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雪月花 ―雪―  作者: くろぬこ
凶事
25/29

兄妹(あにいもうと)



それはまだ雪音の新しい生活が、善兵衛の妾宅の主としての暮らしが始まったばかりの頃。


「本当なのか……」


「兄さん、こんなことで嘘をいっても仕方がないわ」


「備前屋善兵衛……。喰えねえ親父だ……。だが、どうしても憎めねぇ。俺みたいな若造と夜が明けるまで語り合い、案ずるな信じろと云いやがった」


「私ね、兄さん。少し人を信じられるようになったの……。ある人のおかげでね。その人が、善兵衛さんを信じろって、悪いようにはならないって。それからきっと、お父様を殺した下手人を見つけ出して罰を与えてくれるって」


「ほう」


「だからね、私、善兵衛さんを信じる。善兵衛さんの奥様……。私、嫌がってとうとう亡くなるまでお会いできなかったけれど……悔やんでも悔やみきれないけれど。でも、世間には、親切な人がいるんだって、そして、心底私のことを案じて、護りたいと思ってくれている人がいるから……。その人が信じる全てを信じようと思うの」


「男……か?」


兄、志郎が雪音の顔を覗き込む。口をつぐんで俯く彼女の頬がほんのりと赤みを帯びた。


「つまんねぇ事を聞いたな。俺は、家を嫌って云わば逃げ出した身の上だ。自慢の妹のおめぇが信じるものを信じてみるのも悪くない。それに……、正直善兵衛さんにくれぐれも、無茶をしねえって約束させられたからな」


「不思議な人ね」


「まったくだ。ある日ひょっこり現れて、親父に御恩返しをしたいってなぁ……何があったのか、とうとう親父も教えちゃくれなかったが……。呼ばれて飲んだその帰り道に殺されちまって……。人ってなぁ、あっけねぇなぁ雪音」


「兄さん」


「俺も、親父と酒が飲んでみたかったな」


「……私も、もっと話をしたかった……。私ね、兄さん」


「うん?」


「アンナ無残な姿で帰ってきたお父様のお顔が、久しぶりにちゃんと見たお顔だったの……」


「そいつを云ったら俺だって」


「人って……ううん私はいつも後悔ばかり。もう、悔やんで泣くのは嫌」


「……雪音、強くなれ。お袋がな、以前ぼそっと云っててよ」


「お母様が」


「志郎さん、これからは武士だ町民だ、女だ男だという時代では無くなります。もっと大きなものをみる目を養いなさいってよ」


「まあ、お母様がそんな事を」


「だからよ、お前も――」


「兄さん、私お母様の夢を見たの」


「夢、か……」


「そう。不思議な夢だった。夢の中でお母様がね、おっかさんって呼んで良いのよって」


「そいつは驚きだ、俺がお袋って言うと苦笑いしてたもんだぜ」


「でも嬉しかった……。それでね 、私に強くなりなさいって。それから私の名前をつけた由来をね――」


若い兄妹きょうだいが肩を並べて腰掛ける川原の土手は、父、はじめの落ちた川のそれであった。

      

穏やかに流れゆく川面を見詰め、雪音は母の言葉を嬉しそうに兄に話す。

      

その名の如く、儚く溶けて消えてしまいそうなこの美しい妹の、こんな顔を見るのは随分と久方ぶりであった。

      

彼女の心に何が起きたのか、だがそれを知るよりも今はただ、この一時ひとときを楽しみたい志郎であった。


「知らなかった……お父様がそんな事を……」


「雪音、まんざらそりゃあ夢じゃあねぇかもな」


「え」


「その話、昔お袋に聞いた話とまったく同じだ。俺もすっかり忘れていたが――」


そんな顔が見れるなら、もっと早くに話してやればよかったなぁと、心の中で呟いた。


「おかあ……おっかさん……」


胸が熱く温まる。相次いで亡くなった両親。自分たちは親なし子と思っていた。



――夢でも嬉しい、逢えたんだもの――



「雪音。おめぇはこれから火宅の住人だ。だが決して負けるなよ。そして決して悟られるな」


「わかってる」


「壁に耳あり、障子に目あり。よおく心に刻んでおけ」


「兄さんも、無茶しないでね」


「俺は出来ることをやるだけだ」


「大丈夫、きっと頑張れる。善兵衛さんが、女の子をつれてきてね、可愛らしい子で少し言葉で難儀をしているけれど、素直でイイコなのよ」


「ほう」


「家の雑事を本当に良くやってくれてね。凄い頑張りやさんなの。あの子を見ていると、しっかりしなきゃって思えてくる。小さな身体で、ニコニコ笑って……。あの子の前でなら、私お姉さんでいられるの」


「ほう、甘ったれのお前がねぇ。ますます善兵衛って親父は、あなどれねぇなあ」


志郎は知っていた。

      

あの女、松の情夫が雪音にしたことを。

      

穢れを知らない真っ白な妹に、いきなり見せた大人の薄汚れた世界が、彼女をどれほど傷つけたかも。

      

できることなら、このままつれて帰りたい。

      

母に、父に預かったこの妹を、今やたった一人の肉親を、鬼の棲まうあの家に戻したくはなかった。


「雪音。これだけは云っておく」


「なあに」


「絶対に無理はするな」


「……」


「嫌だと、まずいと思ったことは、絶対にすることはねえからな。いつだって逃げ出して来い」


「ふふ」


「馬鹿っ笑い事じゃねえんだぞ」


「違うの、おんなじことをね、ついこの間、聞いたばかりなの」


くすぐったそうに笑いながら雪音は立ち上がる。

      

そのまま背中を向けて、精一杯の明るい口調で声をかける。


「わかってる。じゃあ、私、帰ります」


「お、おう」


振り返る事無く足早に橋を渡って行く妹が、いったいどんな顔をしてそう云ったのか。

      

志郎は追いかけてその肩を抱いてやりたい気持ちを抑え、それでもずっと雪音の立ち去る姿を見つめていた。


      

      



      

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