323話 走る狂気
朝はやっぱり眠い。
以前の自転車通学とは違い、空調の効いた車通学だとどうしても心地よくなって意識が遠のいてしまう。そういえば電車通学をしてる友達が、冬になると椅子の足元から出てくる暖房の気持ちよさに負けて意識を狩り取られるとか言ってたっけ。
そんな事を思い出しながらぼんやりと窓の外を眺めていたのだが――
「……え?」
信じられない光景が目に飛び込んできたため、うたた寝へと誘われていた俺の意識は一気に覚醒した。
「訊太郎さま! しっかりとおつかまりくださいッ、暴走車です!」
運転手の菊岡さんが警告を発するが、正気を疑うような惨状を目のあたりにした衝撃で1ミリも動けなかった。
「こちらにぶつけてくる危険がございます!」
菊岡さんは信号待ちのため、車を一時停車している。他の車も同じで、動いているのは対向車線からくる白い普通車のみ。ただ、その車は全く普通ではなかった。
その白い車は歩道へと突っ込み、何人もの通行人を跳ね続けているのだ。
俺が目撃しただけでも、すでに3人は轢き続けている。
なんの躊躇いもなく猛スピードで人を吹き飛ばすその異常さに身の毛がよだつ。同時に言いようのない恐怖に身の危険も強く感じた。
ただただ、何もできずに、その地獄絵図を無様に眺めていることしかできなかった。
時間にしてほんの一瞬、だけれど全てがスローモーションになってしまったみたいに世界はゆっくりと流れていて、不気味な感覚に呑み込まれてしまう。
4人目の犠牲者……自転車に乗っていた高校生が弾かれたところで白い車は車道へと戻り、あろうことかそのまま平然と走り続ける。
唖然とする俺をよそに、ボコボコにつぶれた白の車体は鮮明な赤を飛び散らせたまま横を通過してゆく。
「ひき、逃げ……?」
そう気づいた時には何もかもが遅く、俺はすぐにスマホで救急車を呼ぼうとする。だが、指が震えてうまく数字が打てない。
番号は……110じゃなくて、いや、119だったはず……?
「訊太郎さま、大丈夫です。少々お待ちくださいませ」
混乱する俺をフォローするかのように、その後は菊岡さんや目撃者数名の大人陣が通報と救急要請を出していた。
俺はその様子を、押し寄せる恐怖心に抗いながら見ている事しかできなかった。
現実はゲームとは全く違う。
人間がすぐ目の前で無残な扱いを受け、苦しみながら血を失い、肉塊となる。
その残酷さに慄きながら、得体のしれない不安が急速に増殖するのを感じた。
◇
『なあ、聞いた? 今日だけでひき逃げ事件が2000件を超えたらしい』
『たった1日だけで……? ひき逃げって、年間で1万8000件ぐらいじゃないのか?』
『君、詳しいね』
『これでも皇宮警察志望だからな。犯罪率のデータは一通り頭に入れてある。ちなみに検挙率は27%ほどだ』
『そう……。僕の友人も今日、被害にあって救急搬送されたのだけど……彼は大丈夫だろうか……』
『偶発的なひき逃げならば、犯人は動揺心や利己的な考えでとっさに逃げてしまうケースが多いらしい』
『……今回は故意に通行人を、何人も撥ねる事件が多いのだとか』
『むしゃくしゃしてたり、追い詰められた人間が突発的な事件を起こすっていうけど、それにしたって……理想郷とまで言われた日本でこれだけの事件が一斉に起きるなんて、何が起きたんだ?』
『海外のようにストレス社会でもなく、不景気に落ち込んでるわけでもない、皇家が安寧と繁栄に導くこの日本で、こんなにも多くの事件が発生するなんて……』
『そうだよな。まるで人も金も、余裕のない国みたいな惨状じゃないか』
朝、ひき逃げ事件に遭遇した俺は色々とショックで午後から登校した。
けれどそこでも待っていたのは、不穏な噂話だ。
クラスメイトが囁く内容が耳から離れず、スマホでニュースを見れば今日だけでひき逃げ事件が大量に発生している、といった記事が大きく取り上げられていた。
帰宅すれば、父さんが『物騒だ……この状況で訊太郎に寮生活などさせるものか! 初等部の生徒と同じ扱いで、自宅通学の申請をごり押しするぞ!』と明後日の方向に意気込んでいた……。
ちなみに俺は中等部扱いなので、もうすぐ寮生活が始まる。とはいえ基本的にいつでも家に帰ってよいし、御曹司やご令嬢の家庭事情的に寮に縛り付けることが無理なのだ。では、なぜ寮生活を実施するのかといえば、学園の敷地内は警備が厳重であり、通学時のリスクを減らすといった事情が主なご名目となっている。
確かに今、懸念事項がひき逃げのみだったら、学校から出ない寮生活の方が安全な気もする。
「多分、危険の回避方法は他にもあるんだろうな……」
思いつくのはクラン・クランだ。
今朝のように人々が被害を被るのは決して、決してあってはならない事件だと思う。ましてや、その刃の矛先が今回はたまたま他人に向いてしまったけど、もし夕輝や晃夜だったらと考えたら、ゾッとする。
……あのひき逃げ事件が、クラン・クランとどう結びつくかはわからない。
けれど、この異常事態はおそらくゲームが深く絡んでいるとみていいはず。そして既に最悪すぎる事件は起こっているけど、『まだ、ひき逃げだけで済んでいる』といった考えが思い浮かべば、俺はすぐにクラン・クランへとログインした。
『あらぁん、天使ちゅうわん! しばらくぶりねん♪ 学園でのことや通学時の事件については聞いてるわよぉん』
ログインと同時に、ジョージからフレンドメッセージが届く。
ジョージは日本皇立学園の体育教師、もとい軍閥科の中でも体術専行なのだが、ゲームの中で現実の話題を振ってくるのは珍しい。
『ああ、ジョージ。ちょこっと大変でした』
『またぁんまたぁん。ほんとに無理しちゃダメよ?』
『はい、薫拳沢先生!』
『いやぁん! こっちじゃ、普通に接してよぉん! あちきと天使ちゅわんの仲でしょん♪』
『うぃ』
『ところで天使ちゅわん、何かと大変だったと思うから、こういった内容を伝えるのは酷かもしれないけどぉん……』
ジョージにしては妙に歯切れの悪い間が空いた。
『ちょっとクラン・クランでも酷い事態が起きてるらしいのぉん』
『……ん?』
『【鉄と鎖の腐敗都市ギルディガリオン】? とかいった怪しげな都市で開催されるイベントに? 参加したいがために、犯罪傭兵にわざとなるって傭兵が出始めちゃってるのよねえん……』
『戦犯傭兵じゃなくて、犯罪傭兵に……?』
『そうねぇん。事前に相談して、傭兵団同士で同盟関係を築き上げ、そこからキルし合って戦犯傭兵になるより……簡単に犯罪傭兵になれる方法が発見されちゃったみたいでねん?』
『どんな、方法なの……?』
『本当に簡単なのよ』
ジョージは一拍の溜めを置いて、その事実を軽い口調で伝えてくる。
『馬車持ち傭兵が、その辺を歩く傭兵を轢いてキルするのよぉん』
どうやら俺の嫌な予感は当たっていたようだ。
現実での轢き逃げ事件多発の原因は……クラン・クランで馬車を活用し、キル行為に走る傭兵の急増加が現実化したものだったのだ。




