烏
「やっぱり――」
深川の船宿。
川を見下ろす二階の部屋で窓辺に肘を突き出して水面を見つめるその姿。
揺れる柳の葉にあわせるように水に映る朧な月の揺らぎのように、虚ろに空を泳いでいる。
「あぁん、なんだって」
座敷にだらしなく寝転がりながら、手酌で酒を飲んでいる。
交わす言葉も聞こえぬ静かな夜に、たった二人の船宿で男と女の関わりが決して薄くは無いはずと、
彼らを取り巻く気の帳が雄弁に語っていた。
「なぁ、おい――」
業を煮やして男がぐっと、窓辺の女の冷たい爪先に指を伸ばす。
小さく揃った足の指を、いかつい指で舐るようになぞる。
片眉の根にぐっと力を入れて、知らぬ素振りを決め込もうとはしたものの、
堪えきれぬ怖気に、力強く男の指を振り払い、そのまま強く踏みつける女。
「って、なにしやがるっ」
「気色悪いっ、気安く触るんじゃないよ」
思いのほか痛かったと見えて、男は起き上がり、踏みつけられた左手の人差し指をしきりに擦っている。
女はその姿を見ることもしない。
そのまま、頬杖をして水面の月を見つめている。
「ちっくしょう、気取りやがって。何様だってんだ、淫売が――っうおっ」
言い切ったか切らぬ間に、今度は強く蹴り倒される。
小柄な女に大の男が背中を踏まれ顎を引かれて微動だにしない。
出来ようはずも無い、男の喉にはひんやりと冷たい刃がぴったりと当てられているのだから。
「よ、よせっ松」
見えずとも解る。
己の喉に当たるこの刃は、松が常日頃、懐に忍ばせているものだった。
「ま、まだこんな物持っていやがったのか……。すまねぇ、ちょっと呑み過ぎたようだ、なっ、俺がおめぇをそんな風に思うわけがねぇだろう――」
「今すぐ……そのきたねぇ首を掻っ切ってやったっていいんだ」
冷たい。
喉に当てられたその刃よりも、ひんやりと凍りつくような――。
感情の、いいや、心と呼ばれる何もかもすべてが消えてしまった声。
「やい銀二。てめぇ……よもや妾に、隠し事なんざぁ――」
「よ、よせやいっ。今更何の焼きもちでぇ」
「やきもち、だとぅ」
「隠し事なんざねぇって、こちとらあらぬ疑いで追い回されてんだ。おめぇに隠れて、女遊びの金もねぇよぉ」
「あらぬ疑い……。本当かい」
「本当も何も、あたりめぇだぜ、やっと掴んだおめぇの金づる、俺がどうもこうもする理由ねぇだろうが」
伽藍堂の闇。ぽっかり開いた底なしの夜。
そんな胸のうちで、それでも松は考える。
「やっと掴んだお前の幸せ」この男がそう言っていたら。
だがしかし、今この男は松に怯えながらも「金づる」と。
捕らえた男の頭をそのまま強く突き放すが、松の双眸は瞬きすらせずに銀二を見据えている。
「ごほっ、げほっ。なんでぇ、なんでぇ、まだそんな事疑って掛かってやがったのか。冗談じゃねぇぜ――」
恨み言をぐちぐちと零しながら上目使いで松の顔色を探る。
元は武士でありながら、今は人相書きの出回る小悪党。強請りたかり、美人局。
自称男前の薄気味の悪い目つきは、性根の腐り具合がそのままに出ている。
「首尾よくやんな。下手ぁこくんじゃぁないよ。それと、さっきの話。万に一つも嘘があったら――」
「ねぇって。お。おい、それより金、金を置いてってくれねぇと――」
「努々《ゆめゆめ》忘れないこった。妾はいつだって、何処にだっている。必ず、必ず殺しに行くよぉ――――」
呪いの様に静かにそう言い、にいっと笑うその姿は、今にも襲い掛かり男を一飲みに飲み込もうとする大うわばみ。
背中の障子を後ろ手で開き、金の入った財布を銀二の目の前へ投げる。
褒美にありつく犬のように瞬時に手にとってその重さに思わず口の端を引き上げる銀二。
それを見下ろし、小さく舌打ちすると松は開かれた障子間の夜の闇に帰っていく。
男はしばらくその暗闇を見つめているが、堪えきれずにそれでも恐る恐る頭を差し入れ、廊下の右を左を確かめる。
そしてぴしゃりと勢い良く障子を閉めて、まだ残っている銚子からそのままぐびりと酒を喉へと流し込み、大きく溜息をつく。
「ん、ん、ん…はぁぁぁぁ。ちきしょう、あの女脅かしやがって。昔はまだ、もうちぃっとばかし可愛げがあったもんだが……。なんだか、年々化け物じみてきやがる……とうが立った女は嫌だねぇ」
口端から零れた酒か、それとも流した冷や汗かを手の甲でぐっと拭う。
放って寄こされた札入れを開いて中身を確かめると、大事そうに懐へとしまう。
その重みと厚さが何よりの酒のつまみ。
銀二は着物の上から撫でさすっては、酒を飲む。
「へ、へへ。それにしても……。随分とはり込みやがったなぁ。まぁ、おかげさんで当分不自由するこたぁねぇが……。大店の手代ねぇ。だが、俺の見立てじゃぁあの二吉って野郎……真面目がとりえの商人たぁ思えねぇぜ。叩けば埃の一つや二つ、出てきやがるにちげぇねぇ」
窓から吹き込んだ夜風が襟足を撫でてゆく。
窓を閉めると銀二は、一人寝の布団へと寝転がる。
卑小な男の脳裏に、柄にも無く不思議と今の今まで巡ってきた自分の道を振り返る。
――堕ちるとこまで、堕ちたなぁ――




