五の常日裏話『黒と黒』
「なぜこれほどまでに穢が溜まったのか」
塊となった穢を見上げ、眉を顰める。その数、八つ。この地では、どれほどの人々が無念を抱いたままに犠牲となったのだろう。天を侵すがごとく地上から這い上がる黒き穢の塊は、時折苦しそうに身をよじり、昼なお暗い神渡りの世界を陰惨な景色へと染め上げていく。
浄化されぬまま穢が積み重なると、このように醜く巨大な塊へと育つのだ。本来、この魂は浄化された後に我が冥府において裁かれるのモノ。ここまで育てば陽の神のおわす光に満ちた世界であろうとも全て消すことは叶わぬ。それは、この地が日々新たな憎しみや恨みを飽くことなく生み続けている証でもあった。常なる場合、日々積み重なる穢は巫女が陽の神に祈ることで、ある程度は浄化されるはずなのに。
どれだけ怠けているのだ、陽の神の巫女は。そうとしか思えない光景を目の当たりにして眉を顰めた。すると彼の足元でいざというとき速やかに駆けつけられるよう黒狐に姿を代えた花影が呟いた。
「主様、花嫁様がその身に穢を取り込んだようですわ」
「さすがは我が花嫁。穢を身に宿す形代となれるのは魂が純粋であるからこそ」
魂が純粋であることは穢を知らない無垢とは違う。穢が何たるかを知らない者が、穢を身に宿すことなどできないからな。見えぬは、知らぬと同じこと。あの神官長は見えないために、こんなに大きく育つまで放置できたのだ。
彼女こそ希少な人材であるのに活かそうとしないとは、愚かな。
あれだけ育った穢を取り込んでも宵宮の魂が影響を受けにくいのは、魂の持つ器の大きさゆえ。人でありながら闇に親しい者だけが穢を身に宿しつつも、もたらされる悪影響から守られる。才能の有無に美醜や貴賤、人品の優劣すら意味はない。類まれなる才能は、それらには関係なく与えられるものだから。
純白を汚れなき色の象徴として尊ぶ人間達にはわからぬだろうが、闇の纏う黒こそ何にも染まらぬ希少な色なのだ。単色でありながら、何者にも染められない気高き色。闇の纏う澄んだ黒と、魂が混じり合い濁っただけの暗色を同じ黒色として忌み嫌う。違いがわからないうちは、いつまでも穢の存在を知ることはできないだろう。
宵宮の魂に宿る、どこまでも果てなく澄んだ深い闇を思い浮かべる。行き場を失った魂を丸ごと包み込むような優しい闇を、穢が欲せぬわけはない。またの名を魂の安息の地とも呼ばれる、闇。安らぎこそ、彼らが心の底から欲しいと願うものだから。
「それにしても、花影。お主は我が花嫁に厳しすぎるのではないか?」
「まあ主様、心外ですわ! あの程度の意地悪、魂を喰われるよりはマシでございましょう?」
花影は艶然と微笑んだ。冥府に集う魂は良いものだけではない。むしろ悪しき魂こそ、贖罪のために永く留まる場所だ。そんな相手に弱さなど見せれば、たちまちのうちに隙につけ込まれ魂を喰われる。そう言いたいのだろう。
「花嫁様の魂が失われるだけでなく、善悪の判断がつかない冥府の魂もいらぬ罪を重ねるだけ。私は主様の悲しむ顔が見たくはありませんもの」
「それもそうなのだが」
「彼女に必要な経験と、わかっておられるから主様は私を彼女から引き離されないのでしょう? それどころか私ばかり悪役に仕立てて、本当に意地悪な方ね」
「時には厳しくしないとと、わかってはいるのだがな」
軽く睨まれて、視線を逸らした。長く冥府にあって人の持つ感情や機微とは無縁の生活を送ってきたからあえて言わないけれど人の事情など知らないし、それを裁きに加味するなど確実にない。冥府の主がそんな生半可な精神でも務まると思われているのが心外だ。
既知になることで、裁きを甘くしてくれるやもしれぬ。人間共がそう思うこと自体、我に対する不敬であるのにな。なのに彼らは冥府の主たる自分の前で、その邪な願望をぼかすことも隠すこともしない。酒の勢いを借りてよしなにやら、その節はよろしくと言われても、冥府の裁きで何をよろしくすればいいのか意味不明である。それが正直な気持ちであった。
だが宵宮だけは違う。彼女が選んだことで自身と縁が繋がった。来世もその先も新たな生を得ることなく彼女の魂は彼の傍らに留まる。
ついな、甘やかしてしまうのよ。
ただ冥府の主たる自分だけを信じ、心から尽くそうとする健気な姿に眷属達の姿が重なる。そして迂闊に手を出せば彼女に囚われそうな予感がして深く踏み込めないでいた。
我もまだまだ、未熟。それゆえに善意の裏へ巧妙に隠された悪意という名の棘を見せつける、花影の振る舞いに気がつきつつも肉体を害するものではないからと見逃していたのだ。だが、実のところ話はそう単純なものではないらしい。
「そもそもの話、どうやら彼女には宵宮がどんな存在であるかが全く伝わっていなかったようだ」
「まさか、そこが一番大事でしょうに。人間共は彼らにとって何の益もないことをしたと?」
「彼女の表情と言動から推察する限りではな。だが間違いないだろう」
通常、魂は陽の神が人間に恩恵として与えた肉体という器に包まれ守られている。だから冥府の主たる自身でも、直接魂に干渉することは許されない。魂を直接覗くわけではないから人の話す内容の真偽が読み難いのだ。
それは陽の神が不在の今でも似たようなもので、難易度は下がるが確実というほどではない。それでも宵宮は嘘をついていない、そのことだけははっきりとわかった。縁が繋がった瞬間から、彼女の心の動きがよくわかる。
「彼女は結果的に対価となることを承知した。知らないふりをするなど意味がないとは思わぬか?」
最初のころ、知らないふりをするのは申し出を拒む意図があるのかと思った。なぜなら宵宮の差し出す対価は自身の魂、差し出せば二度と生まれ変わることはできない。そう簡単に決心のつくものではないから理解はできる。
だが彼女は自身が対価と知ったあと、さほど迷う素振りもなく助力を求めた。
……最初から受け入れる覚悟があるならば知らぬふりをする理由がない。つまり知らないふりをしていたのではなく、本当に知らなかったのではないだろうか。
「それは……、たしかにそれもそうですねぇ」
「他にも気にかかることがあってな」
神官長を筆頭とした神殿に勤める人間達の彼女に対する態度だ。宵宮には客人を饗す義務がある。それは神殿と冥府の客人を取り持つのが宵宮の務めだから。宵宮は不在となる陽の神の代わりに、神殿や招かれた客人と協力してこの国を守る。つまり陽の神不在の今は、神殿も神官達も神の代理である宵宮を支えるために働かねばならない。それは外出先だけではなく、神殿内でも同じこと。だが神殿内には宵宮である彼女を補佐する神官もいなければ侍女もいなかった。乗馬をしてみたいと申し出たときは、彼女が全て手配し、神官達は用意された馬に乗りついてくるだけ。
まるで神殿に仕える侍女のようではないか。むしろ手伝いすらしない神官達の存在は邪魔なだけで、同席すら遠慮してもらいたいと思っていた。
今の神殿に陽の神はおらぬ。ならば神官達は神渡りの間、何を祀り、誰に仕えているのだろう。まさか神ではなく、一部の貴族へ仕えているというわけではあるまいな。それが本当のことならば、客人として招かれたはずの我だけでなく陽の神に対しても不敬でもある。
だがそこまで彼らも愚かではないずだ。現に神殿の奥にある戸を開けた途端、神官長が血相を変えて飛び込んできたくらいだから。客人が冥府に戻るのは困るという認識はあるらしい。
「つまり神殿にいる神官達も、宵宮の本来の役目を知らないのではないだろうか」
神官長が彼女へ投げかける言葉の端々に浮かぶ憎悪の感情。そして彼の部屋から戻った彼女の手首に、くっきりとついた赤い手の跡。彼女は取り繕っていたけれど、手首を掴まれ強引に部屋から追い出された、そんな気配を感じさせる痕跡だった。
身分に関係なく人々を善の方向へ導く立場にあるはずの神殿において、あの傲慢な態度。宵宮の本来の役目を知っていれば、あそこまでぞんざいに彼女を扱うことはあるまい。時が経ちすぎて継承すべき宵宮の役目が引き継ぎから失われてしまったのか、もしくは意図的に役目を隠し、取り繕うような名目へとすり替えたのか。
おそらくは後者だろう。そして、いつからなのか。
六百年前、陽の神に選ばれた宵宮が平民であったという、あのときか。陽の神が誤ったとは思えなかったから不測の事態が起きたための代役と捉えていたのだが、垣間見た神殿の対応を見ていれば何があったのかは想像がつく。
宵宮を自分達にとって都合のよい人間にすり替えたのだろうな。
選ばれたのが評判のよくない女性であったか、もしくは此度の宵宮のように身分が低いからか。客人を饗する宵宮にはふさわしくない人物と、神殿はそう勝手に判断し、彼らにとって好ましい別の女性を宵宮に据えた。
それが本当であれば……なんと浅はかであることよ。
自分達が好ましいとする女性を、当然我々も求めると疑わないなど、思慮が浅いだけでなく傲慢だ。陽の神がわざわざ神託を使ってまで宵宮を選定する、その理由を考えれば想像がつくだろうに。彼らの都合だけで選ばれた対価など邪魔なだけ、我々の求める冥の花嫁は彼らの選ぶ基準から外れた存在にあるのだから。
何万もの人間の魂の中にある、たったひとつ。それが冥府の住人にとって唯一無二の片割れなのだ。しかも出会った瞬間に自身の対となる冥の花嫁であるとわかってしまうほどに、鮮明で正確な感覚だった。
飢えたものが満たされる、その瞬間の喜びは何物にも替えがたいもの。冥府の主である自分でさえ、宵宮と視線が絡んだ瞬間、喜びに体内を巡る血が沸き立つほどだった。
だからこそ差し出された対価が偽者と知れば、どれだけ落胆することか。
六百年前、神渡りが終わり冥府に戻ってきた部下はずいぶんと憤り、落ち込んでいたが、それも仕方のないこと。神渡りの期間だけが陽の神の世界で生きる彼女達を直接知ることの出来る唯一の機会なのだから。それを逃せば、何万とある砂粒の中から、光り輝くたった一粒の砂金を見つけ出すようなものだ。もはや再び出会うことすらあり得ない。現に六百年の宵宮は只人であるから、とうの昔に命数は尽き、魂は冥府を訪れたはずだ。なのに彼がどれだけ探しても彼女を見つけることができなかった。
そういえば、と、ふと思い出す。あいつは大の酒好きで宴会好きだったな。おそらく宵宮に興味を持たぬ代わりに、憂さ晴らしとして連日連夜、酒や宴を要求したに違いない。その様子から神官達は我々に酒を与え、宴を催せば満足すると判断したわけか。
……つまり宴会と余興ばかりが続く日程はあいつのせいか。事情を知らないとはいえ、結果的には偽の宵宮を与えられたわけだから荒れても致し方ないとは思うが、冥府の住人が皆は遊んで暮らしていると認識されてしまうのは具合が悪い。昼夜問わず、もちろん冥府にそもそも昼夜の区別はないが、それでも皆、勤勉に働いている。
冥府は娯楽に満ち、宴会ばかり。想像でもそう思われているならば腹立たしい。
「そういえば、主様。最近、黒縄を見掛けまして?」
「うん? ああ、黒いのは見掛けてはおらぬが……いないのか?」
「そうなんですの。あれの仲間が騒いで私のところまで探しに来まして。なんでもずいぶん長いこと連絡がとれないとか」
「どのくらいだと?」
「百年ほどだそうです」
「ねぐらにもいないとすれば心配だな。群れで行動することの多いあれが連絡なく、行方知れずとは」
狡猾に立ち回るアレは花影と同じくらい古くから仕えている種族であるが、最近は呼び出す機会もなく、いなくなったことに気がつかなかった。目を閉じ、黒縄の気配を探る。
「気配が弱い…」
「そうなんですよねっ……、あ!」
すん、と花影の鼻が動き狙いを定めるように目を細めた。ああ、空気の質が変わったな。どんよりとした空気が、更に濃厚で不快なものへと変わっていく。獲物目掛けて、伏した花影が一気に加速し走り出した。
風を切り、闇を裂いて目指すは赤い鳥居の前。振り向きざまに、彼女は叫んだ。
「主様っ、花嫁様がっ!」
つい先程まで八つの穢を引き連れた宵宮がいた場所には、彼女を飲み込み一塊となった穢が、身を捩り不気味な呪詛を撒き散らしていた。
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