二人の母
花は、美しく咲き実を結び散るという。
艶やかに咲くも花。
野に咲き
明日への命を紡ぎ実を生すも花。
人の世に幾万の花あれど
君 手折る事 なかれ
咲き誇り 散る間もなく
実を生す間もなく手折られて
花は
一時の夢に変わる
泡沫の
夢へと変わる
ああ いと哀れなる
路傍の花よ
夢は消え
塵となりゆく
願わくば 塵となりし行く末に
蜻蛉の如く消えゆく夢を糧として
生まれし花のまほろばとなれ――
小さな長屋のささやかな庭で、日に向かい真っ直ぐに伸びた花が綻ぶ桃の枝先。
春の訪れを喜ぶ鶯が夢現の中、鈴のようにころころと笑う幼い娘と母であろう涼やかな声を耳にする。
「わぁ可愛いねぇ」
「そうねぇ」
「笑ったよ」
「笑ったね」
「雪音のこと、わかったのかな」
「わかったのかな」
「早く、早くおおきくなぁれ。おおきくなって、一緒に遊ぼうね」
前髪を綺麗に切り揃えた四つ、五つになろうかと云う小さな娘。
降り積もったばかりの無垢な初雪のように白く柔らかそうな肌。
くるくるとよく動く利発そうな大きな黒い瞳が印象に残る。
小さい唇は南天の実のようにちんまりと白い顔に華を彩る。
良く出来た雪兎のようなこの娘の名は羽状雪音。
そして穏やかに微笑みながら透き通った絹糸のような声で語りかけている女は雪音の母、羽状さよりである。
この美しい母と娘が共に覗き込んでいるのはまだ生まれて間もない小さな赤子。
それを抱く若い母親、タミは目を細め雪音を眩しそうに見詰めている。
初めての出産と云う大役を終えながら、まるでもうずっと以前から母と云う存在であったかと錯覚する慈愛に満ちた眼差し。
タミは羽状の家に小間使いとして働くうちに其の優しく正直な気立てに、いつしか家族の一員のように大切な存在となった。
恋をし、身篭って暇をもらった身でありながらも初めての子の祝いにこうして、さより親子が訪ねて来るほどに。
時代の移り変わりの波を受けて、世の中の様々な事柄が趣を変えてゆく中で、町のはずれの小さな家にその赤子は生まれた。
縁側の暖かい陽だまりの中で、桃の花の花びらがひらひらと舞って、白く柔らかな乳房に小さな手を当てて乳を飲む赤ん坊の額に落ちる。
「わぁ、見て、お花が」
「雪音。もう少し静かにしておあげなさい。ほら、赤ちゃんがウトウトと眠たそうにしていますよ」
さよりがはしゃぐ雪音をたしなめる。
「大丈夫ですよ、雪さん。ほらもう眠ってしまった。きっと雪さんの声が心地よかったんでしょうねぇ」
「おかあさま、私、兄様の所に行ってご本を借りたいの。行ってもいいかしら」
タミの長屋は羽状の家の直ぐ近くにあり、雪音の足でもそれほどの距離ではなかった。
雪音にはたった一人、少し年の離れた兄志郎が居た。
雪音同様、良くタミに懐いていた彼であったが今日のこの日、母や妹がどんなに誘おうとも不思議と共に出かけることは無かった。
剣術よりも書物を紐解くことを好むこの少年は、きっと今も部屋に篭って本を読んでいるだろう。
「お兄様の邪魔をしないと約束できますか」
母の言葉に雪音の白い餅の様な頬がふくらむ。
「おかあさまったら、雪は一度もお兄様のお邪魔をしたことなんてないもの」
愛らしい仕草に思わず二人の母は笑い声を漏らす。一層膨らんだ頬を両の掌で優しく包むさより。
ひんやりとした細い指に包まれて雪音の顔中が幸せに満たされて見えた。
「それでは、今日もそうなさい。行っても良いですよ」
「はぁい、赤ちゃん、またね、また遊ぼうね」
赤子に約束して走って行く雪音の後姿にしみじみとタミが呟いた。
「お健やかなことで」
さよりもまた、愛娘の後姿を見送りながら呟く。
「あなたが乳母で来ていた頃が、懐かしいわ」
ゆったりとした時間に、二人の母の想いが様々にお互いの胸に揺れる。
タミは傍らに座るさよりの横顔を見詰める。また、少し細くなったであろうか。
変わろうとしているこの時代であっても、まだまだ身分の違いに拘る者は多い。
優しく暖かい羽状の家での奉公は、タミにとって大切な思い出である。
そう、大切なもう一つの家族。
身体の弱いこの女主人の美しい横顔に、不意にタミは不安を覚える。
「あの」
「なぁに」
「あの、よろしかったら、うちの母の畑で取れた野菜が余ってしまって」
「いつも、ありがとう。でも、いけませんよ。あなたはたくさん食べて、たくさんお乳を出してあげなきゃ」
何処までも優しい言葉に、タミは若い母親らしい健康な笑みで応える。
「心配要りません。たんと食べておりますから」
さよりも、タミを大切に考えていた。両親が共に故人となってしまった彼女には、この思いやり深いタミを妹のように思えたのである。
「ほんとにあまってしまって、助けてくださいな」
押し寄せる変革の波に、正直で不器用な夫。気の優しい夫はその波に揉まれる事はあっても立ち向かいあぐねている。
だんだんとつましくなって来た羽状家の台所は、さよりの采配と内助の功でなんとか回っているのである。
心配を掛けたくは無いと云う気持ちと、本の少しだけの誇り。
さよりは華奢な肩で溜息をつくと、微笑を絶やさぬように気遣いながら礼を云った。
「ありがとう」
「何をおっしゃるんです。しがない乳母の私に読み書きまで教えてくださって、感謝しているのはこちらですよ。見てください、恥ずかしいくらいに下手糞だけれど、この子の名前、私が書いたんです。うちの人もすっごく喜んでくれて、母なんて、泣いてしまったんですよ」
「桃ちゃん。良い名前だわ。それにあなたの文字も、温かくてとっても良い文字」
「うっふふ。そんな風にほめてくださるから、手習いがとっても楽しゅうございました」
「桃は、私も好きな花です。可憐で、春を告げてくれる。とても良い甘い香り。きっと桃の花のように素敵な女の子になるわ」
「それだけじゃないんです。桃は綺麗なだけじゃない。梅よりも、大きく実を結んで、中にたった一つの種を宿す。この娘には、そんな風に自然の中でたくさんの恩恵を人に渡せられる、人間になってほしくて」
「そうね、これからは女性も綺麗なだけじゃだめ。変わっていく世間の波にのまれない、強い女性になっていかなくてはね」
春の陽をあびて、薄桃色の花びらの舞う中で空を見上げる。
赤子の口から乳を離しそっとしまうと若い母親もまた、空を見上げる。
生まれも育ちも違う。だが其処にはしっかりと何かの絆が二人の女性を繋げている。
舞い落ちる桃の花は、二人の母と幼子、そして生まれたばかりの小さな命を護るように風に葉を揺らした。