灯
薄靄のような意識の中で、懐かしい声が聞こえる。
――雪音――
呼ぶ声を、忘れたことがあろうか。
懐かしい声、暖かい響き、それは――。
雪音もそっと呼んでみる。口にするのも甘く切ないその人を。
「おかぁさま」
「おっかさんでいいのよ」
「ぇ――ぉ、おっかさん」
「はぁい」
「おっかさん」
「はぁい」
「なんだろう――嬉しいのに涙が――」
「あらあら。雪音はそんなに泣き虫さんだったかしら」
呼ばれ、呼び合い、応えてもらう。
それがどんなに嬉しい事か。
雪音は願う、祈るように。
――夢なら、覚めないで――
姿の見えない声だけであろうとも、どれ程までに焦がれた事であろうか。
叶うことなら、ひと目でいいから優しい顔が視たかった。
もう一度だけ抱きしめて欲しい。
けれども雪音は、この一時の泡沫の夢を逃したくは無かった。
「おっかさんって、呼んでみたかった――。ちょっとね、お友達が羨ましかったの」
「そうだったの――」
「うん、うん。それでね――」
もっと、もっと話したい。もっと。
「雪音」
改めて名を呼ばれる。
「はい」
「雪音が生まれたときにね、その年で始めての雪が降ったのよ」
「雪」
「そう、雪――。貴方を産んで初めて胸に抱かせてもらって……。格子窓からちらちらと雪が見えていた。貴方はお乳を飲んで薄っすらと微笑みながら眠っていたの。そうしたら、お父様がね――」
「お父様…お父様は大嫌い」
母が亡くなり、連れてきた若く新しい義母、松。
その癖、呆気なく事故で自分も逝ってしまった。
雪音の脳裏に在りし日の父の顔が浮かぶ。
人の良い、優しい人だった。兄上には厳しかったけれど、母を、家族を大切にしてくれていた。
「大嫌い」と云った雪音の胸がちりりと痛む。
「嫌い」は「好き」
ただ、ただ、今の自分の不幸を誰かの所為にしたいだけ。
そんな雪音の心を見透かすように、母さよりが静かに語り始める。
「お父様が、こんな風に静かだけれど大地の恵みになり、穢れを優しく覆い尽くしてくれる。雪のような女性になって欲しいって。そして私は、けして静かなだけでは無い、己の音を持つ女性になって欲しいと――」
「それで……雪音に」
自分の名前。雪音と云う其の名前に込められた母と、父の想い。
さよりはまだ続けて語る。だが其の声までもが、薄く消えて行く。
「雪音。貴方はわたくしの娘です。大切なわたくしとお父様の――。しなやかで、強い女性になりなさい――。二度と、わたくしの側へなどと考えてはなりませんよ――」
「嫌。雪音も其処へ行きます」
視えぬ母に縋ろうと腕を延ばす。
「雪音、雪音――。目を凝らし、耳を澄まして、幸せを掴みなさい――」
「おっかさん、おっかさんっ」
待って、もう少しと小さな子供のように両腕を伸ばし、消えてゆく声を追いかける。
「雪音さん……雪音さん」
再び目を開いたときも、その瞳に映ったのは二吉の顔であった。
「――良かった。だいぶうなされてやしたから……。寒くはありやせんか――っていけねぇなぁ、お店を離れるとついつい言葉づけぇが悪くなっちまう」
狭い長屋の一室だろうか。
心づくしの薄い布団に寝かされていた雪音は、頬から耳へと冷たい涙の感触を知る。
行灯に照らされて、火鉢で雪音の着物を乾かしている二吉の背中が、ぼんやりと朱色に染まっている。
「ここは」
「あっしの家でさ。小汚いところですが、勘弁してくだせぇ」
「わたしは」
突然に津波の如く押し寄せる起きてしまった様々な事。
雪の中、何故飛び出したのか、そして何から逃げていたのか。
追ってきたこの男の家で自分は何故寝かされているのか。
噛み締めるように思い出す。消えることの無い悪夢。
義理の母、松に売られるように備前屋善兵衛の妾となると決まったこの身体。
あろうことか松は雪音の身体を調べると言い出した。
男と女の睦みあいなど、まったく知らぬ雪音にとって、どれ程恐ろしく怖気のはしる仕打ちであったか。
泣き叫ぶ雪音に業を煮やし、何処からか連れてきた薄気味の悪い情夫に手伝わせた松。
後ろから見ず知らずの男に羽交い絞めにされ、足を開かされたあの屈辱。
何故、あの時舌をかんで死ななかったのだろう、とそればかりを考えて毎日を過ごしていた。
若い情夫が雪音の股座を覗き込む松の隙をうかがって、狂ったように暴れる雪音に囁きながら耳たぶを舐る。
其の瞬間、雪音の意識が途切れて少女は自分を守る為に気を失った。
妾とはなんなのか、何故自分が――。
――でも、もう――
「もう、泣きません」
「え」
「悲しみも、怒りも、悔しさも恥ずかしさも、何一つ消えていませんが、涙が出てきません」
「そう、ですかい」
しっかりと天井を見つめ、はっきりとそう話す。言葉をひとつひとつ噛み締めるように。
まだ、友人と連れ立って、芝居見物や絵草子物にうっとりと夢を見ていてもおかしくない、そんな年頃。
そんな娘が背中にしょった荷物の重さに、二吉の瞳が思わず潤む。
「ちきしょう、せつねぇなぁ――。だがあっしには何にもしてやれねぇ。……すまねぇ、雪音さん。この通りだ――」
両の手を突く二吉に顔を向けて、静かに応える。
「二吉さん」
「聞いておくんなせぇ、雪音さん。あっしは、ご覧の通りの遊侠者で。餓鬼の頃から見てくれと、腕っ節にのぼせ上がった町の鼻つまみ者でやした。頭を抱えたお袋と、長屋の大家が人を見込んで、丁稚奉公に預けたのが、備前屋の旦那様だ。店の金はくすねるわ、寄ると触ると喧嘩三昧の俺を、まるで親父みてぇに根気よく諭してくだすった旦那様は、俺にとってお店のご主人。いや、親父以上の、神様みてぇな存在だ」
「二吉さん」
「あんたのこたぁ気の毒だ、出来るもんなら何とかしてやりてえと思う。松って女は毒婦の極みだ。あの細首、何度締め上げちまいたくなった事かしれねぇ」
「毒婦」
「だがよ、ものは考えようだ、あっしも足りねぇ頭で考えやした。もしも、備前屋の旦那様の世話からあんたが逃げおおせたとしても、きっとあの女ぁ、あんたを離しゃぁしねぇ。旦那様は……善兵衛とその名の如く、掛け値なしの善人だ。あんたのことで尋ねたあっしに、あのお人はこう言ったんだ。あの気の毒な娘さんを、なんとか幸せにしてあげたいってよぉ、そう云ってくだすったんだ。おりゃぁ、その言葉を信じる。妾なんて……。きっとあのお人にゃ、考えがありなさるに決まってる。俺はそいつを信じる。俺は……。他の男にあんたを渡したくねぇと思っている」
「え」
「笑っちまうよな。俺だって一端に遊んだつもりだ――。今更、今更じゃねぇか」
「それって――」
「だめだ、連れてなんて逃げねぇよ」
「――でも」
「だめだ」
――すまねぇ、雪音さん。だが、あんたの為なんだ――
ぎゅっと膝の着物を掴み、唇を噛み締める二吉。
云えぬ事情が二吉にはあった。今直ぐ雪音を安心させてやりたかったが、きつく口止めされた事情。
不器用だが、真っ直ぐな男、二吉。
「ありがとう」
もう、枯れたはずだった涙が、雪音の声を震わせる。
一度ゆっくりと目を瞑り、瞳に溜まった泪を押し出すと、雪音は布団をはいでその上に立ち上がる。
「二吉さん」
しゅるしゅると囁くような絹音と雪音の声に振り返ると、其処には着せられた二吉の着物を滑り落とした雪音の白い身体。
「ゆ、雪音さん――い、いったい」
ほの暗い行灯の明かりに照らされていても、輝くばかりに美しい雪音の若く白い肢体。
まるで暗闇に突然、明かりに当てられたかのように、両手で目を覆う二吉。
「二吉さん――。見て……。雪音は、雪音は綺麗ですか――」
この上も無い恥ずかしさで、その身が紅く燃え上がるようだった。
精一杯の声を出しても、震えてしまう。
雪音の中の何かがそっと背中を押す。
「雪音は穢れています。どんなに白くても、雪音の身体は泥土のように汚い」
「そんなこたぁねぇっ」
子供の遊びのように両の掌で目を覆っていた二吉が、脱ぎ捨てられた着物を掴んで雪音を包む。
「あんたは、綺麗だ。今までも、これからもずっとずっと――綺麗だよ」
「う、うううあぁ」
未通娘の誇りと純潔は身体に起こる事だけでは無かった。
無垢な心を踏みにじられた。
無理に見せ付けられた男の身体。
魂の奥までもが蹂躙されたのだ。
子供みたいに泣き出す雪音を、あやすように背中をさする。
「もう、泣かねぇんじゃなかったんですかい」
「もう、もう泣かないから、泣いたりしないからっ」
「――うん」
「だからっ、だからっ――」
泣きじゃくり、すがる雪音の小さな頭を二吉の掌が捕らえる。
それ以上、何も言うなと云わんばかりに震える唇を、小さな舌を思いを込めて受け止める。
雪音十五、二吉、二十歳の冬であった。




