残像
「いた、痛いぃ。や、やめて。ぶ、ぶたないで」
「何、抜かしやがる、この、泥棒猫っ。おおかたこの大根も、其の着物だって、何処かからくすねて来たに違いないんだっ。それとも何処かで大股広げてきたのかいっ。このっ、恥知らずの淫売がっ」
「ちがっ、ちがうう。ち、ちがう」
此れほど松が怒った事があっただろうか、だがスエは驚かなかった。
わかっていた、今の自分を見て松が喜ばないことだけは。
松にとって、大根や小銭などどうでも良かった。
あの一瞬の光景が、善兵衛の胸で頬を赤らめるスエが、許せなかった。
「なんだい、いっぱしに色気づきやがって」
髪をつかまれ引きずり回しながら、拳で叩く。其の手が痛むと、今度は近くにあった大根で、折れんばかりに叩く。
力任せに背中を叩いて折れた大根。
桃が持たせてくれた、大切な大根が折れて飛んでいったのは、旦那を見送り、家中に響く松の怒号に駆けつけ、其の光景に驚き佇んでいた雪音の足元だった。
「たす、助けてぇ」
涙と血でぐしゃぐしゃになった痣だらけの顔。転がった大根の側の雪音の白い足から上へと顔を上げ、優しい女へとすがるような目線を送る。
だがしかし、目線のあうか、あわぬうちに、天女とも崇め、憧れていたその人は踵を返して、奥座敷へと足早に立ち去ってしまった。
――桃さん――
身体中の痛みと、心の僅かな希望がひび割れた痛みで、少女の意識は遠のいてゆく。
薄れてゆく意識の中で目に残り、ぼやけてゆくのは、去ってゆく雪音の白い踵であった。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
明かりも灯さずに薄暗い部屋のすみで、頭を抱えて壁に向かい小さく背を丸める。
「ごめんなさい」と呟きながら、耳を押さえ、がちがちと鳴る歯の音だけが、細かく小さく聞こえている。
其処にいるのは、姿麗しい佳人、雪音ではなかった。
なさぬ仲の義理の母に、折檻されて罵られる。小さな小さな少女、雪音そのままだった。
『いやだ、もう嫌っ。お母様っ、どうしてっ、どうして雪音を措いて逝ってしまったの。雪音もお母様と一緒にお墓に入りたかった。冷たい土の中でお母様と一緒に朽ちる事ができたなら、どれ程幸せだったか。お父様はあの日、連れてきたあの女が、雪音を可愛がるとでも思ったのっ。自分だけさっさとお母様の所へ逝ってしまって、雪音は、雪音は――』
しゃがみこみ、声を殺してすすり泣く女、雪音。
日もとっぷりと暮れ、夜の闇が自分を哀れみ、人を呪う女の、華奢な身体を包み込んでゆく。
「ぅ、うぅん……」
冷たい風にぶるぶるっと身を震わせて、スエの意識が起き上がる。
目を開けようとして左目がズキリと痛んだ。
右目だけを薄っすらと開けても、其処には暗い闇ばかり。
『あたし、死んだのかな。あぁ、でも、良かった。桃さんを連れてこなくて……本当に良かった……ごめんね、桃さんの着物破れちゃった。髪だって、あんなに丁寧に、綺麗に結ってくれたのに……ごめんね……』
其のとき雲に隠れた月がほんの少しだけ光の筋を作る。
薄暗く見えてきた風景は、いつもの台所の土間。
其処にスエは水をかけられ、泥だらけのまま、大の字に寝転がっていた。
天井をしばらく見つめていたスエであったが、開け放された窓から吹き込む風に、浴びせられた水の溜りから身体を引きずり、這い出した。
そうしてずるずると壁まで這うと、壁に手をつき身体を起こし、そのまま其の壁へと身を預けるように寄りかかる。
「きれ、綺麗……」
殴られ傷つけられた口の中に、血の味が広がってゆく。
投げ出されたスエの足の爪先を、差し込む月の光の筋が、ぽおっと、まるで蛍の光のように青白くさせる。
今度は其のつま先をじっと見つめていたスエだったが、切れた唇や、頬の痛みをチリチリと感じながら、小さく呟きはじめる。
言葉の一つ一つを噛み締め、それでも、歌うように。
「ま、まんじゅう。
まん、じゅう。
まんじゅう、食べたい。
饅頭食べたい。
食べ、たい。
桃さん。
桃、さん。
桃さん。あい、会いたい。
桃さんに、会いたい。
会いたい――」
――なんだい、また泣いてんのかい――
「えへ、えへへ、桃さん」
涙が、次から次へと止め処も無く零れてきた。涙の向こうに桃の優しい顔と声が浮かんできた。
蛍となった自分の小さな足の指を、一つ、二つ、クイクイと動かし、ぐしゃぐしゃな顔で口を歪め、一瞬見えた桃の幻に、笑って見せるスエ。
だが、直ぐに両の掌で顔を覆う。
『泣かない、もう泣くもんか。いっぱい練習して、ちゃんとしゃべれるようになるんだ。あたし、負けないよ、桃さん』
――モモサン――
「スエちゃんっ」
呼ばれたように飛び起きた桃。
出合ったばかりの少女、スエが、何処かでまた、泣いているような気がしてならなかった。
「大丈夫かねぇ。あんまり一生懸命に来ないで、と言い張っていたし、なにより、かえって叱られると言われちゃねぇ。だけど、あんなになって小銭を探していたんだもの、よほど厳しい主人に違いないよね。雪音ちゃんが、あたしの知ってる雪音ちゃんなら、きっと庇ってあげてそうだけど――。やっぱり、一緒に行ったほうがよかったかねぇ―おっかさん――」
部屋の隅に置いてある小さな位牌に語りかけ、しばらく考え込んでいたが、温まっていた体が冷えてゆくのを感じ、再び寝床へともぐりこむ。
布団をぐっと顔の半分まで引き上げて、目を瞑る。
「だめだっ、やっぱ気になるよおっかさん。明日、探していってみようかね。手習い所だっていってたし、名前を頼りに探せるだろう。うん、そうだ、そうしよう」
月に照らされた縁台に散り積もっていた桃の花びらが、クルクルと螺旋を描いて風に遊んでいた。
更に吹く夜風に舞い上がる花びらが白い襖に当たって、しばらく抱きしめるように張り付いていたが、やがてそのまま、はらはらと空へ舞い上がってゆく。