子と母
つましい長屋の一間で薄い布団に起き上がって、タミは庭を眺めていた。
久しぶりに見た夢は、懐かしい風景であった。
どれほどの時が流れたであろう。タミは自分の手を改めて見詰める。
本来の年よりも更に老けて見える荒れてしまった手。
年をとった。
娘、桃を産み、親を、夫を亡くし、それでもこの手一つで娘と自分、親子二人っきりで暮らしてきた。
タミはねぎらうように二つの手をゆっくりと摩った。
「おっかさん」
夕日に透ける様な其の姿に、声をかける娘は、成長したあのときの赤子、桃。
「いつまでも、開け放して、身体に障るよ。そろそろ日も暮れてきた。お湯が沸いたから、部屋で身体を拭いてあげる」
「ありがとう。今ね、ここですこしウトウトしちまって、夢を見たんだよ」
「夢」
「お前が生まれて、この縁側でよくお乳をやっていたのさ。丁度、羽状の御新造がいらしてね、雪さんも一緒だった」
「わぁ、いいなぁ。雪ちゃん。懐かしいな。私も雪ちゃんの夢、見たかった」
「どうしていらっしゃるかねぇ。綺麗な方だった。姿かたちだけじゃなくて、ここがね、心がさ」
「ふぅん。あんまり良く覚えて無いけど。あたしが七つの節句の年に亡くなったんだよね。新しいおかあさん、ちょっと怖かったし、雪ちゃんとも其の後はほとんど外で遊んでたしなぁ。雪ちゃんのお家が引っ越してもう、十年か、元気かなぁ」
「もう、そんなになるんだねぇ。達者に暮らしていらしたら良いんだけど……ゴホッゴホッ」
「あぁ、おっかさん。やっぱり、日暮れの風は身体に良くないよ。閉めようね」
布団の傍に座って話していた桃は、咳き込む母に立ち上がって障子を閉めた。
白い障子紙が夕日で美しい朱に染まる。
伸びやかな肢体は若々しく其の身の健康を誇っている。
タミは、眩しそうに其の姿を眺め、改まった声で娘に呼びかけた。
「桃」
「なぁに」
「すまないね、お前もまだ十七、芝居の一つも観に行きたいだろうにさ」
「なに言ってるの。元気になって、一緒に行こうよ」
障子を閉めて、母の肩にかける半天には、拙い繕いで継ぎはぎがされている。
そっと娘の手をとると、彼女のささくれだらけの荒れた手を大切そうにさする母。
娘盛りの我が子に、こんな手をさせてしまってと。
去年の暮れの大寒波に、畑を護る為に母一人、子一人で必死に頑張った。
それでも半分を失い、それ以来胸を患った母。
優しい娘の笑顔と、彼女のひび割れた手を交互に見て、込み上げてくるものを堪えながら心の中で手を合わせる。
――ありがとう、ごめんよ――と。
「なぁに。どうしちゃったのさ、おっかさん。昔の事でも思い出しちゃったかな」
心の声が娘に伝わる。
気づかぬ振りをして、ぎゅっと母の手を握るともう一度にっこりと笑ってみせる。
か細い肩が一層薄く感じられた母。
嘗て自分を傍らに、逞しく汗して働いていた元気だった頃の母を思い描いた。
と、同時に雪音との日々にも思いは飛び火する。
五つ上の優しい雪音。
小さな桃は姉のように慕い、よく日がな一日、誘い合っては遊んでいた。
もうずっと、身体を壊した母を支えて働き、毎日を一日、一日を暮らすことで精一杯だった。
桃は、小さな頃の楽しい日々を忘れてしまっていたことが少し悔やまれた。
「そうだ……なんで忘れてたんだろう。雪ちゃん、よく遊んだっけ……。あっ」
突然桃が小さく叫んだのでタミも驚いて目を丸くする。
「なんだい、どうしたの」
「金平糖」
「なんだいそりゃ」
「お砂糖のね、お菓子なの。遊びに行ったときに、雪ちゃんのおっかさんがくれたんだ。甘くてね、そりゃぁ綺麗なんだよ」
「おやまぁ、ちゃんとお礼は言ったかい」
「うん。そうだ、そうだ。あたしと雪ちゃんに、一つずつ。綺麗な懐紙にくるんでくれたんだよ」
そう云って話す桃の瞳は、まるで小さな少女のように煌いていた。
「そうかいそうかい。良かったねぇ」
「それでね、いっぺんに食べちまうともったいないからって、雪ちゃんと二人で毎日一つずつ食べようねって」
「うんうん」と桃の娘らしい弾んだ声にタミも気持ちがうきうきと弾む。
「それで、あたし隠したの。雪ちゃんが持ってきた缶に入れて縁の下に……大変、忘れてたっ。まだあるかな、食べれるかな……」
「さてねぇ。もう蕩けちまってるんじゃないかい」
楽しい話題に明るく弾む声、タミは其の小さな幸せを満喫しながらうっとりと応えた。
そうして心でこう呟く。
――いい娘に育った。あたしは幸せもんだよ……ねぇ、おまえさん――
「あたし、見てくる。 食べれるようなら、おっかさんにあげるね、きっと滋養が付くよ」
立ち上がる娘をタミが慌てて引き止める。
「いいよ、いいよ。もう日が暮れてるし」
もう少し、このまま話していようよ、と。
「大丈夫直ぐ見つかるよ。ちょっとまっててね」
だが、桃はもう既に部屋から出ようとしている。
タミは愛しい其の背中に声をかけた。
「縁の下にもぐりこむなんて。気をつけるんだよ」
「わかってるっ」
先ほど見せた母の気弱な態度、夕日に染まって陽炎のような其のか細さに、桃の胸は不安にざわめいた。
畑仕事の中、手ぬぐいで汗を拭っていた母の姿が脳裏に甦る。
大好きなおっかさん。強くて、優しい、おっかさんが消えてしまう。
桃は雪音との思い出話に綻んだ母の頬が少し赤みを帯びたように思えたのである。
今思いついた金平糖を見つけることが出来たなら、一粒でいい、母に食べさせてあげれたら。
全てがきっと良い方向に向くかもしれない。
そんな想いで、おぼろげな記憶を辿って縁の下へともぐりこむ。
「おかしいな、確かこの辺に、ううん、もっと奥だったかも」
欠けた茶碗や石ころを手で避け、蜘蛛の巣を払いながらしているうちに、小さな丸い煙草缶を見つけた。
「あったったたたいたたたた」
頭をぶつけながら急いで縁の下から身体を出すと、早速なかみを確かめようと缶のふたに手をかける。
「ん、開かない。んんん。あっ、開いたぁぁ」
缶の中には、薄藤色に綺麗な雪の結晶の模様の入った懐紙の包みが、上をきゅっとひねられて入っていた。
其れを手にとってそうっと開くと、中には色とりどりの小さな砂糖菓子がまるで微笑むように収まっていた。
「昔のままだぁ」
一つつまんで口に入れて。
広がる甘い幸せに、思わずほっこりと微笑む。
「うん、食べられる」
そう言って、大きくうなずくともう一度丁寧に懐紙に包んで昔のように上をきゅっとひねる。
『これで、きっと全てが良くなる。お伽のようなこのお菓子を、全部おっかさんに上げよう。滋養が付いて元気になるよね、きっとなるよね』
まだ纏わり付いている蜘蛛の巣を払うことも忘れて、桃は家へと駆け上がる。
喜ぶ顔を思い浮かべながら。
待ちきれぬとばかりに声を張り上げながら奥の襖をがらりと開ける。
「おっかさん、あったよ。食べれたよ、おっかさんにね、全部あげる。――寝て、いるの――おっかさん、おっかさん」
起き上がったままの姿で布団に伏せる母の顔が、まるで眠っているように一瞬見えた。
寒かろうと、肩にかけてやった半天が、そのまま母を後ろから抱きしめるように護っていた。
「おっかさん、しっかりして、おっかさん」
かけよって、身体を揺するが、まるで人形のように揺さぶられたままの母。
まだ温かみの残っていた肌が、どんどん冷たくなってゆく。
逝ってしまおうとする、たった一人の肉親を呼び戻そうと、力の限りに呼んでみせる。
魂も張り裂けんばかりにあげたつもりの声が、泪で咽ぶ喉に詰まって言葉にならない。
「おっかさぁん、逝っちゃいやだ、逝かないでぇ」
春とはいえ、まだ底冷えのする月の夜。
こうして娘は此の世にたった一人きりになってしまった。
ひとしきり泣いて、それでも流れる涙は止まらなかったが、いつしか桃の心は、まるで澄んだ泉のように静かになった。
取り残される不安と悲しみを、母にすがって全部吐き出すと、今度は急に母が哀れで仕方がなくなった。
自らを哀れむ事を乗り越えて、娘は母を想った。
まだ柔らかい身体を起こして、きちんと布団に寝かせると、優しい手つきで乱れた髪を頬からすっと、直してやった。
肩にかけた半天は布団の上からもう一度かけなおした。
そうして、そのまま母の隣に寄り添うように横になる。
まるで、幼子のように、甘えるように、護るように。
「おっかさん、一緒に寝ようね。ゆっくり休んで。もう、辛い事なんかないんだよ」
眠るような静かな母の顔を仰いで、落として散らばってしまった金平糖を一粒口に含む。
もう一度、少しだけ母の側にぴったりと身体を寄せて、布団の上からそっと、そしてぎゅっと抱きしめて眠った。