淡雪
それはもう、ずっと以前の話。
雪音の父が亡くなり、松と暮らす雪音の元に善兵衛との話が持ち上がって間もなくの事。
積もった雪に町が静まり返る夜。
静寂を切り裂くような少女の叫びが聞こえて来る。
「嫌、今日は嫌なんですっ」
「雪音っ。我侭こきゃぁがって、承知しないよっ。お待ち、お待ちったら」
夕べからの雪が、まだ降り積もる外へ裸足で駆け出す。
針で貫くほどの痛みも、寒さも、零れて止まぬ涙の熱さすら少女にはどうでも良かった。
ただひたすらに、逃げ出したかった。
何から――
――それは全てから。
「嫌、もう嫌……」
何度も小さく繰り返す。
真っ白な雪を踏みながら。泪に潤んだ目に映る真白な雪。
だがそれを踏む自分は、穢れてこの上なく醜く思えた。
「ちきしょう、どこいきゃぁがった――。ちょっと甘い顔すりゃつけあがりやがって――」
開け放たれた潜り戸で此れもまた素足で飛び出た松が悪態をついていると、奥座敷から一人の若い衆が顔を出す。
「おかみさん、どうなさいやした」
切れのよい涼やかな声。歌舞伎役者のような白い顔。
備前屋善兵衛から使わされたこの若い男は二吉。
善兵衛との会食に、料亭へと雪音を迎えに来たのである。
松は先程までの悪態を聞かれていたことなど露ほども気にせずに、猫撫で声で取り繕った。
「えぇ、なぁに、若い娘に良くある気まぐれってやつですよぉ、にきっつぁん。大した理由なんざありゃしませんって。あの娘は、生娘で旦那に水揚げしていただくんですから。もうねぇ、旦那にぞっこんなんですよ」
色目を使ってしなだれかかろうとする松に二吉は、するりと肩透かしを食らわせた。
「草履もはかねぇで飛び出して行かれたようですが」
冷たく落ち着いた声音に、脈なしと思ってか松もついと顔を背ける。
「馬鹿じゃないんだから寒くなったら帰ってくるでしょ。たまにああやってかんしゃくを起こす娘でねぇ。あたしゃどんだけ苦労したか――。犬だって三日も飼えば恩を覚えるって言うのにさ――」
「あっしが、ちょいと見てきやしょう」
商人風の二吉と呼ばれた男が、威勢よく着物の裾をはしょって駆け出してゆく。白い脛が若鮎のように雪を蹴る。
いなせな後姿に松が慌てて声をかけた。
「にきっつぁん、後生だから大事にしないでおくれよぉ――旦那にはくれぐれも――」
しまいの言葉は、聞こえなくとも二吉には見当が付いていた。
江戸の水と女に磨かれた粋な姿が、商いには不向きと主人が案ずるほどの男前。
しかし、背中で聞いた松の言葉にきりりと眉を寄せ、仁王のような形相で、まだ消えてはいない小さな足跡を追ってゆく。
――ちっ、まったく、胸糞わりぃ女だぜ――
辻を曲がってしばらく行くと、火消し樽の脇で蹲っている小さな影を見つける。
怯えて震える少女を驚かさぬよう、息を整え、着物を整えて静かに近寄ってゆく。
「ごしんぞさん……」
雪の中、肩に髪にと雪を積もらせ、歯が鳴るほどに震えながら、自らを力いっぱい抱きしめて泣いているか細い少女。
二吉は、此の少女を呼ぶその言葉を、選び間違えてしまったと心の奥で後悔する。
「雪音さん」
「い、嫌…。もう嫌。もう嫌なの嫌なの――」
始めてその顔を目にしたとき、此れほどまでに可憐で清らかな女がいたのかと二吉は思った。
その天女のような美しい顔が、般若のように歪み、崩れて泪で濡れている。
二吉はそっと己の半天を雪音の肩にかけてやる。
「さぁ、こんな所に座ってちゃぁ、冷えやすぜ――」
雪音はやっと二吉の顔を見る。
雪を背に、優しく微笑んでいる二吉の顔を。
二吉はその時自分を見詰めていた大きく開かれた雪音の瞳を、生涯忘れる事は無いだろう。
小さな白い足は、雪に凍えて燃えるように紅くなっていた。
二吉は雪音の足を持ち上げると暫く摩り、息を吹きかけて暖めようとした。
冷たい足が二吉の吐く暖かい息に包まれる。
「こんなに真っ赤にしちまって……。さぁっこいつを――」
そういって、懐から取り出す雪音の草履。
二吉は大切そうに、丁寧に雪音の足の雪を手ぬぐいで拭い、ひとつひとつ履かせてやる。
「暖かい……」
「そうでやしょう。昔の偉い侍の真似事でさぁ。さぁ、顔も――」
「っ」
「おっといけねぇ、こいつは順番が逆だった――」
「ふふっ」
「裏っかえしにすりゃぁ平気かなぁ――。あぁ、もうめんどくせぇやっ――」
手ぬぐいを懐にしまって雪音をぐいと引き寄せると、自分の着物の袂でぐいぐいとぶっきらぼうに雪音の顔を拭う二吉。
兄とも父とも、もう一人の男とも違う。
若く逞しい腕。
雪音の胸がトクンと、小さく波立った。
「さぁっ、此れで別嬪さんに逆戻りだ。とにかく此処じゃぁ話も出来ねぇ、ささっ――」
「え」
「おぶって差し上げやすから。どうぞご遠慮なさらないで」
「いえ……歩けますので」
突然目の前に現れた二吉の振る舞いに、少しだけ落ち着きを取り戻すと雪音は恥ずかしさでいっぱいになる。
子供のようにおぶさるなど、武家の娘として――。
其処まで考えてから、雪音は黒く何処までも底なしの自分の身の上を思い、眉根を寄せて薄く笑った。
「雪音さんの一人や二人、真綿をしょっているみてぇなもんでさぁ。さぁ」
向けられた大きな背中は、とても大切な何かに思えた。
雪音はおずおずと手をかけようとして思いとどまる。
「連れて帰るんですね。あそこに、あの家に――。嫌ですっ、もう帰りません。それならいっそ――」
「いけねぇっ」
まだ薄氷も溶けていない川原に向かって駆け出す雪音。
此の華奢な身体の何処にまだその力が残っていたかと二吉が驚く程に、駆け出してゆく。
「もう、もう二度とあのような真似をさせるものか――。お母様、雪音も、雪音も参ります――」
「だめだっ、雪音、雪音さん」
音を立て真っ直ぐに川へと入ってゆく雪音の腕を二吉がようやく掴んだのは、もう半身が濡れて浸された川の半ば。
抱え上げ、川岸へと引き返す。
「まずいな、すっかり冷え切っちまってる――。ご免なすって――命にかかわることだ、勘弁しておくんなせぇよ」
そのまま背中に担ぐと、雪音は朦朧として震えていた。
二吉の肩で揺れる雪音。
彼女を支える二吉の指に力が篭る。
――この女を護りたい――と。




