一の常日 『神渡り』
二百年に一度、この国では神が不在となる。期間は常日を六日、還日を一日の計七日間。この神渡りと呼ばれる七日間は、昼すらも闇に閉ざされる。
闇は悪しきものを呼び覚まし、国に災いをもたらすかも知れない。思い悩んだ神は冥府の主に相談し、約定を結ばれた。神が異界へと渡り力を蓄え、再びこの国へ戻るまで、冥府より客人をお招きし、彼らにこの国を守ってもらう。
前回の神渡りから、ちょうど二百年。
今年ついに、そのときがやってきた。
「陽の神が異界へと渡られたぞ!」
天を仰ぐ人々の眼前で、光輝く陽の神が黒々と塗り潰される。これが神渡りの始まり。
「宵宮様、これよりお勤めの時間です」
「はい、承知しました」
そして冥府より招いた客人を饗す、宵宮の勤めもこのときから始まる。潔斎ののち、通された神殿の最奥。分厚い金属の扉には冥府との境を示す陽の神の紋様が刻まれている。
この扉の先におわすのが、約定により冥府より遣わされた方。伝承を紐解けば、それは羅刹鬼と呼ばれる冥府を守護する武人であったり、鬼師と呼ばれる主の補佐を任される方であったとも聞く。
どのような方がいらっしゃるのかは戸を開けてみないことにはわからない。ただかつての客人は皆、理性的な方であったという、その言い伝えだけが不安な心をなぐさめる唯一の救いだ。
ひざまずき、礼の姿勢をとる宵宮と神官達の前で金属の扉が開かれる。神渡りの間、この金属の扉は開かれたままにされる代わりに、扉の奥に設置されている呪の施された板戸が現世へ冥府の客人以外の者が迷い込むのを防ぐらしい。
空気の動きから察するに、どなたかかこの部屋に立ち入られた気配があった。面を伏せたまま彼女は隣に並ぶ神官長の表情を伺う。情報として伝わる容姿の特徴や衣装の装飾から、今回の客人がどなたであるかを彼女に教えてくれるのが彼の役目のはずなのだが。
神官長は呆然とした表情のまま目を見開いているだけ。口からは言葉の欠片さえこぼれてこない。
彼女は小さく溜め息をついた。残念ながら現在の境遇では情報がこちらに伝わらないことはよくあることだった。それもいい意味よりも悪い方の意味で。……残念なことに、だからこそ磨かれるものもあるのだが。
まずは手順どおりに、こちらから声をおかけする。宵宮は声が震えぬよう気を配りながら思い当たる方の名を呼びかけた。
「ようこそおいでくださいました、冥府の主様」
「……ほう、よくわかったな。こちらこそ、お会いできて光栄だ」
主様がわずかに口角を上げた。宵宮はほっと息を吐く。当たっていたようで、よかった。これが間違いであれば、命をもって償うことになっただろう。
お言葉をかけていただいた後は、面を上げ会話を交わしてよいとされている。しっかりと相手を確認するため顔を上げた。まず目を引いたのは強さを宿す瞳だ。理性的で言い伝えのとおりで良かったと安堵する。瞳の色は黒、日の当たらぬ肌は白というよりも、ほのかに青く見えるほど。ゆるく結われた白銀の髪は冥府にあるものの徴。端正な顔立ちに、固く引き結ばれた唇は赤く妖艶ささえ漂う。冥府の主は、誰もが一瞬呼吸を忘れてしまうほどに美しい容姿をしていた。
そして彼のまとう特徴的な衣の色は漆黒。冥府では、黒は最も位の高い人物が使うことを許される色と聞いている。宵宮と視線が交わり、蝋燭の明かりを受けた彼の青白い肌にほんのりと朱が浮かんだ。
「なるほど、納得だな」
「何でございましょうか?」
「われら異形の者を恐れることなく見つめ返す者はほとんどいない。客人の花嫁は神自らがお選びになると聞いているが、これほどの度量を持つ娘ならば、どんな荒くれ者であろうとも不用意に喰らうことをためらうだろう」
伸ばされた手が私の手をすくい上げた。恭しく礼を返し、寄り添う。
仮初の婚約者。それが歴代の宵宮に与えられるお勤めだった。
「どう饗してくれるのか?」
「まずは宴席までご案内いたしましょう」
帝の命を受け、豪奢な宴席がすでに準備されている。主様は無表情のままうなずくも、わずかに眉を顰める。宴など、すでに飽き飽きしているといった風情か。
「常ならば、ですが。」
そう申し添えて、にっこりと微笑みを浮かべる。万人が宴席を好むとは限らない。
「よいのか?」
「はい、何かご所望のものはございますか?」
本当のところは、失礼があってはならぬと手順書によって宴の演目まで細かく決められている。本来ならば我が国を代表して帝と挨拶を交わし、場所を変えつつ、宴は夜遅くまで続く。ふと、背後から神官長の咳払いが聞こえた。
いまさらよね。聞こえなかった振りをして笑みを深くした。
ふっと主様の口許がゆるむ。笑った表情は、思っていた以上に優しかった。
「それでは我が花嫁が咎められよう。宴席への招待を謹んでお受けする」
「承知いたしました。早速、ご案内いたします」
あきらかに安堵したようなため息が聞こえた。すると主様は神官達に向き直り、はっきりとこうおっしゃった。
「ただし、明日以降はできる限り我が花嫁と過ごしたい。宴会などへの招待は不要、辞退させていただく」
明日は趣向を凝らした演劇と、飽きさせぬように宴を催す予定であったか。ただ一言、よろしく頼むとだけ言って、彼らに背を向けた。居並ぶ神官達からざわめきが聞こえる。それもうなずけよう、予定が変更されるなどかつてなかったのだから。
「よいな?」
だが、重ねてそう問われれば否と返すことはできない。こちらはもてなす側なのだから。
「仰せのままに」
神官長の言葉に呼応して、広間へ繋がる扉が開き、宴席へと誘う優美な音楽が流れた。これから一の還日まで、七日間。私の期間限定の婚約者は、冥府の管理者であり、最も強い力を持つとされる冥府の主であった。導くように、ゆっくりと足を進める私の耳元へ甘い声が囁いた。
「よろしく頼む、冥の花嫁」
下書きに作品がたまりすぎてしまったので、整理しつつ投稿します。三話までは続けて投稿できると思いますが、その先は修正しつつのんびりになります。
計画的でなくてすみません。
よろしくお願いいたします。