訪れ
昼下がり、雪音の家の裏庭で弾むような少女の声が聞こえている。
「饅頭。
饅頭、食べたい。
饅頭食べたい。食べたい。食べたい。桃食べたい。饅頭食べたい。桃食べたい。会いたい会いたい、桃さんに会いたい」
井戸の流し場でしゃがみ込み、ゴシゴシと野菜を洗うスエが、調子よく繰り返し唱えているのは、あの日、桃と約束した練習の言葉。
口ずさむたびに、『饅頭』とすらりと言えたあの瞬間の、驚く桃の顔を思い浮かべる。
そうして其のたびに顔がほころんで、なんだか温かい気持ちになれるスエであった。
「ほう」
スエの唱える節に合わせて、まあるい尻が上下に動く。
其の姿を後ろに立って腕を組み、首を傾げて見つめる若い男がいた。
長い髪を無造作に後ろに束ね、日に焼けて色のあせた着物を纏った、決して堅気には見えない風体の男である。
しばらく其の姿を堪能してから、ようやく男は声をかける。
「なんだそりゃ、どこの流行歌だ」
不意に聞こえた聞き覚えのある爽やかな声に、立ち上がって片手で扇ぐように否定するスエ。
「あっちが、ちがう」
「おう、スエ久しいな、随分と立派な尻になったもんだ。いやぁ、眼福、眼福」
其の言葉に俯いて顔を赤らめるスエ。
濡れた手をそのままに、後ろに回し、小さな自分の尻を覆い隠すような仕草を見せる。
男は其の姿をも、ニヤニヤと愉しんでいるように見える。
「居るか」と云ってあごを母屋のほうへと向ける男に、スエは素直に返事をする。
「は、はい」
「そうかぁ、居るかぁ」
「は、はい」
「んっ、なんだ。お前、治ったんじゃないのか」
「えっ」
先程の調子のよい歌声はすんなりと聞こえていた筈であったが、今こうして話すスエの言葉は途切れ途切れに何時ものままであった。
だが、其れはそのままに。あえて男はスエに追求することをしなかった。
「まぁいいさ。そんな事もいずれ気にならない世の中になる。生まれや育ち、そんな下らん事に生き方を左右されるなんざ、文明的じゃない」
「ぶ、ぶん、文明」
「そうだぞ。お前、自分の名を読んで書けるか。せっかく、雪音の側にいるんだ。文字を覚え、本を読め」
「ほ、本」
「そうだ、本だ」
少女はいきなりしゃがみ込むと、柔らかな土に指で【スエ】と、自分の名を書く。
そうして嬉しそうに見上げるスエの愛らしい笑顔に、男も満面の笑みで応える。
「おおっ。偉いぞ、よく学んだな」
「えへ、えへへ」
大きな手で其の小さな頭をガシガシと撫でる。
細い首を揺らしながら、照れくさそうに、だが誇らしげに笑い、自分の名前をもう一度指でなぞる。
スエの言葉の吃音に触れることない優しい男も、いや、そんな男だからこそスエの頬に、捲り上げた腕に、しゃがみ込む襟元から覗く首元に、青紫の痛ましい痕を見逃すことはできなかった。
「其の痣、あの鬼婆だな」
スエの指が動きを止める。捲り上げた着物の袖をそっと引いて痣を隠す。
小さく丸めた背中が、そのまま静かな聞こえぬ声で全てを語る。
もう一度小さな頭を今度はゆっくりと優しく撫でてやりながら男はそっと胸で呟く。
――変わらんか、あの女は――
「確か、黒塀にかな手習いの看板――っていってたよねぇ。このへんだよねぇ。あれ、これかね。あぁ、これだこれだ。あのぅ、ごめんくださいまし。ごめんくださいまし」
「ごめんくださいまし」と聞こえた女の声も、スエには聞き覚えがあった。
思わず「あ」っと小さく声をあげ、立ち上がったスエもまた、胸の奥で呟く。
――あの声は、でも、どうして――
「うん、客か物売りか」
聞こえ来る声のほうをじっと見つめ、佇むスエに男が小声で促した。
「どうした、出ないのか。またどやされるぞ」
「ごめんくださいまし」
再び聞こえる其の声に、今度は強くスエの胸は強張った。
――間違いない。間違えるはずなんて無いもの。でも、でも――
「おい。スエ」
男に呼ばれて顔を向けるスエの、あどけない瞳が濡れて揺れる。
「おまえ――」泣いているのかと言い掛けて、男は口をつぐんだ。
そんな男の気遣いに深々とお辞儀をしてみせると、スエは野菜を抱えて勝手口から中へと入って行ってしまった。
「ごめん――って、誰もいないのか。仕方がない、またにしようかね」
立ち去る様子の其の女に応えて男は声をあげた。
「まぁ、待て今開ける」
やっと応えた家人の声、訪れた女の声に安堵が含まれる。
「おや、いらっしゃったんですね。良かった。てっきりお留守かと、帰ろうと思ったところなんですよ」
其の言葉に男も話しかけながら、訪れたものを確かめる為に木戸を開ける。
「すまんな、ちょっと立て込んでおったのだ……」
目の前に立つ声の主は聞こえた口調も不似合いな、若い娘であった。
何処にでもいるような町屋の娘。しかし其の顔を視て男は「あ」っと小さく声を出した。
「何、か」
あんぐりと口を開けて自分を視る胡散臭げな風体の其の若い男の様子に、今度は来訪者である娘が不審げな声音を出す。
「いや。ところで、何か御用かな。言っておくが、押し売りは間に合っているぞ」
「大の男にあたしが何を押し売りするって言うんです。いやさね、ちょいと、お尋ねしたい事があって」
「尋ねたい事。生憎、俺は家人ではない。だが、まぁひとますは、聞いてやらんこともない」
「こいつは随分高いところからおっしゃる事で」
「む」
「ふふん」
「用件を早く言え。俺も帰るところだ」
「――まぁ、いいさ。此処にねスエっていう女の子が居ると思うんだけど」
「ほう、で」
「ちょっとぉ、あんた。さっき家人じゃないって言ってたけど」
「なんだ」
「胡散臭いねぇ。泥棒かい」
「あっはっは。似たようなものかな」
「なんだってぇ」
「冗談だ、本気にする奴があるか。俺はこの家の――」
からころと音を立て、回る運命の糸車。
紡がれてゆく糸の先に待ち受けているものがいったいなんであるのか。
それを知る者は居ない。




