贖罪
――善兵衛が妻へと語る物語――
折からの夕立は、次第に雨足も強め、音を立て地面を打ちつけんばかりの勢いとなった。
土砂降りに人気の無くなった町中を駆け抜けようとする少年が独り。年の頃は十二、三、頭の頬被りはぐっしょりと雨に濡れて、捲りあげた着物の裾も重く素足に絡みつく。
それでも俯きがちに倒けつ転びつ、懸命に走る痩せた少年。漸次と呼ばれていた。
親に捨てられ、物心付いた時にはもう、軽業曲芸の旅芸の一座、牛頭の伝六という男が親方と呼ばれ座長をしていた角兵衛獅子で蜻蛉(今で云う宙返り)を切っていた。子供達が一座の親方に習ったのは軽業だけではなかった。
一座には常に数名の子が共に暮らす。下は五歳、上は十二、三歳というその子供等は、漸次のように親の無い子は拾われ、親の有る子は売られ、さらわれて集められた。勿論、子供七、八人と大人一人という所帯が太鼓を叩いて宙返りをする、そんな芸だけで食べてゆける訳も無く、大抵が、掏り窃盗等の裏家業で稼いでいる。手にする金額を考えれば、どちらが表か裏なのか。
角兵衛獅子は哀れな子供の救いの場では無いことだけは、誰しもが知っていた。それでも娯楽の少ないこの時代、ましてや山間の村里ではなおさら、いたいけな子供が繰り出す軽業と軽快なお囃子は喜ばれ、楽しみとなっていたのである。
ご多分に漏れず、漸次の一座もまた、掏りを裏の家業としていた。貧しい里村を廻り、口減らしの子を二束三文で引き取り、大方はその何倍もの値で売り払い、身の軽い器用な子を残しては掏りに仕立て上げ、江戸の仲間に送っていた。
村から村、里から里へと流れ歩き、少ない飯と辛い修行の毎日。座長である親方の目を盗んでは逃げ出し、又連れ戻され、激しく折檻される。
厳しい稽古は毎夜続いたが、其の中でも一際辛かったのは、熱砂に指を挿す修行である。
小さな指が、熱い砂に焼かれて真っ赤に変わった。声を出すと叩かれるからと、唇を噛んで耐えようとも、溢れる涙を止めることなど、幼い身では出来はしなかった。ひりひりと痛む中指と人差し指を冷えないものかと涙に当ててみた事も一度や二度ではなかった。
漸次、五つの冬であった。
暫くして熱砂を巧くこなすようになると、次は水であった。
水桶に指を挿し入れる其の時に、波紋を残すことを許されなかった。仲間内の誰一人として出来るものがおらず、人にそんな事が出来るモノかと漸次が訴えると、驚くことに親方の伝六が見事にやってのけた。其れ見たことか、思い知れ、と血反吐を吐くまで殴られた。
子供ながらに――此の男は人ではない、鬼だ――と。
――此処はきっと地獄であって、自分はもう死んでいるのかも――と。
漸次は幼心に夢見ていた。
――いつか本当の親が自分を探し出し、きっと助けてくれる――
そんな想いをその時、絶望という深淵に捨てたのである。
九つになっていた。
可愛い盛りを超えると、ある者は売られ、ある者は忽然と姿を消す。そんな暮らしに堪えきれずに、今度こそはと仲間と企み、当時のねぐらであった荒れ寺に火をつけて逃げ出した。
闇に紛れ、生い茂る竹藪を傷だらけになって力の限りに走った。背後で捕まった兄弟同然の幼い仲間の泣き声と伝六の恐ろしい怒号に、立ち止まること、振り向くこともできず、一心に走った。
「ごめん、ごめんよ」と何度も何度も胸の内で繰り返しながら。
十二の夏であった。
木に登って夜露を凌ぎ、泥水を啜り、野に有る草を食べて空腹を凌いだ。幸い江戸までそう遠くは無かったが、町に入ったといえども、幼い少年が独り、どうして暮らしてゆけようか。広い江戸の町で途方に暮れて、当てども無く野良犬のようにさ迷う日が続いた。
すきっ腹に染み入る匂いに誘われて、町角の蕎麦屋の前に辿り着いた。美味そうに蕎麦を啜っている客を、うっとりと眺めていると、小汚い小僧に見詰められ疎ましそうに眉を顰める客に気づいた店主に、声を荒げて追い払われた。それでもまた戻って眺めていると、今度は水を掛けられた。
諦めて遠巻きに視ていたが、遂には石が飛んできて、慌てて其処を逃げ出した。
少年に残っているものは、軽業と他人を狙う二本の指だけであった。
生来の気の優しさからか、漸次に人の懐は狙えない。いいや、恐ろしかったのだ。
思い余って次の夜、彼は一軒の商家に忍び込む。ただ食う物が欲しかったのだ。野草や、薄粥などではない、膳に並ぶ、焼いた魚が、白い米というものを、食べてみたかった。身体で覚えた蜻蛉を切って彼は塀を軽々と越えた。真っ直ぐに足は台所へと向かうはずであった。しかし飛び降りた庭先の縁台に其れを視た時、彼の足はぴったりと地に張り付き、動くことを止めてしまう。
彼の目を釘つけた其れは、一匹の張子の虎。和紙を固めて作った小さな虎。
流れる雲間に顔を出した月に、一瞬照らされて黄色く光って見えた。
村を巡り、芸をする毎日で、嬉しそうに母親に抱かれて見物に来る同じ年頃の子。
何処の村で幾つの時であったか、自分より少し小さな男の子が、手に握っていたのも張子の虎。
男の子が笑うたびに、手に持つ小さな虎の頭が揺れていた。
優しそうなおっかさんにおぶさる其の子が、落としてしまった張子の虎を拾ってやった。
晩にねぐらに戻り、芸を途絶えた仕置きにと気を失うほどに殴られた。
痣だらけ、血だらけになって目覚めると、松の木に括られていた。
漸次は思い出す。手渡した男の子の笑った顔。
「ありがとう」と云ってくれた、男の子の母の声。
「おっかさん、か……」
小さく呟くと、切れた口が至極痛んだ。口の中に鉄のような血の味が広がる。
其の夜から、漸次にとって、あの小さな男の子は自分の弟、あの母親は、本当の自分のおっかさんになった。
子供ながらの妄想であっても、辛いとき、苦しいとき、胸の中でいつも思い出す、仮初の弟の笑顔、母の声。
壊れそうになる漸次の幼い精神をどれ程に護り救ってくれたことであったか。
漸次は、忍び込んだ商家の庭で突然、縁側に放り出されたままの張子に駆け寄ると、手に取って必死と胸に抱きしめた。
「おっかさん――」
消え入るような漸次の声が、何故耳に届いたのか。「誰だっ」と叫ばれ、漸次は脱兎の如く逃げ出した。
胸にしっかりと黄色い張子の虎を抱きながら。
がやがやと忍び込んだ家のものが騒ぎ立てる中、漸次の姿を隠す様に月は再び、雲の中に消えた。
闇夜の中、ぽつりぽつりと降り出した雨が、次第に強くなっていく。
漸次は自らの生まれた日を知らない。本当の自分の年も知らない。一座で暮らす子供にとって、其れはどうでもよい事とされていた。呼ばれて応える名さえあれば、其れで事が足りるからである。
年も母も、父も知らぬ子は、土砂降りの雨の中を逃げる。たった一つの自分の虎を抱えて。
どれ程走っただろう、空も薄っすらと白んできた。
疲れ果て、よろけながら漸次が辻を曲がると、出会い頭に人とぶつかり、雨でぬかるんだ泥土の中に尻餅をついた。
「お、おおすまんっ」
「……」
「大丈夫か、坊主。激しい雨に前を見ておらなんだ。許せ」
聞き覚えの無い侍言葉に恐る恐ると顔を上げて視ると、編み笠の中には人の良さそうな十四、五歳の少年が心配そうに自分を覗き込んでいた。
漸次は身を硬くする。
幼い頃から親方に、侍には気をつけろよ、と云われてきた。
「時勢が変わって、二刀を差していても鈍らよ、それでもあいつ等は俺等の事など虫けらとしか思ってねぇんだ。問答無用ってやつよ」
其れが、伝六の口癖であった。
だが、今漸次に声を掛けた若侍は、泥に塗れた彼を頓着せずに抱き起こしている。
「すまなかったな、怪我は無いか」
応えようと漸次が口を開くと同時に、町方の呼子が響いた。振り切ったと思った。逃げぬいたと。だが其れはただ我武者羅に、走り回っただけ。立ち上がり、駆け出そうとした漸次の腕をがっしりと掴むものがいた。
「待ちな」
同じ様にずぶ濡れた老人。彼は目明しの配下の者であった。何時の世も泥に塗れて走るのは目下、三下の類である。
老人は、懐に手を差し込んだまま出そうとしない漸次を視ると、いぶかしげに目を細めた。
「おめぇ、懐に何を持ってやがる」
傍で立つ若侍を気にも留めぬ脅すの利いた声で、漸次に問う老人。つかまれた腕を振りほどこうにも、びくともしない。それどころか、指の力がぐんぐんと増して、漸次の腕にめり込んでくる。
「い、痛ぇ、痛えよぉ」
こんな風に腕をねじ上げられると漸次は少しでも相手の怒りを和らげようと、身体で覚えた哀れがましい声を出す。だが、獲物を捕らえた此の老人がそんな小芝居に指を緩める筈も無かった。それでも、弱弱しいその声は、此の親切な若侍に十分な効果を発揮した。
「ま、待て、相手は子供だ、何をするか」
「お言葉ですが、お侍さん。ちょいと先で騒ぎがありやしてね。何処かの馬鹿が、闇にまぎれて忍び込んだってね」
「そ、其れは難儀なことだが、此のような子供であるはずが――」
「それが、子供なんでさぁ。逃げる姿を視た者が居やしてね」
「う、ううむ……。そなた、そのような事、相違ないのか」
難しい言葉は解らぬ漸次であったが、自分の事を子供、子供と繰り返す此の若者に苛立ちを覚えた。何不自由なく育ったであろう彼は、仲間であったどの少年よりも、幼く見えたからである。だが、彼は今、恐らく漸次を哀れに思っている。ちっぽけな浮浪児の誇りなど、何の助けになろうか。本能で瞬時に悟ると漸次は大げさにぶんぶんと頭を振る。
「ゆっくりと手を出しやがれ。ゆっくりとだぞ」
云いながら更に掴む指に力を込める。漸次は、其の懐に抱くモノを誰にも視せたくは無かった。だが腕の痛みに耐えかねて、ゆっくりと其れを出す。刃物と間違われたら、何をされるか分からない。
「ようし、そうだ、ゆっくりとだ」
老人の気迫に傍らの若侍が、ゴクリと固唾を呑むのが聞こえる。
濡れて凍えて漸次の歯が、カチカチと鳴る
漸次が静かに懐から其れを差し出すと、老人と若者は意表を突かれ、声を漏らす。
「おめぇこいつぁ……」
「そなた、こ、此れは――」
「張子の虎か……」
老人はそう呟くとふっと、掴んでいた漸次の腕を放した。老人の瞳の中に、獲物を追う猟犬の輝きが消えた。
「そなた、此れを盗みに入ったというのか」
「ちげぇなぁ」
「え」
「小僧、腹が空いてたか」
空いていた。忘れていた。死ぬほどに空腹であったのに、今の今まで漸次の頭は黄色い張子の虎で一杯であった。思い出した身体を絞られているかと思うほどの空腹と、大切であった自分の虎を人目に晒した悔しさとで、漸次は泣いた。大声で泣いた。叩かれてもいい。蹴られても、吊るされてもいい。ただ、今は大声で泣きたかったのだ。
「お、おい」
痩せこけた少年の出す大きな泣き声に、若い侍はまるで獣の咆哮のようだと思った。
暫く泣く姿を眺めていた老人が、ふうと大きく溜息まじりに呟いた。
「しょうがねぇなぁ」
呆けたように漸次を視ていた若い侍は、その声に我を取り戻す。
「な、なあご老体、許す訳にはいかぬのか」
「――」
「こ、此の張子。拙者が買い取るっ。ま、まて、今、代金を――」
慌てた手つきで財布を取り出す若者に、老人が待てというように手の平を視せる。
「まぁまぁお侍さん、待っておくんなせぇ」
「お、おう」
「此の餓鬼、あっしが預かりやさぁ」
「な、なんと。其れではやはり、番所へ――」
「いやさね、張子の虎一匹盗んだ餓鬼を捕まえたとあっちゃぁ、此の山犬の九兵衛の名が廃りやすんでね」
「山犬……」
確かにその面相は厳つい。赤黒い肌に鋭い双眸。盛り上がった肩はどれ程の強力を出すだろう。
腕に覚えの九兵衛であるが、実のところは五十を超えた今、目明しの配下を勤めるには、いささか年をとり過ぎたのではと、周りから引退をほのめかされている老人であった。
目明しの配下には、凶状持ちも多い。
九兵衛も島帰りである。
当時、凶悪な罪を犯したものは、遠島と云い渡され、江戸を離れた島へと送られる。苛酷な環境と重い労役の中を生き延び、罪を償い、刑期を終えて帰ってきても、二の腕に掘られた刺青は消えはしない。九兵衛の犯した罪も貧しさ故のものであった。心の其処から罪を悔やんだ。
だが、島帰りに世間は冷たい。どれほど改心しようとも。
島から戻って直ぐに九兵衛に、声を掛けた者が居た。
振り返ると、自分を捕らえた同心であった。
『仏』と異名をとるその同心が九兵衛を番所へと連れ、彼の目を視て語った言葉。
「餅は餅屋、罪人には罪人という処であろうか。生まれ付いての悪人など居ない。其々には 其々の、盗人には盗人の一部の理というものが有る。是から全うに生きていこうと思っているなら、どうでぇ、俺の下で働いてみねぇかい」
そう諭され、誘われて此の稼業に入った。
慕って仕えたその同心も、人生を全うして亡くなり、そのあとを継いだ娘婿の下で働いている。
孫ほど若いその同心も彼は好ましく思っていた。
今、目の前で泣いている此の少年が、九兵衛には嘗ての自分に思えて仕方がなかった。
――此れも『仏』の思し召しって奴ですかねぇ、旦那――
弱まる雨音が、同心の笑い声に聞こえた。照れくさそうに笑う、泣き黒子の泣き虫同心。心優しい彼であれば、きっと力になってくれるだろう。
「なぁ、坊主。おいちゃんときな。悪りぃようにはしねえからよ」
漸次はまだ泣いていた。泪も、声も枯れはてそうであったが、無理にでも泣いた。今自分に出来ること、自分がしたいことは、是しか無いのだ。
「まぁいい、好きなだけ泣きな」
泣いている漸次の手をとり、収まり始めた雨の中、歩き出そうとする九兵衛。
一連の出来事にあんぐりと口を開け、呆気に取られていた若い侍は、気を取り戻して慌てて声を掛ける。
「ま、待て、待ってくれ」
其の声にゆっくりと振り向く。
「待て、本当か。本当にその者、そなたに預けても良いのか」
「お若い旦那。こっから先は、旦那のお構いになるところじゃぁ、ありやせんぜ」
「う、ううむ……だが、だがしかし」
「旦那、善いお人なんですねえ。ご安心なせえ。安心してお家にお戻りなせえ。老い先短いあっしですが、此の餓鬼、全うに御天道さんの下が歩けるようにしてみせまさぁね」
「で、では是を、僅かだが持って行ってくれ。何か其の者に役立ててやってくれ」
ぐいと差し出された財布を深々と頭を下げ、同時に少年の頭をぐっと押し下げると、ありがたそうに受け取る。
「ありがとうごぜえやす。大事に使わせていただきやす」
「あ、ああ」
「それじゃぁ、お騒がせいたしやした。御免なすって」
再び背を向けて少年を伴って去ってゆく後姿に、若い侍はやはり深々と頭を下げて一礼を送る。
いつの間にか止んだ雨。漸次の行く末を祝福するのは、空に掛かる虹だけではなかった。
その後、漸次は九兵衛が仕える同心の計らいで寺に預けられる。生まれつき頭の回転が速かったのか、読み書きそろばんを一年も立たぬうちに覚えると、住職に『漸』を『善』と変え、善兵衛と名づけて貰った。
十五になり、住職の後見を得て檀家であった備前屋に奉公に上がった。
懸命に働き、真面目で正直なその性質を見込まれ、跡取りとして一人娘の藤の婿となった。
才覚はぐんぐんと花開き、店は繁盛に繁盛を重ね、江戸一番の大店となった。
町で評判の鴛夫婦は、子さえ出来なかったが、寝食を忘れる勢いで働く、彼の力で穏やかに暮らしていた。
善兵衛は、財を成しても其の恩を忘れず、九兵衛の死に水を取るまで親と慕い、養い、孝行に励んだ。
死に際に、朦朧とした頭の霧が一瞬晴れたのか、義父の語った言葉。
「あの若造、財布にいくら入ってたか……笑っちまうぜ、蕎麦も食えねえってな……」
嬉しそうにそう云うと、微笑みながら九兵衛は逝った。
九兵衛を亡くすと、善兵衛はそれまで以上に名も知れぬあの若い侍を探し続けた。
そしてやっと視つけたのである。
其の若者こそ羽状一。後の志郎、雪音の父であった。




