雪兎
「それじゃぁ、また。来させてもらいますよ」
「まぁまぁまぁ、もう一晩、泊ってってくだされば」
「お義母さん」
「なんだい、お前も毎日首を長くして待ってるじゃないか。甘えたい時は、ちゃんと甘える女じゃないと可愛げが足りないよ」
「はっはっは。松さんはほんとに手厳しい。甘えてもらうのは嫌いじゃないが、あたしはこの人のこういう慎み深い所に惚れてましてね」
「まぁまぁ、ご馳走様」
いつも通りの時刻、いつも通りの滞在に、いつも通りのやり取り。
そして是もいつもの通りに自宅へ戻る善兵衛を、連れ立って見送る松と雪音。
先に回り雪音が格子戸を開けると、ちょうど帰ってきて入りあぐねていたスエが立っていた。
「あら」
誰、と雪音は言いかけ、言葉を喉につまらせる。
普段とは打って変わって娘らしい薄桃色の着物に、きちんと髪を結った少女。
手習いに来る、どの娘よりも質素な出で立ちではあるが、柔らかそうな白い頬に大きな瞳がまるで、花開いた牡丹のように華やかだった。
立ち尽くし戸惑った様子の雪音に焦れたように松が声をかける。
「なんだい、雪音。突っ立ったままで。旦那の前でボーっとおしでないよ。おや――おまえ、スエ、スエなのかい」
「あた、あたし。あ、あの」
上げると云って更に着せられた薄桃色の綺麗な着物。鏡に映った自分の姿。
驚いた雪音と松の顔にスエは、はにかんで俯きがちになる。
――今、自分はこの人たちの目にどう見えているんだろう――
娘らしい恥じらいを初めて感じていたスエに松は、顔を歪ませ言い放った。
「なんだい、其の格好は。おまえ、まさか――まさか、おあしを使ったんじゃないだろうね」
「ちが、ちがう。大、大、大根」
予想はしていた、それでもあらぬ疑いに、スエははにかんだ自分を恥じた。
―――何、期待してたんだろうあたし―――
悔しかった。
何よりも自分に。普通の娘のように、浮かれてしまった自分に腹を立てた。
大切に抱えてきた桃に持たされた大根を、スエはぐいと松の胸に突き出す。
思わず松が其れを抱いて後ろへよろけると、其処をドンと突き飛ばして格子を潜り抜けて裏口へ、えいとばかりに走ろうとした。
――消えてしまいたい――
だが、其のまた後ろに控えていた善兵衛の胸に、勢い良く突き当たる。
抱えるように其れを受け止めた善兵衛が、自分の胸に逃げ込んだ小さな白い兎のような少女に見惚れて声を漏らす。
「ほぅ」
「あ」
声を揃えた三人の女。
松の苛立つ声に、何時も以上に怒りが篭る。
「スエ、お待ちっ」
「ごめ、ごめん、なさい、ごめんなさい」
「此れは可愛い兎さんだ」
此れほど近くに男の匂いを嗅いだ事がないスエは、見上げている優しい笑顔と温かい声に見る見る其の頬を染めてゆく。
「スエっ、何してんだいっ、こっちに来な!」
「いたっ、いたいっ」
松はスエの耳を強く摘むと、ひね上げるようにして勝手口へと引っ張っていった。
小さな耳を思い切り引き上げられてスエが叫ぶ。結い上げられた其の髪も無残に乱れ、其の姿は吊り上げられた鮎のように大きく震えている。
一瞬の其の出来事は、其処にいた三人の大人の胸に小さな波紋を起こす。
睡蓮鉢の中でパシャリと音を立てたのは赤い魚の跳ねた音だったのか。