これが戦闘鬼武狼だ!〈その2〉
戦闘鬼の弱点
基本的にあまり弱点は無い。ヨモギの葉は苦手だとか、豆をぶつけられると弱いなどということは無い。
初期の頃は、
「日本の鬼を研究したのだ!」
などといって使い魔たちに豆をぶつけさせるという作戦を実行した悪魔が居た(放火魔鳩ハルパス)が、当然通用するはずは無い。
「鬼は外、悪魔は内」
などとはしゃぎ立てながら豆を投じる敵に対し、武狼も効いた振りをして相手を欺き騙まし討ちにしたことがある。
ここまで来ると、機転が効くというよりヒーロー特撮でよくある受け狙いのエピソードと言えよう。
そのような間抜けな話ではなく、本当に窮地に陥る恐るべき弱点がある。
鬼刃である。
鬼刃とは、のこぎりの23枚目の刃で、鬼をひき殺すという恐るべき代物なのだ。昔の日本では、材木の伐採において22枚の刃を備えたのこぎりを使ったのだがまれに打ち間違えて23枚の刃を持ったのこぎりができることがある。それが鬼刃と呼ばれる鋸刃なのだ。
現在では林業資料館くらいにしか残されていない23枚刃ののこぎりを探し出し、武狼に挑戦してきた魔将軍サルタガナスに大苦戦し、危うく勝利を収めた事もある。
その他、鬼を自らに受け入れているために時に異常に荒々しくなったりする事もあり、抜け目の無い悪魔たちはそういう仁の心の負担を衝いて心理的な攻撃を仕掛ける事も少なくない。
鬼と悪魔の違い
鬼と悪魔--ともに人々から恐れられる存在ではあるが、色々と違いが有る。
最大の相違点は、鬼が執着するのに対して、悪魔は惑わす精霊であるということだ。
俗に『○○の鬼』などというと、その道の第一人者であると同時に仕事のためなら家族も省みぬ非情な人物を連想する。鬼とは何かに対して身を入れすぎて周囲に対する思いやりとかゆとりを無くしたような人を指すことが多い。
また、復讐鬼とか鬼気迫るといったように、憑かれた様な状態を表現するのに”鬼”という言葉は使われる。
このように、鬼とは一種の執着心を表す心理状態を比喩する事が一般的である。
鬼のような、といわれる人は過酷だとか非情という意味合いが語感に強いが、対するに、悪魔のような、という場合、狡猾であるとか残忍だとかいうニュアンスが多分に含まれる。
他にも『魔がさす』というような言葉もあるように、何か人間の迷いとか油断を見透かすような響きを感じさせる表現である。
釈迦が悟りを開くため苦行を経て更に高度な瞑想に臨んだ時、最後の妨害者として立ちはだかったのが、マーラ・パーピマーと呼ばれる魔王である。漢字では魔羅、と表記され、現在では卑猥な意味合いに用いられることも多いが、聖者ゴーダマ・シッダールタの修行の最後に登場した魔王だけに世界の全てを支配する絶対の存在だという。彼は様々な幻覚を見せ、時に脅し、時に誘惑するなどして手を代え品を代え仏陀に迫ったが、釈迦の心は揺らぐ事無く涅槃に到達したという。
また、禅において瞑想中に幻覚を見たり精神が不安定になって座禅を続けられなくなる状態を”魔境”という。魔境には、世界の全てが自分を拒み、何もかもがうまくいかないような気になる逆魔と、異常に精神状態が高揚し、自分は既に悟りを開いたとか迷いは無くなったなどと一人合点して唯我独尊状態に陥る順魔がある。
イエス・キリストも修行の最中は数知れぬ悪魔に誘惑や脅迫を受け、心を試されたという。
要するに鬼は物事に執着する状態、悪魔は心の迷い、と言って大雑把には間違い無いであろう。