兄妹(あにいもうと)
それはまだ雪音の新しい生活が、善兵衛の妾宅の主としての暮らしが始まったばかりの頃。
「本当なのか……」
「兄さん、こんなことで嘘をいっても仕方がないわ」
「備前屋善兵衛……。喰えねえ親父だ……。だが、どうしても憎めねぇ。俺みたいな若造と夜が明けるまで語り合い、案ずるな信じろと云いやがった」
「私ね、兄さん。少し人を信じられるようになったの……。ある人のおかげでね。その人が、善兵衛さんを信じろって、悪いようにはならないって。それからきっと、お父様を殺した下手人を見つけ出して罰を与えてくれるって」
「ほう」
「だからね、私、善兵衛さんを信じる。善兵衛さんの奥様……。私、嫌がってとうとう亡くなるまでお会いできなかったけれど……悔やんでも悔やみきれないけれど。でも、世間には、親切な人がいるんだって、そして、心底私のことを案じて、護りたいと思ってくれている人がいるから……。その人が信じる全てを信じようと思うの」
「男……か?」
兄、志郎が雪音の顔を覗き込む。口をつぐんで俯く彼女の頬がほんのりと赤みを帯びた。
「つまんねぇ事を聞いたな。俺は、家を嫌って云わば逃げ出した身の上だ。自慢の妹のおめぇが信じるものを信じてみるのも悪くない。それに……、正直善兵衛さんにくれぐれも、無茶をしねえって約束させられたからな」
「不思議な人ね」
「まったくだ。ある日ひょっこり現れて、親父に御恩返しをしたいってなぁ……何があったのか、とうとう親父も教えちゃくれなかったが……。呼ばれて飲んだその帰り道に殺されちまって……。人ってなぁ、あっけねぇなぁ雪音」
「兄さん」
「俺も、親父と酒が飲んでみたかったな」
「……私も、もっと話をしたかった……。私ね、兄さん」
「うん?」
「アンナ無残な姿で帰ってきたお父様のお顔が、久しぶりにちゃんと見たお顔だったの……」
「そいつを云ったら俺だって」
「人って……ううん私はいつも後悔ばかり。もう、悔やんで泣くのは嫌」
「……雪音、強くなれ。お袋がな、以前ぼそっと云っててよ」
「お母様が」
「志郎さん、これからは武士だ町民だ、女だ男だという時代では無くなります。もっと大きなものをみる目を養いなさいってよ」
「まあ、お母様がそんな事を」
「だからよ、お前も――」
「兄さん、私お母様の夢を見たの」
「夢、か……」
「そう。不思議な夢だった。夢の中でお母様がね、おっかさんって呼んで良いのよって」
「そいつは驚きだ、俺がお袋って言うと苦笑いしてたもんだぜ」
「でも嬉しかった……。それでね 、私に強くなりなさいって。それから私の名前をつけた由来をね――」
若い兄妹が肩を並べて腰掛ける川原の土手は、父、一の落ちた川のそれであった。
穏やかに流れゆく川面を見詰め、雪音は母の言葉を嬉しそうに兄に話す。
その名の如く、儚く溶けて消えてしまいそうなこの美しい妹の、こんな顔を見るのは随分と久方ぶりであった。
彼女の心に何が起きたのか、だがそれを知るよりも今はただ、この一時を楽しみたい志郎であった。
「知らなかった……お父様がそんな事を……」
「雪音、まんざらそりゃあ夢じゃあねぇかもな」
「え」
「その話、昔お袋に聞いた話とまったく同じだ。俺もすっかり忘れていたが――」
そんな顔が見れるなら、もっと早くに話してやればよかったなぁと、心の中で呟いた。
「おかあ……おっかさん……」
胸が熱く温まる。相次いで亡くなった両親。自分たちは親なし子と思っていた。
――夢でも嬉しい、逢えたんだもの――
「雪音。おめぇはこれから火宅の住人だ。だが決して負けるなよ。そして決して悟られるな」
「わかってる」
「壁に耳あり、障子に目あり。よおく心に刻んでおけ」
「兄さんも、無茶しないでね」
「俺は出来ることをやるだけだ」
「大丈夫、きっと頑張れる。善兵衛さんが、女の子をつれてきてね、可愛らしい子で少し言葉で難儀をしているけれど、素直でイイコなのよ」
「ほう」
「家の雑事を本当に良くやってくれてね。凄い頑張りやさんなの。あの子を見ていると、しっかりしなきゃって思えてくる。小さな身体で、ニコニコ笑って……。あの子の前でなら、私お姉さんでいられるの」
「ほう、甘ったれのお前がねぇ。ますます善兵衛って親父は、あなどれねぇなあ」
志郎は知っていた。
あの女、松の情夫が雪音にしたことを。
穢れを知らない真っ白な妹に、いきなり見せた大人の薄汚れた世界が、彼女をどれほど傷つけたかも。
できることなら、このままつれて帰りたい。
母に、父に預かったこの妹を、今やたった一人の肉親を、鬼の棲まうあの家に戻したくはなかった。
「雪音。これだけは云っておく」
「なあに」
「絶対に無理はするな」
「……」
「嫌だと、まずいと思ったことは、絶対にすることはねえからな。いつだって逃げ出して来い」
「ふふ」
「馬鹿っ笑い事じゃねえんだぞ」
「違うの、おんなじことをね、ついこの間、聞いたばかりなの」
くすぐったそうに笑いながら雪音は立ち上がる。
そのまま背中を向けて、精一杯の明るい口調で声をかける。
「わかってる。じゃあ、私、帰ります」
「お、おう」
振り返る事無く足早に橋を渡って行く妹が、いったいどんな顔をしてそう云ったのか。
志郎は追いかけてその肩を抱いてやりたい気持ちを抑え、それでもずっと雪音の立ち去る姿を見つめていた。




