波紋
其れは大人同士の語り合い。
夫を亡くし途方に暮れながら眠れぬ夜を過ごしていた。
さもしい男、銀二の言葉をまともに考えていた松ではなかった。
だが其処へ、振ってわいたように転がり込んできた話。
日本橋の大店、備前屋善兵衛が事もあろうか雪音の世話をしたいと言って来たのだ。
「それじゃあ、奥様は……」
「家内も長患いでね……いや、こんなこと不謹慎だとお思いでしょうが」
「とんでもござんせん。あたしゃ、常々感心しておりました。婿とはいえねぇ…ってあらやだ、ごめんあそばせ」
上目遣いで探りを入れる。
世間で評判の鴛夫婦、備前屋の善兵衛の突然の申し出に、相手の腹を読みかねている松であった。
「家内も承知のことでしてね。なんでしょうね、年を取るとやはり後を継ぐものが欲しいというか……いやはや……」
「へぇ、奥様もねぇ。さすが大店のお嬢さまともなると、お心がけが違うんですねぇ。益々感心いたしますわ――」
「けっ」
障子を隔てて聞こえて来る松の声に、眉根を寄せて舌打ちをする。
二吉は、初めて目にしたときから、この松という女が嫌いだった。
江戸の女に磨き上げられ、その年で知りようも無いはずの色を感じる二吉の鼻が、松の毒を嗅ぎ分けていた。
庭先で主に一部始終を聞くように云いつかったとはいえ、虫唾の走るこの声をいつまで聞いていなければならぬのかと、二吉は苛立つ。
「とはいっても、まだ喪も明けたばかり、世間体が……」
「そいつは十分承知ですよ。こちらとしても御恩有る旦那さんの娘だからね、それなりに筋は通したい」
「筋」
「それでね、松さん。一つ確かめておかねばならないんだが」
「なんでござんしょう」
「これはね、家内がどうしてもというものだから……。どうか気を悪くしないでおくんなさいよ」
「はあ」
「雪音さん……だが」
「雪音に何か」
「間違い、なんてありゃしないよねぇ」
「間違い……」
「この先、家内に何かがあったら……。いや、これは縁起でもない事だとあたしも怒ったんだがね。まぁ、そん時には必ず家に迎えうける約束で、今回の話を進めたいんだが」
「家へ……?」
「もちろんですよ、御恩有るお方のお嬢さんを唯、悪戯に囲おうなんてとんでもない。家内がどうしても、自分の目の黒い内にお願いしておきたいからと、こうして話を持ちかけましたが……。あたしゃ、どうにも家内に惚れていましてね。あれの生きているうちに、よそ様に泊まるなんてできやしない」
「旦那、いったいどうしたいんです。こういう話は最初が肝心、すっきり解る様に云ってくださらなきゃ」
「まぁまぁ、せかしなさんな。ほかでもない、後添えにするという約束をとりつけたいんですよ、うちのお藤は」
松はあんぐりと口を開けたまま、汗を拭いながら言葉を選んで話している目の前の大商人を、上から下へと目をやって見直す。
驚くことにこの男の女房は、自分が死んだ後添えに当家の娘、雪音へ白羽の矢を立てたというのだ。
「こちらの雪音さんは、何度かお話させてもらって気立ても良くて教養もある、立派なお嬢さんだ。親ほど年の離れたあたしには勿体無いと何度も云ったが、聞く耳も無くてね。だからこそと言い張るんだよ。たった一つの条件を呑んでいただいて、後はそちら様のおっしゃるとおりのお世話をしてくださいってね。わがまま一つ云わない女が、泪ながらにね」
「条件」
「そう、なんだが……。本当に御免なさいよ、そんなこと確かめなくてもあたしゃぁ大丈夫だって云ったんですがねぇ」
「はっきりおっしゃってくださいな」
「雪音さんは……その、勿論綺麗な体ですよねぇ」
「っ」
「はっきり云えば、未通女かと」
「ちょっと旦那っ」
「えぇえぇ、ご無礼は十分承知ですよ」
「無礼にも程が過ぎるってぇもんじゃありませんか。仮にもこちらは武家。大商人だかなんだか知らないが、武士の一人娘に向かってどういうこったいっ」
そう云う松の武士の後家とは思えぬ口調に、善兵衛は目じりを下げて、まぁまぁととりなす。
二吉は庭先に唾を吐く。
「お怒りは御最も、本当にご無礼申し訳ありません。文字通り老婆心、お許しくださいな」
「……」
「それで、その辺は大丈夫という事で、よござんすかね」
「……」
腹を立てる素振りを見せても、松は必死に頭をめぐらせて考えていた。
大黒柱の一家の主を無くし、葬儀全般、何とか体面は保ったものの、夫の連れ子の志郎と雪音をどうしてゆこうか考えあぐねていた松であった。
うまいことに、なつかなかった嫡男志郎はそのまま行方知れずに。
残った娘の雪音は、松も一目置くほどの器量よし。
このまま娘を放りだすよりも、何処かのヒヒ爺いでもたぶらかすよう、銀二と謀って因果を含めていたところだった。
そして松が何より気にしていることは。
「旦那さん。奥様の心意気、あたしに十分通じました。なに、ソコは、はっきりするべきところでしょう。大丈夫、この、松が保障します。うちの雪音に限って、間違いなんぞありゃしません。あの娘の身体には、滲み一つついてやしませんよ」
「それはそれは心強い。綺麗なお嬢さんだ、何があるか解らないとお藤は云いましたが――」
「しつこうござんすよ、旦那」
「そうですか……。何、全ては家内の身に何かあったらということで。それからのお話ですが」
「先の見えないお話ですねぇ」
「ふむ……それなんですが。これから三年。まずは三年。きっちり、こちらのおうちのお世話をさせていただいて、うちの家内も養生できて健在なら、皆さんの身の振り方をもう一度ご助力させていただく。それまでは、間違いの無いように、しっかりと松さんに育てていただくというのは」
「三年」
「悪いようにはいたしません。あたしを信じていただけませんかねぇ。この備前屋、善兵衛を」
飛び込んだこの、酔狂な話。
この時居合わせたそれぞれの胸のうちに、いったいどんな思いがあったのか。
ちいさな小波を起こした男、善兵衛。
それは静かに波紋を広げ、それぞれの運命を揺り動かしてゆく。




