白波
時は戻ってまた動き出す。
此処を訪ねるのはもう幾度目であろうか。
松が訪ねた先は、一軒の蕎麦屋。
なさぬ仲の義理の息子、志郎の住まう処である。
十四、五の下働きの娘に、僅かな小銭を渡して手なずけていた。
「間違いないんだね」
何度も念を押すと、のれんを押し上げ辺りを二度、三度と確かめて外へでた。
先日、障子の向こうで耳にした善兵衛と雪音の会話。
それ以来どうしても消えなかった胸のつかえが、松を突き動かす。
二吉、と名前が出たあの時の雪音の声の澱み。
雪音が松に逆らって家を出たのは、後にも先にもあの夜だけ。
待てど暮らせど帰らぬ雪音を、寝ずに待って朝を迎えた。
早朝、雪音は二吉と志郎に連れられて返ってきた。
志郎が探して、探しきれず、二吉にせがんで共に探したと。
そうしてやっと見つけ出し、因果を含めて連れ戻したと。
朝靄の中、家の門の前で志郎はずっと松を睨んでいた。
物も言わず、そのまま踵を返してどこかへ消えた志郎。
――あの志郎が、雪音に因果を……? ――
なんでも、遊び耽って良からぬ者と徒党を組んでいた志郎であったが、昔取った杵柄で二吉に見咎められ善兵衛の知るところとなり、諭され世話になっていると。
『おかしい……。何がって云うんじゃない。都合が良すぎる……』
どうしても確かめたかった、数年前のあの夜の雪音の足取り。
駄々をこねる雪音に銀二を使って脅しをかけて、因果を含めたまでは良かったが。
結果はまったくの裏目に出て、益々頑なにさせてしまった。
当時も銀二に命じて話を確かめさせては見たものの、松の胸にわだかまりは残っていた。
一時は諦めたその足取りを、松は自ら探って歩いていた。
件の蕎麦屋も善兵衛の声が掛かった店だという。
暮らしの不安から降って沸いた様な妾の話に、一も二もなく飛びついた松だった。
男に飽きられることのないように、雪音を磨き飾り立てる。そんな事に夢中になっていた。
だが、思い起こす疑念の波紋は、松の胸の隅々にまで広がってゆく。
疲れていた。歩き回った其の足だけでは無く。
なんだか自分はもう、ずっとずっと曲がりくねった迷路を歩き続けているような、そんな気がしてきた。
町外れ。松はふと、川原で回る水車小屋に眼を留める。
音を立て、水に回されてゆく水車。
少ししゃがんで、川原の石を拾っては積み上げる。
丸い石、平たい石。ひとつひとつ。
暫く積み上げた石の山を見詰めていたが、立ち上がってそれを蹴り散らす。
――しっかりおし、まだまだ休んでいるわけには行かないんだよ――
家に戻ると、スエが浮き浮きと廊下を磨いていた。
――変な餓鬼だよ。何が楽しいんだか――
だが、今の松にはスエなど、どうでもよかった。
「お、おかえりなさいませ」
「雪音はいるかい」
「は、はい」
スエの持ってきた水桶で足を洗いながら、気だるそうに松は云う。
「……呼んでおいで」
「は、はい」
相変わらずのスエの吃音に、疲れた身体に苛立ちが満ちる。
「なにぼうっとつったってんだい、さっさとお行き」
「は、はい」
松の声が響いたのか、紺染めの粋な暖簾を潜って雪音が奥より姿を現した。
「大きな声を出して、どうしたんですか」
「雪音」
「スエちゃん、もういいわ」
「あ、は、はい」
廊下を行くスエの足音が小さくなる。雪音は其の後姿を静かに見詰めていた。
松はその一連の所作を一部も見逃すまいと、目をこらして見つめていた。
先だって、スエを自分の教室で学ばせたいとの話以来、雪音は松に対してどこか威圧的であった。
いつでも厭そうに自分を視るあの眼差し。
それが最近は別人のように自信に溢れ、真っ直ぐに松を見つめる。
それどころか、あからさまに卑しいものでも視るように、上から見下ろしているこの雪音の視線に松は苛立つ。
「そこにお座り」
「なんでしょう」
松の言葉に言い返す。いったい何時から。
「いいからお座りっ。もう稽古も終わりだろう」
雪音は眉一つ動かさず、静かに其の玄関先に腰を下ろす。
「お前、あたしに何か云わなきゃいけない事があるんじゃないのかい」
「さあ、なんのことやら――」
「ずいぶんととぼけるのが上手くなったじゃぁないか。だがね、そいつを仕込んだのが誰だかお忘れじゃあないよ」
「仕込んだなんて、人聞きの悪い。やめてくださいな」
そう云ってうしろ髪のほつれを直す艶やかなこの雪音が、十二の子だったらイヤというほど打ち据えて、口の利き方を教えてやるのに。
だが今、それをしようとするほど松は愚かではなく、大きく胸に息を吸いこみ吐いては、憤りを落ち着かせ、静かに話を進めていた。
「まあいいさ。それで、どうするんだい」
「どう……?」
「いいかげんにおしっ、お前の態度がそんな風なのは、大店の女房殿に収まる練習か何かかい。それにしたって、相手を間違えてやしないかってんだ」
「……」
「なんだいその目は」
「あいも変わらず立ち聞きですか……」
「だからなんだいっ、いっぱしの女のつもりか知らないが、お前なんざまだまだ尻の青い小娘さ。手玉に取ってる気でいたら、備前屋にいいように玩具にされて放り出されるのが落ちなんだ」
雪音は目を伏せ薄っすらと口端で笑った。
松は続ける。
「お店に入るって云ったって、誰に後ろ指刺される事無く体面保っていかなきゃ、使用人どもに舐められいびられするに違いない。だからあたしが――」
今更のお為ごかしに、雪音が松の話を遮ってせせら笑う。
「おかしなことを」
「なんだって」
「今更体面なんて……どうでもいいことです」
「な、お前……!」
「それこそ子供の頃から目を付けられて、妾奉公に売られた女が体面なんて……。分相応に、お店に尽くして旦那に尽くして一生が終わる……それだけじゃあないですか」
「そ、それじゃあたしは」
「あら、まだ着いて来るおつもりなんですか」
「っ」
「実の親でも無いくせに図々しい。もう十分に甘い汁も吸ったんじゃないんですか」
「ゆ、雪音……!」
今この目の前に居る女はいったい誰だろう。
儚げで、弱々しかったあの華奢な娘は、いったい何処に行ったのか。
何故気がつかなかったのか……。
今、雪音は女として自分と対等に向きあっている。
若く、美しい女として。
「お前……それが親に向かって云う台詞かい……」
雪音が、嘗て母を蔑んでいた自分と重なる。
あれは、あの目は母を見つめる自分の眼差し。
「親だと思ったことなんてありません」
「なんだって、もういっぺん云ってごらん!」
「殴るんですか、良いですとも、痕がつくほどおやんなさい。そうすりゃ、旦那は認めざるおえない。あの人は優しい人だから、いくら私が云っても、十分にしてあげたいって聞かないから丁度いい。どうしましたっ、お打ちなさい!」
「ぐ、ぐう」
「意気地がないのか、それとも浅ましく、少しでも施して欲しいのか。まあどちらでも構いません、私の気に障らぬうちにさっさと出て行ってくださいな……松さん」
「雪音っ、この恩知らず! 誰がそこまで――」
「ご教授のおかげで、立派にあんたを追い出せるようになりました。そうそう、勝手に使っていたお母様の小間物、着物、綺麗に置いて出て行ってくださいな。簪一本持ち出したなら、番所へと突き出しますよ」
「そんなこと……出来るもんか。曲がりなりにも親を訴えるなんざ……」
「親、ならね。どちらにしてもアナタはもうお仕舞いです。この……人殺しっ」
「な、なん……云うに事欠いてこの子はっ――」
「よくも、よくもあの厭らしい男と組んでお父様を……!」
「ちょ、ちょいとお待ち、何を云ってるんだい、一さんは事故で――」
「黙れっ、調べはついたんだ!」
「……調べ……?お前……」
「あの男がお縄になるのも時間の問題。わたしの家で捕り物なんて真っ平御免です、さあ、早く出てゆきなさい!」
「どういうことだい……銀二……銀二が、一さんを……?」
「スエちゃん、塩持ってきてっ、早く!」
ばたばたと足音を立ててやってきたスエが抱えていた塩壷を取り上げると、松に向かって握っては投げ、塩を浴びせる雪音。
その姿に、スエはすっかり驚いて尻餅をつく。
「ゆ、雪音さん……?」
「でてけっ、でてけ!」
「あ、ああ、おやめっ、おやめったら」
泣きながら塩を浴びせ、玄関の土間に下り、しまいには壷ごと松へと投げつける雪音の腕に、スエが必死にしがみ付き、泪ながらに訴える。
「だ、だめ、だめぇ」
「はぁっ、はぁっ」
「雪音さん、だめええ」
撒き散らされた塩の上に、力なくしゃがみ込んだ雪音をしっかりと抱きしめてスエが泣く。
こんなこと――、この美しく優しい人にさせてはいけない。
少女の胸にはその思いだけが溢れていた。
そして、雪音がスエの背にそっと手をやって撫でた時には、もうそこに松の姿はなかった。
「ごめんね……もう大丈夫。スエちゃん、もう大丈夫よ……」
弾む息を整えながら、雪音の其の黒い瞳も、泪で濡れていた。




