夫婦
時は遡って十余年前の備前屋。
夏であっても西日を避けた其の離れには、気持ちの良い涼やかな風がそよいで通った。手入れの行き届いた庭の木々で蝉たちが、時折響く鹿威しに負けじと声を張り上げている。
一仕事終えた善兵衛は、さっぱりと湯を浴びると、涼しげな絽の着物に身を包んだ。
それから台所によって、女中の用意してくれた漆の盆を受け取る。
盆には白磁の小鉢が乗せてあり、とろろの汁が満たされている。
とろろは、すり鉢で滑らかに摩り下ろされており、細く切った海苔と、黄色が美しい鶉の卵の黄身をのせてあり、薄口のだし汁で味付けがされている。
ひんやりとしたその鉢は、去年、彼が妻の為に絵付けをした小鉢で、妻の名にちなんで青紫の小さな藤の花房が描かれている。
療養の為に離れで寝起きする妻の喜ぶ顔を思い浮かべると、福福しい彼の顔がさらにほっこりと恵比須顔になってゆく。
母屋と通じる木戸を開け、妻の寝る離れへといそいそと訪れる。
蚊帳の中で其の気配に気づいて起き上がろうとする人影に、縁側から優しく穏やかに声をかけた。
「もう少し寝ておいで、やっと涼しくなってきたよ」
「いいえ、もうたんと眠りましたわ」
「ははは、そうかい。其れは良かった。二吉がね、貴方にね、自然薯を掘ってきましたよ」
「まあ、二吉が」
蚊帳の下からほっそりとした指が覗き、少しだけ押し上げようとしたので、善兵衛は慌てて盆を置き、部屋に上がって蚊帳を持ち上げ、雅な薄紫の飾り紐で結び止めた。
「すみません」
優しい心遣いに気恥ずかしげに寝乱れた髪に手を当てる。其の髪に白い筋が数本視えてはいるが、年頃はまだ四十路手前。青白い肌にほっそりとした面立ちの美しい女である。華奢な身体を包んでいる、白地に紺の菖蒲の寝巻きが、眼に涼しい。
「ご機嫌はいかがかな」
「朝晩と、少しずつ過ごし易くなって、大分眠れるようになりました」
「其れは何よりだね」
「えぇ」
善兵衛とは、年の離れた恋女房、お藤。生来、身体の弱い女であったが、此処数年でめっきりと体力も落ち、蜻蛉のような生活を余儀なくされている。
爽風が笹の葉を揺らし、お藤の乱れ髪をそよがせる。化粧をぜずとも端整な横顔を、善兵衛はほんのりと頬を紅く染めて見つめている。連れ添って年を重ねても、其の美しさに慣れる事は無い。善兵衛がまだ、丁稚の時からの憧れであった妻、お藤。
「二吉が、自然薯を、ですか」
「そうなんだ。精がつくからと云って、なんと山に入って掘ってきたらしくてね。使いにやったきり戻らぬから心配していたら、さっき泥だらけで戻ってきてね」
「あらあら」
軒に掛けられた水蘚をあしらった風鈴が、チリンチリンと涼風に揺られて音を立てる。その音色にも劣らぬ澄んだ声で笑う妻に、善兵衛の顔が益々ほころぶ。
そうして、まるで恋人に話しかける青年のように饒舌になってゆく。
「採れたてが一番だから、直ぐに食べさせろと云って聞かないんだよ。それではお前が持っていってお上げと云うと、汚れついでに風呂釜を掃除すると出て行って、 今度はあたしに、またまたついでに湯も沸かしたから、早く風呂に入れとうるさくてね」
「それはそれは、貴方もご苦労様でした」
「いやいや、さっぱりさせて貰ったよ」
「うふふ。自然薯は掘り出すのも見つけるのも大変と聞きます。あの子にそんな事が出来たなんて。二吉に良く、礼を言ってくださいな」
「もちろんだよ。あれも、いや店の皆が貴方の事を案じてくれている。ありがたいことだ」
長患いの辛さ、分かれて寝る寂しさなど微塵も窺わせぬ、穏やかな会話が、交わされる。
日も暮れ始め、蝉の声もカナカナと日暮の鳴き声に変わる。
想い想われる夫婦だけが共有する、優しい時間がゆっくりと過ぎてゆく。
「それじゃぁ、せっかくですから、冷えてるうちに頂きましょうか」
「無理せずともいいんだよ」
「いえいえ、黄身がてりてりと光って見えてとっても綺麗、食べたいわ」
「そうかいっ、きっと喉越しもいいだろうよ。お食べお食べ」
お藤の言葉にうきうきと小膳を用意する善兵衛。
若い頃からの真面目な仕事ぶりを見込まれ、婿に入った彼であったが、美しく優しいお藤は店付きの女房では無く、ずっと焦がれた女であった。身体の弱い此の妻を彼が、どれ程大切に想っているか、店で働く者に限ることなく、彼を知って其れを知らぬ者などおらぬくらいであった。
膳を膝に乗せ、お藤が手に取る小鉢にまで、そっと手を添える甲斐甲斐しさ。そんな夫に照れくさそうに微笑みながら、お藤は心づくしのとろろ汁を、口に含んだ。
細い咽喉がコクリと其れを飲み込むと、少女のように目を見開いて驚いてみせる。
「美味しい」
「そうかいっ」
「ええ」
「元気が出たかねっ」
「ええっ」
「そうかい、そうかい」
我が事のように喜んで、両の手で自分の腿をはたはたと叩いている善兵衛。お藤は夫が時折みせる、こういった少年のような一面を、この上なく愛している。
亡くなった父である先代より店と自分を受け継いで、さらに大きく賑わした、稀代の大商人である此の男の、他人に見せない素顔の数々、其れを知り、誰よりも理解しているということだけが、お藤の妻としてのたった一つの誇り。
子を産めぬ妻、身の回りの世話ばかりか、最近では共に眠ることさえ出来ぬ妻、お藤。
一人此の離れで眠る時、目覚める時、死への恐怖と生への執着に震え、独り泪する時も、彼女は夫の笑顔を思い浮かべる。
そうして必ず、母屋に向かって、夫の優しさに向かって、感謝と侘びを込めて両手を合わせるのであった。
だが今このひと時は、大切な夫と二人きり。
夫とこうして寄り添っていられるなら、何の恐れも不安も沸いてはこなかった。
お藤の口元の、小さな笑窪が彼女のささやかな幸せを物語っていた。
夏の夕暮れ。
良く手入れされた小さな庭を、二人で並んで眺める。
水を受け、満たされて落ちる鹿脅しを眺めながら、善兵衛がしみじみと話し出す。
「二吉はね、良くやってくれているよ」
「良かったですね」
「ああ、親に連れられて着た時には、どうしたものかと思ったが」
「あの子は、善い子ですよ」
「そうだねぇ、貴方の云うとおりだったよ」
やさぐれて、世の中を斜に渡ろうとしていた二吉に、初め善兵衛は、嘗ての自分を重ねていた。そして、好んで荒む二吉の性質に一時は途方に暮れた事もあった。
勿論そのような素振りなど、誰にも見せた覚えは無い。だが何故だかお藤は、何時もそんな夫の心の波に気づき、彼の手をしっかりと握って「大丈夫、あの子は善い子ですよ。きっと想いは伝わっています」とそれだけ云ってにっこりと笑ってくれた。
そんなお藤が、一度だけ二吉の頬を叩いた事が有る。
店の番頭に叱られて出て行ったきり、五日もたったある晩に、ひょっこりと戻ってきた。
敷居が高く思ったのか、浴びるほどに酒を飲み、あろう事か店先で「二吉様のお帰りだ」と大声を張り上げた。
そのまま暖簾を担いで振り回す二吉の傍へと裸足で駆け寄り、思い切り其の横面を叩いたのである。
騒然としていた店が静まり返る中、叩かれた頬を手で押さえ唖然としていた二吉をしっかりと抱きしめると「ありがとう、帰ってくれてありがとう。良かった、良かった」と涙を零して幾度も幾度も繰り返した。妻のその姿を見て、善兵江衛も駆け寄って二人を抱いておんおんと男泣きをしたのであるから、次の日には江戸中のかわら版屋が、この一連を書きたてたものである。
――閑話休題―脱す 実は、善兵衛はその時の挿絵がお藤に良く似ているといって、こっそり文箱にしまっているのを、お藤を初め店中の者が知っていることを、彼だけが知らない。――
翌日から二吉は、憑き物が落ちたように人一倍、努めに精をだすようになった。まだ暗いうちから誰よりも早く起き、誰よりも遅く床に着くようになった
善兵衛は、誰より手の掛かった此の二吉が、可愛くて仕方が無い。それは妻、お藤も同様である。
後を継ぐ子供が居ない自分たち夫婦。元より、愛妻の命と引き換えに子を望む善兵衛では無いから、泪ながらにお藤が子を得るために妾を、と勧めても決して首を縦には振らなかった。お藤だけを生涯の女と決めた善兵衛には、考えられなかったのである。
そんな訳でいつの日か、良い嫁を二吉が連れて来たら、お店を譲り、二人揃って湯治場での隠居生活が最近の夫婦の夢になった。
不意に善兵衛が思い出したようにお藤に顔を向ける。
「そうそう、やはりね、見間違えなんかじゃなかった。確かにあの御方だったよ」
「良かったですねぇ」
「ああ、本当にねぇ。これでやっとご恩返しが出来ますよ」
「其れでは私もやっと聞かせていただけるのね」
「そうだね。貴方にもちゃんと話さなくてはね」
「はい。ちゃんと伺いますよ」
仰々しく、膳をどかし、善兵衛に向いて座りなおす。
お藤の瞳は、何時になく輝いていた。
「さて、何処から話しましょうかねぇ、そう、あれはまだ、あたしが備前屋さんにお世話になる大分前の事さね――」




