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雪月花 ―雪―  作者: くろぬこ
其々の花
4/29

火宅

  


黒塀に囲まれた粋な佇まい。


雪音と松が暮らす母屋の奥、宵の口もとうに過ぎた頃、行灯あんどんの灯が揺れる雪音の部屋。


「どうですか、もう一本つけてもらいましょうか」


上座に座る初老の男。


恰幅の良い裕福そうなこの男は、善兵衛と云って日本橋備前屋の主である。


何故大店の主人である善兵衛が上座に座って雪音の酌でくつろいでいるのか。


此処は雪音の家、というよりも善兵衛の妾宅であった。


表向きは、【かな てならい】の師匠を生業としているが、縁あって雪音は備前屋善兵衛の世話になっている身の上であった。


「いやいや、もうよしとくよ。せっかくお前さんに逢いにきて、酔いつぶれたくないからね。それとも其の方が、良いのにと思ってかい」


「そんな」


父と云ってもおかしくは無い年上の男に意地を焼かされ、雪音の困る様子に同席していた松がしゃしゃりでる。


「いやだ旦那ッたら、そんなに苛めるもんじゃぁありませんよ。雪はいつだって、旦那が来るのを首を長くして待ってるんですから」


まるでくるわのやりて婆あのような其の台詞に、雪音があからさまに眉根を寄せた。


可愛い雪音の顔の曇りに気づいてか、今度は善兵衛が商人あきんどならではの世事で返す。


「おやおや、そいつは嬉しいことで。お松さんは、変わらずご機嫌麗しいですなぁ。いつまでたっても、お綺麗だ。いやいやまだまだ、女盛りですな」


「嫌ですよ。おからかいになっちゃいけません。あたしゃ雪さえ綺麗でいてくれたら、何にもいりゃしませんのさ。自慢の娘でございますから」


「お義母さん、やめて」


堪りかね、たしなめようとする雪音にすぐさま言葉を返す松。


「なに言ってるんだい、本当だよぉ。綺麗で賢くて、なさぬ仲とは言いながら、磨きに磨いて、磨き上げたんだ。自慢に思って何が悪いんだい。其の器量のお陰であんた、備前屋善兵衛さんって言う立派な旦那さんのお目に留まって、こんなに贅沢させてもらってるんじゃぁないか」


身振り手振りも大げさに、松の口調が益々芝居がかる。


「あたしなんて、着の身着のまま、あんたって言うきれいな花の引き立て役にでも成れりゃぁ上々ってもんだよ」


「いやいや、そいつはいけませんな。世話させてもらってる雪のお母上に、粗末な着物なんざ着せといたとあっちゃぁ、この善兵衛の名がすたる。日本橋の呉服屋をよこさせますから、好きなものをお選びなさい」


善兵衛の申し出に雪音は白い指を彼の胸に当て、真剣な眼差しを送る。


「旦那、いいんです」


「あらやだ、それじゃまるでオネダリしたみたいじゃありませんか。ねぇ、雪音」


話しかける松のほうを見ることもせず、雪音は善兵衛の顔を真っ直ぐに見つめこわばった声で告げた。


「こんな風に何不自由なく暮らさせていただいております。これ以上の事はおたなに響きます。亡くなった奥様にも、申し訳がたちません」


身をわきまえず正妻の事を口にする娘に慌てて松も強張った声を出す。


「これ、何もこんなお席でする話かい」


まぁまぁと二人にむかって諌めるように手をかざすと改めて雪音のほうへと身体を向け、穏やかに善兵衛が微笑んだ。


「お前さんが気にすることじゃないよ。あたしは好きでやってるんだ。道楽者なんだよ。そうそう、こないだひょっこりと志郎さんがいらしゃってね。お元気そうだったよ」


「兄が。また何か、無心でもしましたか」


変わる事無く眉根を寄せて真剣な表情の雪音に、其の不安と心遣いをいたわりながら善兵衛は柔らかく笑った。


「はっはっは。何、ちょっと煙草銭を差し上げただけさね」


「まぁ」と、今度は松があからさまに眉をひそめてみせる。


「本当に、すみません」


頭を下げて俯く雪音のしなやかな手をとって善兵衛は自分の膝に乗せ、ぽんぽんと子供をいたわるように弾ませる。


それを視ながら松は仰々しくまた大きく溜息をつくと嘆くように声を出した。


「あの子は本当に、どうしちまったんだか。昔から本ばかり読んで、ちっとも懐かないし。旦那。無闇に甘やかさないでくださいね、なにやらよからぬ連中と、かかずりあっているようですし」


「お義母さん」


松の言葉に、再び顔を上げてもう止めてと云う目線を送る雪音。


可愛い雪音の困り顔に、善兵衛の鶴の一声。


「まぁまぁ。さて、そろそろ休もうかね」


「あらやだ妾ったら、すっかりおしゃべりしてしまって。馬に蹴られる前に、年よりはもう引っ込みましょうね。ごめんくださいませ」


「はいよ、お休みなさい」


慌てた様子で立ち上がり、「ごゆっくり」と部屋を出てゆく松の、閉めた障子をずっと見詰め続ける雪音。


「どうしたい」


「本当に、何てお詫びをしたら良いか」


「お前さんがあたしの側にいてくれる。それで十分さね」


「おいで―」


「―はい」


雪音が小さく応えるのを、立ち去る事無く其のまま廊下に佇み耳をそばだて聞いて居た松は、隠微な笑みを薄っすらと浮かべ、コクリと一度頷き夜の闇の中、自分の部屋へと戻っていった。


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