もう一つの花
「はい、今日はここまで。みんなきちんと片付けて、お道具を大切にね」
町のとおりを少し離れた横丁に黒塀のこじんまりとした家があった。
玄関の脇にすんなりとした黒竹。
その前に睡蓮鉢が置いてあり、覗くと小さな金魚が二匹、中睦まじく泳いでいる。
塀の裏から香ってくる桃の香りを風が運び、そしてカタカタと小さな音を立てて、掛けられた看板を揺さぶる。
半紙一枚ほどの板切れに、柔らかく丸みのあるひらがなで【かな てならい】と書かれている。
「ふぅ」
「お、おっしょさん、お疲れ様でございます」
「はい、お疲れ様。少し長引いちまったわ。スエちゃん、お湯、沸いてるかしら」
「は、はい」
「そう、じゃぁまずはさっぱりさせてもらおうかしら、そうそう、おっしょさんは止めてね。名前で呼んでいいのよ」
「は、はい」
そう云いながら文机に手を着いて腰を上げた女は、羽状 雪音。
年の頃は二十二、三になるであろうか。
幼い頃より一層美しく成長した立ち姿は、しなやかな柳腰、名にある雪の如く白い肌。
面長に切れ長の瞳が潤んでは揺れる。
男好きのする佳人である。
艶めかしい色香と品のある所作は、山の谷間であってもむせ返すほどの香りを放つ、一本の白百合のようである。
「はぁぁ」
溜息をつき、頬を赤らめて後姿を見つめる下働きの少女、スエ。
薄っすらと自分に微笑んで通り過ぎていった雪音の残り香にうっとりとしていると、背中に水をかけるように冷たい声が聞こえた。
「何、ボーっとしてるんだい。薄気味悪い子だね」
「あ、はい。スイ、スイ、スイマセン、奥さん」
奥さんと呼ばれた女は松。
雪音の母、さよりが亡くなった後、後添えとして羽状の家に入った。
だが直ぐに雪音の父であり松の夫、一も亡くす。
懐かなかった兄志郎は家を出、今こうして手習いの師匠となった雪音と二人暮らしをしているのである。
まだ三十路半ば、武家の後家とはいえ襟を抜いた其の姿は艶やかで、小股の切れ上がった男好きのする女である。
化粧を施した白い顔に眉をしかめ、憎々しげにスエに言葉を浴びせ続ける。
「すみません、だよ。それに、奥様ってお呼びといつも言ってるだろ。まったく、何度も言わせるんじゃないよ。だから山出しの娘なんか嫌だって言ったんだ。品もへったくれもありゃしない」
「すみ、すみません」
「それ、治んないのかい。其れを聞いてると苛つくったらないよ。旦那の頼みじゃなかったら、お前なんてとっととお払い箱さぁね」
「す、すみません」
いつもの様に突き刺さる松の言葉。
少女は、俯き強く、唇を噛み締める。
何時も、何処にいても生まれつきの吃音で馬鹿にされていた。
だがけっして、他人より知恵の遅れていることなどなかった。
雪音だけが、何時もそんなスエに優しかった。
「なんだい、いつまでも突っ立ってないで仕事に戻りな。今日はね、旦那さんがいらっしゃる日だ。失礼のないように整えるんだよ」
「は、はい」
逃げるように台所へと行く。
床下からヌカドコを取り出すと、そのまま手を入れてぎゅっ、ぎゅっとこねる。
「ち、ちきしょう。ちきしょう。ちきしょう、ちきしょう」
力を込めてこねる冷たいヌカドコに、一つ、二つと涙が零れ落ちる。
それでも何度もこねては、腕で泪をゴシゴシと拭う。
薄暗い台所の片隅で、泣く娘、スエ。
十五の誕生日であった。