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雪月花 ―雪―  作者: くろぬこ
雪音と二吉
15/29

薄靄のような意識の中で、懐かしい声が聞こえる。


――雪音――


呼ぶ声を、忘れたことがあろうか。


懐かしい声、暖かい響き、それは――。


雪音もそっと呼んでみる。口にするのも甘く切ないその人を。



「おかぁさま」


「おっかさんでいいのよ」


「ぇ――ぉ、おっかさん」


「はぁい」


「おっかさん」


「はぁい」


「なんだろう――嬉しいのに涙が――」


「あらあら。雪音はそんなに泣き虫さんだったかしら」


呼ばれ、呼び合い、応えてもらう。


それがどんなに嬉しい事か。


雪音は願う、祈るように。



――夢なら、覚めないで――


姿の見えない声だけであろうとも、どれ程までに焦がれた事であろうか。


叶うことなら、ひと目でいいから優しい顔が視たかった。


もう一度だけ抱きしめて欲しい。


けれども雪音は、この一時の泡沫の夢を逃したくは無かった。


「おっかさんって、呼んでみたかった――。ちょっとね、お友達が羨ましかったの」


「そうだったの――」


「うん、うん。それでね――」


もっと、もっと話したい。もっと。


「雪音」


改めて名を呼ばれる。


「はい」


「雪音が生まれたときにね、その年で始めての雪が降ったのよ」


「雪」


「そう、雪――。貴方を産んで初めて胸に抱かせてもらって……。格子窓からちらちらと雪が見えていた。貴方はお乳を飲んで薄っすらと微笑みながら眠っていたの。そうしたら、お父様がね――」


「お父様…お父様は大嫌い」


母が亡くなり、連れてきた若く新しい義母、松。


その癖、呆気なく事故で自分も逝ってしまった。


雪音の脳裏に在りし日の父の顔が浮かぶ。


人の良い、優しい人だった。兄上には厳しかったけれど、母を、家族を大切にしてくれていた。


「大嫌い」と云った雪音の胸がちりりと痛む。


「嫌い」は「好き」


ただ、ただ、今の自分の不幸を誰かの所為にしたいだけ。



そんな雪音の心を見透かすように、母さよりが静かに語り始める。


「お父様が、こんな風に静かだけれど大地の恵みになり、穢れを優しく覆い尽くしてくれる。雪のような女性になって欲しいって。そして私は、けして静かなだけでは無い、己の音を持つ女性になって欲しいと――」


「それで……雪音に」


自分の名前。雪音と云う其の名前に込められた母と、父の想い。


さよりはまだ続けて語る。だが其の声までもが、薄く消えて行く。


「雪音。貴方はわたくしの娘です。大切なわたくしとお父様の――。しなやかで、強い女性になりなさい――。二度と、わたくしの側へなどと考えてはなりませんよ――」


「嫌。雪音も其処へ行きます」


視えぬ母に縋ろうと腕を延ばす。


「雪音、雪音――。目を凝らし、耳を澄まして、幸せを掴みなさい――」


「おっかさん、おっかさんっ」


待って、もう少しと小さな子供のように両腕を伸ばし、消えてゆく声を追いかける。




「雪音さん……雪音さん」


再び目を開いたときも、その瞳に映ったのは二吉の顔であった。

       

「――良かった。だいぶうなされてやしたから……。寒くはありやせんか――っていけねぇなぁ、おたなを離れるとついつい言葉づけぇが悪くなっちまう」


狭い長屋の一室だろうか。

  

心づくしの薄い布団に寝かされていた雪音は、頬から耳へと冷たい涙の感触を知る。

       

行灯あんどんに照らされて、火鉢で雪音の着物を乾かしている二吉の背中が、ぼんやりと朱色に染まっている。


「ここは」


「あっしの家でさ。小汚いところですが、勘弁してくだせぇ」


「わたしは」


突然に津波の如く押し寄せる起きてしまった様々な事。

       

雪の中、何故飛び出したのか、そして何から逃げていたのか。

       

追ってきたこの男の家で自分は何故寝かされているのか。


噛み締めるように思い出す。消えることの無い悪夢。


義理の母、松に売られるように備前屋善兵衛のめかけとなると決まったこの身体。


あろうことか松は雪音の身体を調べると言い出した。


男と女の睦みあいなど、まったく知らぬ雪音にとって、どれ程恐ろしく怖気のはしる仕打ちであったか。


泣き叫ぶ雪音に業を煮やし、何処からか連れてきた薄気味の悪い情夫に手伝わせた松。


後ろから見ず知らずの男に羽交い絞めにされ、足を開かされたあの屈辱。


何故、あの時舌をかんで死ななかったのだろう、とそればかりを考えて毎日を過ごしていた。


若い情夫が雪音の股座またぐらを覗き込む松の隙をうかがって、狂ったように暴れる雪音に囁きながら耳たぶをねぶる。


其の瞬間、雪音の意識が途切れて少女は自分を守る為に気を失った。


めかけとはなんなのか、何故自分が――。



――でも、もう――



「もう、泣きません」


「え」


「悲しみも、怒りも、悔しさも恥ずかしさも、何一つ消えていませんが、涙が出てきません」


「そう、ですかい」


しっかりと天井を見つめ、はっきりとそう話す。言葉をひとつひとつ噛み締めるように。

       

まだ、友人と連れ立って、芝居見物や絵草子物にうっとりと夢を見ていてもおかしくない、そんな年頃。

       

そんな娘が背中にしょった荷物の重さに、二吉の瞳が思わず潤む。


「ちきしょう、せつねぇなぁ――。だがあっしには何にもしてやれねぇ。……すまねぇ、雪音さん。この通りだ――」


両の手を突く二吉に顔を向けて、静かに応える。


「二吉さん」


「聞いておくんなせぇ、雪音さん。あっしは、ご覧の通りの遊侠者ゆうきょうもので。餓鬼の頃から見てくれと、腕っ節にのぼせ上がった町の鼻つまみ者でやした。頭を抱えたお袋と、長屋の大家が人を見込んで、丁稚奉公に預けたのが、備前屋の旦那様だ。店の金はくすねるわ、寄ると触ると喧嘩三昧の俺を、まるで親父みてぇに根気よく諭してくだすった旦那様は、俺にとっておたなのご主人。いや、親父以上の、神様みてぇな存在だ」


「二吉さん」


「あんたのこたぁ気の毒だ、出来るもんなら何とかしてやりてえと思う。松って女は毒婦の極みだ。あの細首、何度締め上げちまいたくなった事かしれねぇ」


「毒婦」


「だがよ、ものは考えようだ、あっしも足りねぇ頭で考えやした。もしも、備前屋の旦那様の世話からあんたが逃げおおせたとしても、きっとあのあまぁ、あんたを離しゃぁしねぇ。旦那様は……善兵衛とその名の如く、掛け値なしの善人だ。あんたのことで尋ねたあっしに、あのお人はこう言ったんだ。あの気の毒な娘さんを、なんとか幸せにしてあげたいってよぉ、そう云ってくだすったんだ。おりゃぁ、その言葉を信じる。めかけなんて……。きっとあのお人にゃ、考えがありなさるに決まってる。俺はそいつを信じる。俺は……。他の男にあんたを渡したくねぇと思っている」


「え」


「笑っちまうよな。俺だって一端いっぱしに遊んだつもりだ――。今更、今更じゃねぇか」


「それって――」


「だめだ、連れてなんて逃げねぇよ」


「――でも」


「だめだ」



――すまねぇ、雪音さん。だが、あんたの為なんだ――


ぎゅっと膝の着物を掴み、唇を噛み締める二吉。

       

云えぬ事情が二吉にはあった。今直ぐ雪音を安心させてやりたかったが、きつく口止めされた事情。


不器用だが、真っ直ぐな男、二吉。




「ありがとう」


もう、枯れたはずだった涙が、雪音の声を震わせる。

       

一度ゆっくりと目を瞑り、瞳に溜まった泪を押し出すと、雪音は布団をはいでその上に立ち上がる。

       

「二吉さん」


しゅるしゅると囁くような絹音と雪音の声に振り返ると、其処には着せられた二吉の着物を滑り落とした雪音の白い身体。


「ゆ、雪音さん――い、いったい」


ほの暗い行灯の明かりに照らされていても、輝くばかりに美しい雪音の若く白い肢体。

       

まるで暗闇に突然、明かりに当てられたかのように、両手で目を覆う二吉。


「二吉さん――。見て……。雪音は、雪音は綺麗ですか――」


この上も無い恥ずかしさで、その身が紅く燃え上がるようだった。

       

精一杯の声を出しても、震えてしまう。

       

雪音の中の何かがそっと背中を押す。


「雪音は穢れています。どんなに白くても、雪音の身体は泥土でいどのように汚い」


「そんなこたぁねぇっ」


子供の遊びのように両の掌で目を覆っていた二吉が、脱ぎ捨てられた着物を掴んで雪音を包む。


「あんたは、綺麗だ。今までも、これからもずっとずっと――綺麗だよ」


「う、うううあぁ」


未通おぼこ娘の誇りと純潔は身体に起こる事だけでは無かった。


無垢な心を踏みにじられた。


無理に見せ付けられた男の身体。


魂の奥までもが蹂躙じゅうりんされたのだ。


子供みたいに泣き出す雪音を、あやすように背中をさする。


「もう、泣かねぇんじゃなかったんですかい」


「もう、もう泣かないから、泣いたりしないからっ」


「――うん」


「だからっ、だからっ――」


泣きじゃくり、すがる雪音の小さな頭を二吉の掌が捕らえる。

       

それ以上、何も言うなと云わんばかりに震える唇を、小さな舌を思いを込めて受け止める。

       



雪音十五、二吉、二十歳の冬であった。


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