黒松
「あ、あたしを後添えに……?」
「あ……いや、その……あんたさえよけりゃあって話なんだが……」
いつもの金づるのつもりだった。
人の良さだけが取り得の様なこの初老の男に、何の魅力を感じたこともなかった。
ただその人懐こい笑顔に、ふと頭によぎった
――父の面影――
『自分の父親なんてたいして覚えてなんていないのに、あたしも飛んだ甘ちゃんだったんだねぇ……』
流れる血は、松の体内を染めてゆく。
息をするのももどかしい。自分の身体をこれ程までに重く思えた事があっただろうか。
「……っは、はぁ、はぁっ……雪音……」
急がなければ、あの子だけは、雪音だけは護らなければ。
刺された胸がずきりと痛む。
松は、考え付く限りの近道をして、雪音の家へと急ぐ。
ふらつく足元に、気がつかぬほどの小さな赤い跡を残しながら。
「あの子は、大店の女将さんになるんだ……。毎日、何の心配もなく……綺麗に着飾って……幸せに暮らさなきゃ……ああっ」
もつれる足が松を転ばせる。
砂を掴んで立ち上がる。
唇を噛み締め、娘のもとへと急ぐ松。
撒き散らかされた白い塩。
一頻り片づけを終えて雪音の様子を窺いにスエが、部屋へと行ってみる。
スエの胸がちりちりと痛む。雪音の憤り、松の驚いた顔。
あの鬼のような松の顔が、一瞬視たこともないような表情に変わっていた。
スエは、初めて松が人に視えた。
「お、奥さん……いったい、どこへ……」
スエの言葉に、雪音はぽつりと返事をする。
「行く所なんか、ひとっところしかないのよ……」
「え……」
「ごめんね、驚いたでしょう……。わたしも驚いてる……。でも、でもね後悔してないの。手が、足が震えて止まらなかったけれど、後悔なんてしていないのよ」
「ゆ、雪音さん」
「不思議ね……こんな風にわたし、頑張れたのね……。スエちゃん……ごめんね、親の仇なんて考えなければ、もっと早くこうしていれば……」
雪音の言葉の途中、スエが不意に耳をそばだてる。
カタリコトリと小さな音が、雪音の耳にも聞こえて来る。
スエは、部屋の外へと顔を向けた。小さな猫のようなスエの動きに雪音は不安げに声をかけた。
「スエちゃん……?」
スエが小さく首を傾げて、そっと雪音に応える。
「お、奥さん……?」
僅かにする物音は、松の部屋から聞こえている。
物音の正体を確かめようと、二人は手を取り合って松の部屋へと向かう。
前へ出て障子を開けようとするスエを自分の背に回し、雪音が自ら開ける。
部屋の中、箪笥の前で驚いたように振り向く顔は――
「よぉ、相変わらず別嬪だなぁ」
怖気が走る猫撫で声。
部屋中が荒らされ、散らかされている。
松の部屋を土足で踏み荒らしていた其の男こそ、あの、卑劣な蜥蜴
――銀二――
雪音はにやつく銀二から目を逸らさぬまま、背後のスエに瞬時に叫んだ。
「スエちゃん、人を呼んできて――!」
「は、はいっ、ああっ!」
「おおっと、そうはいかねぇよ」
素早く銀二がスエを捕らえた。
「スエちゃんっ」
「なんだぁこいつ、こんなに器量がよかったかあ? ちょっと育ちすぎだが、嫌れえじゃねぇなあ」
捕らえられた猫のようにジタバタと暴れるスエの髪を掴んで、顔を引き寄せると、驚くほどに長い舌でべろりとスエの頬を舐めあげた。
「ひゃひゃああいやああ」
「やめなさい!」
「ひゅう……おっかねぇ。随分威勢がよくなったじゃねぇか雪音。松にまたぐら触られて、泣きべそかいてた頃のほうが可愛かったぜ?」
雪音の身体に怖気が走る。
汚らわしい。
穢らわしい。
ケガラワシイ。
スエは、自分の身の上を案ずるよりも、雪音へ心配そうに目をやった。きつく眉根を寄せて、銀二を睨むその顔が、松に向けたそれ以上に憎悪に歪んでいる。
雪音は、恐れている自分を決してこの男に見せはしないと、震える指で拳を造って力強く握り締める。
ありったけの勇気で叫ぶ、雪音。
「スエちゃんをはなせっ、この……っケダモノ……!」
強がる雪音に苛立ったか、常日頃の猫撫で声と打って変わって野太い声で、凄みを聞かす銀二が声を荒げる。
「金だ、金目の物を洗いざらいここに出しな。はやくしやがれ!」
「ゆ、雪音さん逃げてぇええええ」
「やかましい、おとなしくしやぁがれっ」
怖かった。逃げ出したいほどに。
――だけど……決めたんだ。わたしはもう……逃げてなんかやらないって!――
「乱暴しないでっ、今、今もって来ますから」
下手に出た雪音に、気を許したのかまた、何時もの猫撫で声で薄ら笑いを浮かべる銀二。
「逃げようなんて、考えねぇ方がいいぜ」
この、卑しい蜥蜴の様な男と、スエを二人にする事が不安で仕方がない雪音であったが、とりあえず奥の部屋へと金を取りに向かった。
銀二は掴んだスエの髪を放す事無く、箪笥の引き出しを漁っては小間物を畳に放り出していった。
ある程度探り終わると、スエを放し、ドスの聞いた声で云い付ける。
「餓鬼っ、そこの風呂敷に全部しまいやがれ、一つ残らずだぞ、いいなっ」
「は、っは、はい!」
放り出された風呂敷に、スエが辺りに散らばった物を拾ってゆく。
スエを思って急ぐ雪音が奥座敷の障子に手を伸ばすと、その手を掴む冷たい指があった。
「およし」
雪音は一瞬息を呑む。
嘗て見た事もないほどの乱れように、蒼白い顔で息を荒げた松であった。
雪音は思わず、お義母さん、と云いそうになり、息と一緒にその言葉を呑み込んだ。
それに気づいてか、松はしたり顔で雪音に向かって嗤って見せた。
「は、離して」
「馬鹿っ、そんなことより早くお逃げ……!」
「何を云って……それはっ、怪我をしているんですかっ」
髪を振り乱した松の胸に赤く滲む血潮の痕。
「そんなこたあどうでもいいんだよ、早くお逃げ。絶対に振り返っちゃあいけないよ……」
「いいえ、いいえ逃げませんっ、スエちゃんを放ってなんて……!」
スエと聞いて、銀二の忌まわしい性癖を思い出す松。
「スエっ……ちぃっ、何処までも面倒な餓鬼だよ……いいから、お前はお逃げっ」
「嫌ですっ!」
掴まれた冷たい白い指を振りほどいた、それだけだった。
それだけなのに松はそのまま床へと倒れこんだ。
雪音は一瞬、松へと伸ばした指先をそのまま空でぎゅっと握り締めると、部屋へと入って置いてあった手金庫をその胸に抱えた。
「…………ごめんなさいっ」
そう云ってスエを助けに走る雪音。
スエは、スエだけは絶対に護る。雪音の胸はその思いで溢れていた。
「……やれやれ……。どいつもこいつも、世話焼かせやがる……」
力ない声でそう呟くと、松はゆらりと立ち上がる。
一方、雪音は有り金入った金庫を胸に、部屋へと駆けつけた。
勢い良く障子を開けた雪音の目に映った光景は――。
スエを寝かせて跨る銀二――
半狂乱。夢中で暴れて泣くスエの叫びが家中に響いた。
「い、いやああっ」
「へ、へへへ可愛いなぁ……。雪音はもうとうが立ちすぎだ、おめえを連れて行ってやってもいいんだぜ……」
雪音の中で何かが弾けた。
「やめろっ!」
「っぐえぇえっ」
スエに馬乗りになっていた銀二の頭を、咄嗟に手にしていた鉄の金庫で殴りつけた。
ゴツッと嫌な音と、蛙のつぶれたような銀二の声が、スエの泣き声に混ざって聞こえた。
「うぇっうぇぇん雪音さあん……」
泣きじゃくるスエの肩を掴んで強く言い聞かせる。
「しっかりしてっ、逃げるのよ、スエちゃん走って! 駆けなさい!」
「で、でもぉ……」
「早く!」
「早くいきな……」
ゆらりと入り口に姿を現した松にスエが驚いて、短く叫んだ。
「っ」
胸を真っ赤に染め、帯も着物も乱れた松。
其の顔は幽鬼の如く青白く凄みかかって視えた。
だがスエは、その時松を――綺麗――と感じた。初めてこの女の顔を視たような、そんな叫びを上げたのだった。
「スエちゃん!」
松に気をとられているスエに雪音が声を上げる。
「は、はいっ」
柱に寄りかかる松の隣をすり抜けて、脱兎の如く駆け出すスエ。
細かく息を切らす松の腕には、油の入った壷が抱えられている。
頭を真っ赤に染めた銀二に、部屋中に、松は壷の油を振りかける。
「う、ううう……」
呻きながら、頭を砕かれた蛇のような銀二、に容赦なく油を壷が空になるまで注ぎ掛ける。
雪音は尋ねた。尋ねずには居られなかった。
「な、何を……」
「雪音……こいつはね、あたしの大切なものをぶち壊しやがったのさ……。そんなやつあね、生かしておくわけにゃあいかないんだよ……」
松は哂っているようにも見えた。
「だ、だめ……だめっ」
尋ねはしても、雪音には解っていた。
この後、松が何をするのかを。
「首でもはねなきゃこいつは何処までだって、お前に付きまとう……。 いや、案外首をはねてもまた生やしてきそうだよねぇ、蜥蜴みたいに、さ……!」
松が思い切り、銀二の下腹を踏みつけた。
ずっとこうしてやりたかった。
「げはぁっ!」とのたうつ銀二を愉快そうにせせら笑うと、松が静かに雪音に声をかけた。
「雪音、煙草有るかい……って、あぁ、面倒くせぇや」
そう云っって行灯を引き倒すと、辺りに撒き散らされた油にそって銀二と松の周りを火が取り囲む。
「ああっ!」
松が大きく雪音に叫ぶ。力の限りに声を上げる。
「さっさと行くんだよ!」
ゆらゆらと青い炎、朱の炎が雪音と松の間に広がってゆく。
――義理の娘、義理の母。二人を分かつ紅蓮の炎。赤い川――
「ぎゃ、ぎゃああああ、熱い、熱いいいいっ」
直ぐに全身炎に包まれ、銀二が転げ回って苦悶の声を上げた。
松も――。
着物の裾から、袂から、朱色の炎に包まれてゆく。
だか松の声は静かで、どこか満足げに聞こえた。
「ばあか、あたりまえだろぅ……」
そう言いながらも、その目はまっすぐに雪音を見つめている。
「だめ、だめええお義母さん、お義母さん!」
仕方がないねと薄っすらと微笑んで松が呟く。
「早くお逃げって、とろくさいこだねぇ……」
燃える炎が、雪音にさえも襲い掛かろうと勢いを増したその時。
「雪音さん!」
スエが叫んだ。
スエが呼んで連れてきた男衆が、泣いている雪音を抱え込もうとするが、雪音がそれを許さない。
「違う、こんなこと、こんなこと望んでなんか……!」
「雪音さん!」
泣き叫ぶ雪音とスエはさらに駆けつけた者達の手によって外へと連れ出される。
火は家中に燃え移り、町火消したちが飛び火せぬよう、水をかけては雪音の家を引き倒していった。
「はじめさん……雪音がね……おかあさんっだって……。馬鹿だねぇあの子泣いてたよ。あたしなんかの為に泣くなんて……」
――本当に……あんたに……そっくりさ――
燃え盛る炎の中、松は黒い影となって崩れ落ちた。
音もない、静かな炎の世界の中、松は確かに何かを口に含んだ。
松、享年三十一。
暗く激しい青い焔、松の短い生涯は終わった。
備前屋、離れ。
人の気配に、雪音が瞼を開くと、自分を心配そうに覗き込む志郎がいた。
「おお、気がついたかっ」
「兄さん……」
「身体は、何処も痛くねえかい、苦しいところはねえかい」
「ここは……?」
「備前屋だ」
「備前屋……」
「馬鹿野郎、だからあれほど無理はするなって云ったじゃねえか。あの女を追い出すのだって、俺が行くまで待ってろって――」
「ゴメン」
「まったく……。おめえの家が火事だって聞いたときは、生きた心地がしなかったぜ……」
志郎の瞳が泪で揺れる。
「スエちゃんは……?」
「桃の家で嬉しそうに寝てやがったぜ、安心しな」
「そう」
「てえしたもんだぜ、あいつ。直ぐに近所に声をかけて、男衆を呼び戻り、お前を連れて逃げたらしいんだが……。そん時によ、お袋がつかってた小間物一切持って出たらしい。あの火の中、よく気がついたもんだ。なんでも銀二の野郎が風呂敷に包ませてたらしいぜ」
「まあ」と云った雪音の声は、スエの機敏な行動に、安心した志郎の嬉しい早口に。
「偉かったなって頭をなでてやったら、急にわあわあ泣き出しやがったが……すぐに、にかにか笑いやがった。あいつは……つええな」
「ほんとに」と雪音は心の底からそう思った。
突然志郎が思い出したように袂に手を入れ、何かを取り出した。
「そうそう、おめぇ、こいつがなんだか解るかい」
志郎が雪音に差し出したのは、梅の実ほどの小さな折鶴。
折りなおしたのか、皺だらけの赤い折紙で折った鶴であった。
「折鶴……?」
「……だよなぁ、念のためにと泣き虫の旦那が、開いてきたんだが……」
雪音も鶴を開いてみると、少し滲んだ拙い文字が書いてあった。
「これ、これどこで……?」
「いやなあ、あの婆あが、松が口に含んでやがったらしくてよ。そのせいで燃えずに残ってたんだろうが……」
「口に……!」
瞬間雪音が声を上げて泣き出した。
志郎は慌てて声をかける。
「お、おい、雪音……。どうした、どっか痛てえのか? お、おい……」
大粒の泪を流して泣く、雪音の白い指が握り締めた折鶴は、忘れもしない子供の頃。
白い着物に身を包んだ若くて綺麗な新しい母に、思いを込めて折った鶴。
開くと中にはたった一言。
――おかあさん――
と書かれていたのであった。
次話でいよいよ最終回です。
此処までお付き合いいただいてありがとうございます。




