色は匂へど
「お、おくやま…きょ、きょう……」
「熱心ね」
「あ、ああ、す、すみません――」
台所に造られた小さな格子窓から差し込む月の光。
そんな乏しい明かりを頼りに土間に座っていたスエは、主人である雪音に声をかけられて慌て手応える。
小さな桶を逆さに伏して、指でなぞっていた物は、雪音に書を教わる娘の誰かが丸めて捨てた手習い書きである。
「暗いでしょ、明かりをお付けなさい」
「い、いいえ――だ、大丈夫です」
心の優しい此の少女が、自分に告げるその言葉が、雪音の胸を締め付ける。
全て解って、自分に微笑んでくれている。
その姿を自分と重ねていた雪音であったが、違う、自分とはまったく違うと雪音は悟った。
何と強い少女であるか。
何と――弱い自分であっただろうか。
「……ごめんね…」
「え」
「ごめんね――」
「っあ――」
突然にしゃがみこみ、スエを抱きしめる。
優しく包み、ぎゅうと力を込めて。
「ゆ、ゆ、雪音さん――」
「私――強くなるから――」
「雪、雪音さん……」
「だから、だからもう一度、もう一度だけ……私を…信じて」
「あ…」
そういってまた、ぐっと力を入れて抱きしめる。
スエは、全てを理解できた。
掛けた事もない、真綿の布団のようにふんわりとした雪音の身体。
ほのかに香る、花の匂い。
そして何より、自分を抱きしめる腕の力に何とは言えぬ感情が、瞳から溢れて止まらなかった。
「あ、ありがとう…ありがとう……」
「スエちゃん……ありがとう…」
次の日から、スエは雪音の教室に座る。
一番後ろの、一番端。
目の前に置かれた、他の弟子と同じ机。
自分が磨いて、いつも用意をして並べていた。
その机に真新しい半紙と、筆に硯。
光るほど磨かれた机に映る自分の顔の笑顔に、心がくすぐられるスエであった。
明るい日差しの中で、洗濯物を干しながらスエは、込み上げてくる感情を収めようとしていた。
それでも、浮かんでくる笑顔は堪えようもない嬉しさを、楽しさを隠し切れなかった。
「え、えへへ」
「よう、スエ。珍しくご機嫌だな」
「あ、し、志郎さん。い、いらっしゃいませ」
「雪音に聞いたぞ、皆と一緒に教わり始めたって言うじゃないか。よかったなぁ」
「は、はいっ」
「わっははは。お前のそんな顔を見るのは久しぶり――いや初めてか」
初めてではない。
志郎はしっかりと覚えていた。
スエと、自分の名を地面に指で書いて見せた。
学んだスエの頭を志郎が撫でてやったあの時に、自分を見上げたあの嬉しそうな顔を。
「頑張って学べ。お前は、見所がある」
「み、みどころ…」
「そうだ、見所だ。学びたいと願う心、知りたいという思いがお前を育てる」
「お、思い……」
「学び、考え、そして選べ。お前の人生はお前のものだ」
「じ、人生…」
「解るか」
「わ、解る。学びたい、が、頑張って……。も、桃さんに――」
「うん」
「あ、ありがとうって…」
「うん」
「ありがとうって…か、書きたい」
「うん、うん。そうか――。書こうな」
「うんっ。あ、は、はい」
「気にするな」
「は、はぃ……」
スエの頬が柔らかく赤らむ。
褒められて頭を撫でられた、手の感触が甦る。
スエは初めて幸せを感じていた。
雪音の言葉、志郎の言葉。
勝手口から家へと入ってゆく志郎の背中を見ながらスエは胸でそっと呟く。
『此れは、きっと夢かも……。それでもいい。たとえ夢だって…今見ている夢があったら、また…頑張れる。頑張れるもの……』
「兄さん」
「よお。居ないんだろう」
「ええ。兄さん……あの…」
「でぇじょうぶだ。お前は要らぬ心配をするな」
「でも――」
「悟られたら…全て台無しだぞ」
「――そうね」
「ん…いやにあっさり引き下がりやがったな」
「スエちゃんを…見習うことにしたのよ」
「そうか…うん、良い事だ。たんと見習え」
「そうね、たんと…見習わなくちゃね」
「喜んでいたぞ。お前にしちゃぁ頑張ったじゃねぇか」
「ふふ」
「良く婆ぁが許したな」
「私の教室ですもの。あの人が口を出すことじゃないわ」
「ほう――」
「ふふ」
「スエの効果はてぇしたもんだな」
「ほんとに――私、自分でも驚いているのよ」
「そうか」
「ええ……。あと少し…あと少しよね」
「そう願いたいな――。それにしても、お前がそういった時の、あの婆ぁの顔が見たかったぜ」
「見せたかったわ。手がね…震えたの、私。怖くて、恐ろしくてね…。でも、あの人も震えてた…。其れで気づいたの」
「ほう」
「あの人はもう、私にとって大きな…恐ろしい大人じゃない…。やっとね、気づいちゃったのよ……」
俯き、握った拳を、もう片方の掌で包みゆっくりと摩る。
思い出す、松の見開かれた瞳。
驚きが、恐れにも見えた松の瞳の光は、あれは――何故か、もう一人の自分のように思えた。




