意趣
草木も眠る丑三つ時、しっとりと霧雨の降る江戸の町に揺らり揺らりと揺れ動く一つの提灯が見える。
呼ばれた酒宴はまだまだ続けど、家で待つ後添えや子供達を想い、家路を急ぐ初老の男、羽状一。
はやる心と裏腹に、したたかに酒の滲み込んだ身体が思うように足を運ばせず、当人がどうであれ、それは傍から見て明らかに千鳥足であった。
「旦那、ご機嫌ですな」
闇の中からねっとりとした声が聞こえた。
振り向けど、そこに人影は無く、次の瞬間、勢い良く腰を蹴られ橋の欄干へとよろける。
そこをもう一度蹴りつけられ、大の男も転げるヤジロベエのように落ちて行った。
「う、うう……」
凍るほどに冷たい川より、必死の思いで這い上がるが、哀れな一の頭上に落とされた石の重さは、その頭蓋が砕けるのに十分なモノであった。
「しぶてぇおやじだ。這い上がってきやがったか……あれだけ飲んだ様子で……まったく、心の蔵に毛でも生えていやがんのかって…よっ」
無残な死骸を足で蹴り転がして川へと戻す。
重く響く水音に追い討ちをかけるように男が、拾い上げた石を未だ沈まぬ遺骸の上に投げ落とす。
「そらよ、冥土の土産だっ」
再び跳ね上がる飛沫と水音。
心の無いトカゲのような殺人者は、自らの非道な所業に悦に入る。
「てめぇの頭を砕いた石を冥土の土産……か。俺もてぇげぇうまいことを言うよなぁ。 っへっへっへ。おりしもこの雨だ、霧雨だろうが朝までにゃあ、辺りもすっかり流しちまうにちげぇねぇ。運が尽きたな、羽状の旦那。人の女に手ぇ出しやがって……。松はなぁ、おめえのような野暮なおやじの下でよがる女じゃぁねぇんだよ……」
川に浮かんだ土左衛門。
翌朝、羽状家は無残な姿の主を、家へと迎え受ける。
遺体の様子から、ひっそりと行われた通夜、そして葬儀。
家族の驚きと嘆きの泣き声を、降り注ぐ雨が静かに包み込んだ。
処かわって備前屋離れ。
療養のために分かれて眠る恋女房、お藤の膝に頭を預けて横になる。
当代一の大商人、善兵衛が溜息混じりに呟く。
「旦那……どうしてあたしが席を外した合間にお帰りになったんですかい……。お引止めしすぎたんだなぁ……。それでお気をお使いになって……」
「あなた……そんなに自分を責めちゃあ……」
悲しみと後悔に沈む夫を気遣うお藤。
「共をお付けすることだって……出来たんだよ……」
「あなた」
膝枕、顔を見せぬ夫の善兵衛が、男泣きに肩を震わせる。
心の優しいこの男を、どうやって慰めたらよいものかとお藤は考えあぐねていた。
「旦那」
庭先より若い男の声がした。
お藤は聞き覚えの有る声に応えて立ち上がる。
「二吉かい」
「へい、すいやせん奥さん」
障子を開けると、暗い庭に膝をついて二吉が控えていた。
「そんなところに居ないで、こっちにお入り」
「いえ、あっしはここで」
「でも」
「濡れておりやすんで、ここで」
「そうかい……? 風邪を引かないようにね」
確かに裾がぐっしょりと濡れている。川に入って調べものでもしたのであろうか。
「へい」といって頭を下げる。
お藤は二吉に手ぬぐいを渡してやった。
二人のやり取りに善兵衛も起き上がって二吉の姿を確認する。
「それで」
「旦那、ありゃぁ……事故じゃぁありやせんぜ」
「まあ」
「泣き虫の旦那が、まちがいねぇと」
懇意にしている八丁堀同心。なきぼくろと人情深さで泣き虫同心と異名をとる其の同心は、あだ名に反して町奉行切手の腕利きである。
「そうかい……」あの旦那がそういうなら、と善兵衛は項垂れる。
「あっしは、もうひとっぱしり出かけてきやす。今日は戻れねぇかもしれやせん」
話も早々に、再び木戸から出てゆこうとする二吉を、お藤が呼び止めた。
「二吉」
「へい」
「お前も、危ないことはよしとくれね」
「……へい」
「きっとだよ」
「へい」
ぐっと目を瞑ったままの夫、善兵衛の腕にそっと手を添える。
近頃めっきりと弱ってしまった自分の身体と、命の行く末に思いを馳せる。
何より大切なこの夫と、息子とも思うあの若者が危険に身をさらすことが無いように、祈ることしか出来ぬ自分がふがいない藤であった。




