鏡
夕餉の香りが辺りから流れてくる長屋の一室で、愛らしい黄八丈の着物を纏いきちんと正座しているスエ。
そして先程声を掛けてくれた娘が其の後ろに膝を突いて、丁寧に髪をすいてやっている。
「あ、ありがとう」
「なにいってんの、なんでもないことだよ。其れよりあたしのお下がり、よく似合うじゃないか。あんた、別嬪さんだねぇ」
そういって覗き込んで鏡に映るスエに微笑みかける。
スエ自身も、久方ぶりに見る鏡に映る自分に、驚いていた。
小さな桃の花が刺繍されている薄桃色の半襟に、真っ白な頬がほんのりと赤らんで見える。きちんと結われた髪がまるで硯に溜めた墨のように黒々と光っている。
驚き、見開かれている丸い瞳は長い睫毛に縁取られ、まるで絵草子の中の阿古耶姫のようではないか。
「これ、これがあたし」
「綺麗だねぇ。なんていうかさ、華があるよ」
眩しそうに自分を見詰めて居る其の娘にスエは思ったままを口に出した。
「なん、なんで」
「ん」
「なんで、そ、そんなに親切に……」
してくれるの? と問う前に娘も不思議そうに言葉を挟んだ。
「さぁてね。あたしにもわかんないよ。けどさ、あんたを見てたら」
「みて、見てたら……」
「おっかさんなら、どうするかなって」
「お、おっかさん」
スエに母は居ない。
物心つく前からたった一人だった。
親無し子として、とある村で飼われる様に暮らしていたスエであったが、遂には売られ善兵衛の元に連れられたのである。
「おっかさん」と云う甘い響きに、スエの小さな胸がちりりと痛んだ。
「前の年に、亡くしちまったけど。優しい人だった。ううん、それだけじゃぁない。優しくて強い」
「つ、強い」
「そう。優しくて強くて、あったかい。大好きだった。其のおっかさんがあんたを見たら。こんな時、どうするだろうって思ったら居ても立ってもいられなくなっちまったんだよ。聞いたら僅かな額じゃないか。大根一本くらい、うちにだってあるからさ。もっておいきよ」
「う、ううう」
「なんだい、また泣き出したりして。櫛が痛かったかい、ごめんよ、あんまり慣れてなくてさ」
そういって笑う娘の髪は、ざっくりとひっつめただけの飾らないままだったが、なんだか、お天とう様の匂いがする。スエはそう思った。
「か、かえ、帰りたくない」
「そうかい」
「でも、でも、か、帰んなきゃ」
「そうかい」
「ゆ、ゆき、雪音さんが、心配するから」
「雪音、雪音って言ったかい」
「う、うん」
「それは、空から降る雪に音って書く、雪音かい」
「もじ、もじは、か、かなしかわからないけど、たぶんそう、き、綺麗な人だから」
「そう、もしかしたらあたしが知ってる雪音ちゃんかも」
「ゆき、雪音ちゃん。ううん、お、大人の女の人」
「そうだね、きっともうすっかり大人だね。ねぇ、あんた。あたしが送ってあげるよ。大根は持っていくとして、残ったお金は、饅頭でも買って食っちまいな」
「饅頭、食べたい」
「あっははは、饅頭はスンナリいえるんだね。あんたそれも、練習したら治るかもしれないよ」
「ス、スエ」
「あぁ、そういえば名前もまだだったね。あたしは桃。まぁ、どっちかって言うと花より実の方かな。それとも種か、あっははは」
「饅頭、食べたい。ほん、ほんとだ言える。あっ」
すらりと言えた嬉しさが、次の言葉に詰まってしまい元に戻る。
スエは少し切なそうに自分の口に小さな手を当てた。
「ゆっくり練習すると良いよ。そうさね、好きな食べ物食べたい食べたいって、毎日色んな食べ物でやってみたらどうだい」
「う、うん。やってみる。あり、ありがとう。桃さん、ありがとう。あっ」
「おや、また言えたっ。そうかぁ、桃も食べ物には違いないや。あはははは」
「あははは、あはははは」
「あっはははは」
小さな長屋の、小さな一間で小さい幸せの声がころころと鈴を鳴らすように聞こえて来る。