱があった。
我々に気づかれないように、そっと視線を逸らしていたけれど、我々が瞳の陰りに気づかないわけはないのに。
憤怒、悲哀、怨恨、そして嫉妬。至極一般的な人の感情の揺れは、冥府の裁きで馴染みのものだ。数多の罪人が集まる冥府に下ればこれらの負の感情は日常的に飛び交う。
さて、彼女はどう対処するだろうか。だが彼女が迷ったのはほんのわずかな時間だった。
今はただ揺らぐことなく平静に花影の視線を受け止めている。
見つめた瞳に馴染みの陰りや熱はなかった。代わりに受けて流すような穏やかな視線から、覚悟のほどが伺える。宵宮は穢の底で、いつの間にか折り合いをつけたらしい。私の背後に従う花影が、彼女に聞かれぬように小さな声で、ふふっと笑った。
「よかったですね、主様。私も煽ったかいがありましたわ。」
「まあ、そうなんだが」
彼女が成長したことは喜ばしい。だが反面、どこか寂しいと感じてしまう。惜しいことをしたと思ってしまうのはなぜだろうか。
「私への嫉妬は主様への深い愛情の裏返しだからではございませんこと? あらまあ、ごちそうさま!」
オホホ、と笑って花影がからかった。
「彼女の成長のためとはいえ、積極的に守ることはしなかった。折り合いをつけると同時に一線を引かれても仕方がないか」
「冥府の主様ともあろう方が気弱なことですわね。違いますよ、愛が冷めたのでなく別の呼び名に変わっただけですわ。そもそも私達のような眷属と花嫁様に与えられた役割は違う。聡明な方ですからお互いの価値を比べるだけ時間の無駄だと、そのことに気づかれたのでしょう」
彼女が穢の底で見せつけられたのは、自身が孕む負の感情。負の感情は、ときに無意識のまま他人を傷つける。無意識に犯した罪を清算する、それこそ人が冥府で裁かれる理由であり、我らが暴く罪の証だった。
そして彼女は穢に取り込まれながら、自身の罪を知り、冥府へ下る資格を得た。人の罪が何たるかを知らない者が裁き、導くことはできない。だから冥の花嫁は誰よりも深い闇を隠し持つ者こそが相応しいのだ。
「どうかされましたか?」
「君を好きだと、そう思っただけだ」
宵宮と重ねた手が、わずかに熱を帯びる。
この熱は彼女の体温が移ったものか、それとも。
神へと繋がる、道が開いた。
お楽しみいただけると嬉しいです。
続きは明日公開します。




