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残された掛軸

作者: なみさや




「何を考えておいでです? 旦那さま」

「うん?」

容真は振り返った。

先程までの装いを、常のものに代えた妻が穏やかに容真を見つめていた。

「これをどうしたものかと思ってな」

容真は視線だけで『これ』を示し、妻の廸は容真の側に立ち、ああ、と頷いた。

「そうですねぇ、父上の遺言に触れますかしら」

「それを考えていた。一年祭の後に思い当たるのは、遅いがな」

二人が眺めていたのは、床の間に掛けられた、一幅の掛軸。

片外しに髪を結った打ち掛け姿の女性が背中を向けてはいるが、腕に抱いた赤子は何かを取ろうとしているのか、こちら側に懸命に手を伸ばしている絵柄。

会津出身の画家がフランス留学から帰国の挨拶を亡き父・容保にした時、書いて欲しいと容保が依頼したと、容真は聞いていた。依頼された画家は最初は断ったと聞く。自分の画力不足もそうだが、何より亡き母を存知上げないと言えば、父は母の姿は後ろ姿で、抱く赤子はまだ幼かった容真と廸の長男・容至(かたゆき)を手本に書くことと、母親が羽織る打ち掛けの柄を指名して、頼み込んだという。容保がこだわった打ち掛けの柄は、実際に松平家に保存されていた亡き母のもので、容保は時折その打ち掛けを広げさせて眺めていたことを廸は覚えている。

「旦那さま、ご存知ですか、父上が何故この打ち掛けを大切にされたか」

廸の言葉に、容真は首を傾げる。

「いや、知らぬ。母上が大切に残されたもので他の打ち掛けは母上が亡くなって後に全て父上が燃やされたと聞いたが」

「私の嫁入り前に父上に聞いたことがあります。旦那さまが松平に養子に入られて、家中に初めて披露された時に母上が羽織られたものだそうです。その時に、母上が側室に入ったことも一緒に披露されたそうなのですが、父上には亡くなられたとは言え、正室の敏姫さまがいらっしゃったでしょう? 婿養子であった為に母上を正室に迎えることは出来なかったから、華燭の典も上げてやれなかった。だから、母上にとってはこの打ち掛けが唯一嫁入りらしいことだったのだそうです」

『だからな、廸。そなたに白無垢を着せてやれる事も、華燭の典を上げてやれる事も、わしは何より嬉しいのだ。真紀にしてやれなんだことを、廸にしてやれるからな』

廸が華燭の典で着る白無垢を広げた横に、件の打ち掛けを広げて、父は嬉しそうに言っていた。本当に愛おしそうに亡き母の打ち掛けを撫でて、父は呟いていた。

『なあ、真紀。廸が容真に嫁に行くぞ。なんと嬉しいことか』

「知らなかったな……」

「私もその時初めて知りました。父上には口止めされていましたけど、もう良いでしょう?」

「うむ。しかしそれほど大事にされていた母上の打ち掛けはどうなったのだ? もう長らく見ていないぞ」

廸は頷いて、

「亡くなる前に父上に伺ったところ、湖の傍で燃やして、灰は湖へ流したそうです。自分には掛軸がある、だから真紀に届けたと」

「……そう、か」

病を得て死期を悟った容保は、既に完成させていた表に出さない『京都守護職始末』と自らの日記、たった一枚残された家族写真などわずかなもの以外で亡き母に繋がるものを片端から処分していった。

残されたものは蔵にしまいこみ、容真と廸、弟の容紀以外の目には触れさせぬこと、その後は当主のみが管理することを言い置いて暫く後に亡くなった。

最後に残されたのは、容保が肌身離さず身に付けていた小さな竹筒。それも容保と共に去年埋葬された。

今日、容保の一年祭が行われ、容保は『忠誠霊神』の神号を与えられて、松平家廟所にその霊璽を納めることで、一年に渡った容保の葬礼が一区切りを迎えたのだが。

「最後まで父上は母上との約束を守られたのだな」

山川兄弟に命じて、京都守護職始末を編纂させていることとその内容を聞いて、容真は激怒した。自身が若かったこともあるが、自分を育ててくれた母が何の形も残さずに、それも父の手によって消されていくことが理解出来なかった。それはまだ幼かった容紀も同じで、平素は穏やかな弟が父に詰め寄る光景はついぞなかったことだった。その時初めて、容保は真紀の『真実』を明かした。

真紀がどこで生まれ、どこにたどり着き、どう生きて、何を言い残して死んだのかを。

容保が母の残した言葉を語る時は涙を堪えながら語るのを聞いて、廸は涙が止まらなかった。また辛い日々を送ることになったとしても、その先に父や自分たちに会えるのであれば、喜んで自分を戦国の世に送ると言ったと聞かされて、容真も容紀も言葉を失った。

優しかった、母。

時に怒れば怖いけれど、それでも母は優しい人だった。なのに過酷な生涯を送り、亡くなった今でも、父や自分達のためにあえて苛烈な道を選んだのだと知れば、容真たちにとって世に出るのが『偽り』の京都守護職始末であっても、出さねばならぬのだと理解した。

そして、父が折りに触れて母の遺品を処分するのも止められなかった。

「……母上が生まれるのはまだまだ先なのですね」

「ああ、容至どころか、その孫、曾孫の時代か」

「ならば、この掛軸くらいは残しても良いのでは? 父上がこの掛軸については何も言い残されなかったのです。残しても良いと、私は思いますよ」

「そうか……そうだな」

掛軸の中で懸命に手を伸ばす赤子は容至を手本に書かれたが、容保は少し手直しさせたと言う。幼い容真も廸も、容紀の面影もある。三人の面影を加えることで、父は掛軸の赤子を三人の子どもとして、見ていたのだろうか。

「容紀にも確認するが、これも蔵に納めるとしよう。母上の子である、我等三人の思い出として」

「ええ、それがよいでしょう」

「父上、母上、こちらでしたか」

声に振り返れば、そこには長男の容至が立っていた。

「夕餉の準備が整ったそうです」

「ああ、今行く」

「叔父上は何処でしょう?」

「蔵ではないか? また書冊に埋もれているだろう」

「わかりました、では蔵を探してみます」

数歩進んで、容真は振り返る。

夕焼けに照らされた掛軸は何も語らず、そこにある。容真は微笑んだ。そして内心だけで呟いた。

父上、これは残させて下さい。我等が母上を偲ぶ(よすが)の一つとして。

許して頂けますか?

答えは、ない。

無かったけれど、容真は笑みを深くした。

答えがないのが、父の許しのような気がして。

「旦那さま?」

先に歩を進めていた廸が振り返るが、容真は小さく首を横に振った。

「いや、何でもない。行こう」




翌日、件の掛軸は蔵に仕舞われ、二度と蔵を出ることはなかった。





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