貴方のいない四度目の春
ヴァイスベルク王国の春は、アルヴェイン王国よりも少しだけ早く訪れる。王都から南へ馬車で半日ほどの場所にあるヴァイスベルク侯爵家の別邸では、四月に入ると庭園の花々が次々と開き始め、冬のあいだ寂しかった花壇にも鮮やかな色彩が戻っていた。白い石壁を覆う蔦には柔らかな新芽が伸び、噴水の周囲には黄色い水仙や淡い紫色の菫が咲いている。庭園の奥に広がる林からは小鳥の鳴き声が聞こえ、暖かな風が吹くたびに、若葉の間から木漏れ日が地面へ降り注いでいた。
エリシア・フォン・アルヴェインは、庭園の一角に設けられた花壇の前で足を止め、咲き始めたばかりの鈴蘭を眺めていた。淡い金色の髪を背中へ流し、薄青色のドレスを身につけた彼女は、今年十六歳になったばかりの伯爵令嬢である。隣国アルヴェイン王国の貴族として生まれ育った彼女が、この別邸を訪れるのは今回で五度目だった。最初に訪れた頃は広い庭園を歩くだけで精一杯だったが、今ではどの小道がどこへ続いているのか、どの花壇に何が植えられているのかも、ある程度分かるようになっていた。
鈴蘭の花壇は、庭園の南東にある小さな東屋の近くに設けられている。周囲には背の低い生垣が巡らされ、午後になると隣の木々がほどよい日陰を作ってくれるため、春から初夏にかけて過ごしやすい場所だった。エリシアはドレスの裾を片手で押さえながら腰を落とし、白い釣鐘のような花を間近で眺めた。小さな花が幾つも連なった姿は可憐で、葉の間から顔を覗かせる様子も愛らしい。アルヴェインの実家にも鈴蘭は植えられていたが、こちらの庭園では毎年少し早く花が咲くため、春の訪れを実感する楽しみの一つになっていた。
「そんなに気に入ったのなら、来年はもっと植えさせようか」
背後から聞こえた声に、エリシアは顔を上げて振り返った。小道の向こうから歩いてきたのは、彼女の婚約者であるレオナルト・ヴァイスベルクだった。ヴァイスベルク王国の侯爵家嫡男で、今年二十歳になる彼は、王国騎士団に所属する青年である。濃紺の髪と灰銀色の瞳を持ち、長身の身体には日頃の鍛錬によって培われた逞しさがあった。今日は休暇を利用して別邸を訪れており、普段の騎士服ではなく、落ち着いた紺色の上着を身につけている。彼はエリシアの前まで来ると、手にしていた小さな木箱を花壇の脇へ置き、彼女が立ち上がるのを待ってくれた。
「これ以上増やしたら、お庭が鈴蘭ばかりになってしまいますわ。私は薔薇も好きですし、春には勿忘草も咲いてほしいのです。秋になったら菊の花も見たいですし、植えたいものを挙げていたら、きっと花壇が足りなくなってしまいます」
「それなら庭師に相談して、少しずつ場所を増やしていこう。庭は広いから、君が育てたい花を植える余地くらいあるはずだ。もっとも、庭園全体を作り替えるとなれば、母上にも相談しなければならないけれど」
「侯爵夫人にご迷惑をおかけするわけにはまいりませんもの。今ある花壇を大切にしながら、少しずつ増やしていけたら嬉しいです」
「母上も花が好きだから、きっと喜ぶよ。エリシアさんと庭の話をするのを、いつも楽しみにしているからね」
レオナルトは木箱の蓋を開け、中に入っていた鈴蘭の苗を見せてくれた。根元には湿った土がついており、移植するまで乾燥しないよう、柔らかな布で包まれている。以前、エリシアが庭師と話していた際、鈴蘭の株を増やす方法について尋ねたことを覚えていたらしい。彼はその日のうちに庭師へ相談し、二人で苗を植えられるよう準備を進めてくれていた。
花壇の脇には小さな園芸用の道具が並べられ、作業用の手袋も二組用意されていた。エリシアは嬉しそうに手袋を受け取り、レオナルトと並んで花壇の前に腰を下ろした。貴族の令嬢が自ら土に触れる機会は多くなかったが、彼女は幼い頃から植物を育てることが好きだった。実家でも小さな花壇を任されており、庭師に教わりながら種を蒔いたり、枯れた葉を取り除いたりしている。母親からはドレスを汚さないよう何度も注意されていたが、花を育てる楽しさを知ってからは、庭仕事をやめる気にはなれなかった。
「レオナルトさんは、お花を植えたことがありますか?以前、お母様のお手伝いをなさったことがあると伺った気がするのですが」
「子どもの頃に何度かね。母上が花壇を作り直すときに手伝ったんだけれど、俺は土を掘るばかりで、苗にはほとんど触らせてもらえなかったよ。どうやら、扱いが乱暴だったらしい」
「では、今日は私がお教えしますね。根を傷つけないように苗を置いて、周りから少しずつ土をかけるのです。最後に軽く押さえれば、倒れにくくなりますわ」
「分かった。今日はエリシアさんの言うとおりにするよ。せっかく植えるのだから、来年も元気に咲いてほしいからね」
エリシアは最初の苗を手に取り、あらかじめ掘っておいた穴へ丁寧に収めた。根が窮屈にならないよう位置を整え、周囲から柔らかな土を寄せていく。レオナルトも隣で同じ作業を始めたが、大きな手で小さな苗を扱うことに慣れていないらしく、土をかける際に何度か葉へ触れてしまっていた。エリシアが手本を見せると、彼は真剣な表情でその動きを確かめ、今度は慎重に土を寄せていく。騎士団では剣の扱いに優れていると聞いていたが、小さな花の苗を前に苦戦している姿は少し意外で、エリシアは思わず微笑んでしまった。
春の陽射しが二人の肩に降り注ぎ、近くの木々では小鳥が鳴いていた。庭園の向こう側では使用人たちが午後のお茶の準備を進めており、開け放たれた窓からは食器を並べる音がかすかに聞こえてくる。レオナルトは作業の途中で何度か彼女の手元を確かめ、土が足りなくなれば木箱から補充してくれた。エリシアも彼が植えた苗の傾きを直しながら、二人で少しずつ花壇を整えていった。こうして同じ仕事をしていると、結婚後の暮らしが以前よりも身近に感じられ、自然と頬が緩んでしまう。
あと三か月で、二人は夫婦になる予定だった。婚礼の日取りはすでに決まっており、両家では準備が着々と進められている。エリシアの母親は仕立て屋と相談しながら婚礼衣装の意匠を選び、ヴァイスベルク侯爵夫人は新婚夫婦が暮らす屋敷の調度品を整えていた。エリシア自身も、嫁入り道具の確認や新しい使用人との顔合わせなど、慣れない仕事に追われている。婚約が決まったのは昨年の春だったが、幼い頃から親しくしていた二人にとって、結婚の話は自然な流れだった。
初めてレオナルトと出会ったのは、四年前の夏である。当時十二歳だったエリシアは、父親に連れられて両国の親善行事に参加していた。国境近くの離宮で開かれた晩餐会には、アルヴェイン王国とヴァイスベルク王国の貴族たちが大勢招かれており、幼い彼女にとっては初めて経験する大規模な外交行事だった。慣れない挨拶や礼儀作法に緊張し、ようやく休憩の時間をもらった彼女は、侍女に断って庭園へ出たものの、戻る途中で道に迷ってしまったのである。
広い敷地のどこを歩いても似たような景色が続き、ようやく見つけた東屋で途方に暮れていたところへ、十六歳のレオナルトが通りかかった。彼は泣きそうになっていたエリシアを笑うこともなく、晩餐会場まで送り届けてくれた。途中で彼女が靴擦れを起こしていることに気づくと、歩く速さを合わせ、何度も休憩を挟んでくれたことを覚えている。彼の上着の袖を遠慮がちにつかみながら歩いた小道や、会場へ戻ったときに見せてくれた穏やかな笑顔は、四年が経った今でも鮮明に思い出すことができた。
その翌日にも二人は顔を合わせ、さらに翌年の親善行事でも再会した。互いの家族を通じて手紙を交わすようになってからは、エリシアにとって彼からの便りが何よりの楽しみになった。騎士団への入団を目指して訓練に励んでいることや、休日に訪れた町の様子、家族と過ごした時間について、レオナルトは丁寧な文字で知らせてくれた。エリシアも王都での出来事や庭園の花々について書き送り、ときには押し花を添えた。十五歳になった春、正式な婚約の申し込みを受けたときには、嬉しさのあまり一晩中眠れず、翌朝には母親から顔色を心配されたほどだった。
「エリシアさん、手が止まっているよ。何か考え事でもしていたのかな?」
レオナルトに声をかけられ、エリシアは顔を上げた。いつの間にか苗を植える作業はほとんど終わっており、彼は手袋についた土を払いながら、少し不思議そうにこちらを見ている。エリシアは自分が最後の苗を手にしたまま動きを止めていたことに気づき、慌てて残りの土を寄せた。
「ごめんなさい。初めてお会いした日のことを思い出していました。あのときは、本当にお世話になりましたね」
「ああ、離宮の庭園で迷っていたときのことだね。君は随分と困った顔をしていたから、今でもよく覚えているよ」
「だって、どちらへ進んでも同じような道ばかりだったのですもの。レオナルトさんがいらっしゃらなかったら、きっと泣いてしまっていましたわ」
「それなら、あの日に君を見つけられてよかった。あのとき声をかけなければ、こうして一緒に花を植えることもなかったかもしれないからね」
何気なく返された言葉に、エリシアの頬が熱くなった。レオナルトは昔から、自分の気持ちを言葉にすることをためらわない人だった。婚約が決まってからは特に、会うたびに彼女の服装を褒めたり、一緒に過ごせることを喜んだりしてくれる。エリシアも彼を心から慕っていたが、こうして真っ直ぐに愛情を伝えられると、何年経っても照れてしまう。彼女が花壇へ視線を戻すと、レオナルトは楽しそうに微笑み、最後の苗を植える作業を手伝ってくれた。
作業を終えた二人は、庭師に道具を預けて屋敷へ戻ることにした。レオナルトはエリシアの手を取り、庭園の小道をゆっくりと歩いた。途中で彼女の髪に小さな花弁がついていることに気づくと、そっと取り除いてくれる。その仕草があまりにも自然で、エリシアは彼と夫婦になる日がますます待ち遠しくなった。結婚すれば、朝食をともにし、同じ屋敷で一日を過ごし、夜にはその日にあった出来事を話せるようになる。これまでは手紙でしか伝えられなかった些細な話も、隣に座って聞いてもらえるのだと思うと、胸が温かくなった。
「結婚したら、毎日こうしてお庭を歩けるのですね。朝でも夕方でも、一緒に季節の花を眺められたら嬉しいです」
「ああ。騎士団の仕事がある日は帰りが遅くなるかもしれないけれど、できる限り君との時間を作りたいと思っている。休日には少し遠くまで出かけてもいいね」
「それなら、近くの町にも行ってみたいです。以前、お手紙に書いてくださった焼き菓子のお店を覚えていらっしゃいますか?あのお店には、いつかご一緒したいと思っていたのです」
「もちろん覚えているよ。店主にも君を連れていくと話してあるから、結婚したら早速行こう。あそこの蜂蜜菓子は、君もきっと気に入ると思う」
エリシアは嬉しそうに頷き、彼の手を少し強く握った。レオナルトが騎士としての務めを大切にしていることは、以前からよく知っている。だからこそ、結婚後も仕事を疎かにしてほしいとは思わなかった。疲れて帰ってきた彼を温かく迎え、一緒に食事をして、その日にあった出来事を話す。休日には庭園を散歩したり、近くの町へ出かけたりする。華やかな舞踏会や豪華な贈り物よりも、そんな穏やかな暮らしに憧れていた。
屋敷の玄関が見えてきたところで、レオナルトが足を止めた。彼はエリシアの方へ向き直ると、握っていた手を両手で包み込み、真剣な表情で彼女を見つめた。いつも穏やかな彼が改まった様子を見せたため、エリシアも自然と背筋を伸ばし、彼の言葉を待った。
「エリシアさん。結婚したら、必ず幸せにするよ。慣れない国での暮らしに戸惑うこともあるだろうけれど、困ったことがあれば何でも話してほしい。君が安心して暮らせるように、俺もできる限りのことをするつもりだから」
「ありがとうございます。でも、私ばかり幸せにしていただくわけにはまいりませんわ。私もレオナルトさんを幸せにしたいですし、困ったことがあれば支えて差し上げたいのです」
「それなら、二人で幸せになろう。これから先、どんなことがあっても、互いに相談しながら乗り越えていけたら嬉しい」
エリシアは微笑み、彼の言葉に頷いた。来年の春にも同じ庭園を歩けると信じていたし、二人で植えた鈴蘭が花を咲かせる頃には、彼の妻としてこの屋敷に暮らしているはずだった。婚礼衣装を身につけて彼の隣に立つ日を思い浮かべながら、エリシアは屋敷へ続く階段を上った。玄関では使用人たちが午後のお茶を用意して待っており、二人は庭仕事で汚れた手を洗ってから、日当たりのよい居間へ向かった。
その日の夕方、エリシアは帰国するための馬車に乗り込んだ。レオナルトは玄関先まで見送りに来てくれ、次に会う日程について話しながら、彼女が座席に落ち着くのを待っていた。次の訪問では婚礼衣装の最終確認を行う予定で、侯爵夫人も同席することになっている。エリシアは母親から預かっていた招待客の名簿について伝え、レオナルトも準備に必要な書類を確認しておくと約束した。
馬車が動き始めると、エリシアは窓から身を乗り出さないよう気をつけながら、玄関先に立つ彼へ手を振った。レオナルトも笑顔で手を振り返し、馬車が門を通り過ぎるまで見送ってくれた。彼の姿が見えなくなると、エリシアは座席に背中を預け、膝の上に置いた小さな包みを開いた。中には庭師から分けてもらった鈴蘭の押し花が入っており、今日の記念に持ち帰るつもりだった。次に会うときには、これを使って栞を作り、レオナルトへ贈ろうと考えていた。
アルヴェイン王国の伯爵家へ帰り着いたのは、翌日の午後だった。屋敷では母親が出迎えてくれ、エリシアは旅の疲れも忘れて、別邸で過ごした時間について話した。二人で鈴蘭を植えたことや、結婚後に訪れる約束をした菓子店のことを伝えると、母親も嬉しそうに耳を傾けてくれた。婚礼まで残された時間は短かったが、エリシアにとっては待ち遠しくて仕方がない三か月だった。
それから二週間ほど経った頃、アルヴェイン王国とヴァイスベルク王国の国境地帯で、両国の警備兵による武力衝突が発生した。北部の鉱山地帯を巡る領有権問題は長年にわたって外交交渉が続けられており、近年は両国の友好関係が改善したこともあって、解決に向かうと期待されていた。ところが、現地では境界線の解釈を巡る対立が続いており、双方の警備隊が互いの巡回経路に抗議することも珍しくなかった。今回の衝突では双方に死傷者が出たため、王都の宮廷でも大きな問題として扱われるようになった。
エリシアが最初にその知らせを聞いたのは、朝食の席だった。父親が新聞を読みながら難しい顔をしており、母親も国境の情勢について心配そうに尋ねていた。エリシアは婚礼の準備に影響が出るのではないかと不安になったが、父親は外交交渉が続いていることを説明し、今のところ予定を変更する必要はないと話してくれた。その言葉を聞いて少し安心したものの、レオナルトが王国騎士団に所属していることを思い出すと、胸の奥に落ち着かない気持ちが残った。
数日後には双方の軍が国境へ増援を送り込み、事態は急速に悪化していった。商人たちは通行許可の発給が遅れていると訴え、国境を越える街道には新しい検問所が設けられた。アルヴェイン王国の宮廷では報復を求める声が強まり、ヴァイスベルク王国でも軍の動員が始まったという知らせが届いた。エリシアは毎朝新聞を読むようになり、レオナルトからの手紙が届くたびに、彼が無事でいることを確かめていた。
やがて、国境で新たな戦闘が起きたとの報告が王都へ届いた。前回よりも大規模な衝突だったらしく、双方の部隊に多数の犠牲者が出たという。宮廷では緊急の会議が開かれ、外交官たちは最後の交渉を試みていたが、新聞に掲載される両国の声明は日に日に厳しいものになっていった。街中でも戦争の可能性について話す人が増え、これまで隣国との交易を続けてきた商人たちは、商品の仕入れ先を変更する準備を始めていた。
エリシアが事態の深刻さを知ったのは、父親から執務室へ呼び出された日のことだった。伯爵家の執務室には普段よりも多くの書類が積み重ねられており、机の上には王宮から届けられた封書が置かれていた。父親は椅子に座ったまま難しい顔をしており、母親も隣で沈んだ表情を浮かべている。エリシアが入室すると、二人は顔を見合わせ、父親が彼女に椅子へ座るよう促した。
「エリシア。ヴァイスベルク王国との国境で、大きな戦闘があったことは知っているね。外交交渉が続いていたことも、新聞で読んでいると思う」
「はい。ですが、まだ交渉の余地はあると伺っていました。お父様、何か新しい知らせが届いたのですか?」
「その交渉が、昨夜決裂した。国王陛下は今朝、ヴァイスベルク王国に対する宣戦を布告された。王宮から正式な通達が届いている」
エリシアは父親の言葉を聞き、膝の上で重ねていた手を強く握った。宣戦布告という言葉の意味を知らないわけではない。王国の歴史を学ぶなかで幾度となく目にしてきたし、過去の戦争が人々の暮らしにどれほど大きな影響を与えたのかも教わっている。それでも、まさか自分たちの暮らす時代に、隣国との戦争が始まるなど考えたこともなかった。しかも、その隣国には、三か月後に結婚するはずだったレオナルトがいる。
「……レオナルトさんは、どうなるのですか?あの方は王国騎士団に所属していらっしゃいます。もし戦争が始まったのなら、前線へ行かなければならないのでしょうか?」
父親はすぐには答えず、机の上に置かれた封書へ視線を落とした。エリシアも、彼が答えにくい質問をしていることは分かっていた。レオナルトはヴァイスベルク王国の騎士であり、祖国が戦争を始めれば軍人として戦わなければならない。その相手がエリシアの祖国であっても、彼自身が戦争を望んでいなくても、命令に従う立場にあることは変わらなかった。
「エリシア。レオナルト殿がどの部隊に配属されるのか、こちらでは分からない。ただ、騎士団に所属している以上、軍務から離れることは難しいだろう。それから、もう一つ、お前に話さなければならないことがある」
父親は母親の方を見た。母親は椅子から立ち上がり、エリシアの隣へ移動すると、娘の肩にそっと手を置いた。いつもなら落ち着いて話してくれる母親も、今日は言葉を選ぶのに苦労している様子だった。エリシアはその表情を見て、これから告げられる話が婚礼に関係しているのではないかと考えた。
「エリシア。両国が戦争状態になった以上、あなたとレオナルトさんの婚約を、このまま維持することはできないの。両家でも協議を重ねたのだけれど、婚約を正式に解消する必要があるという結論になったわ」
「……どうしてですか?私たちは、何も悪いことをしていません。レオナルトさんだって、戦争を始めたわけではないのに」
「分かっているわ。あなたたちが互いを大切に思っていることも、私たちはよく知っているのよ。けれど、今の状況で敵国の貴族との婚姻を進めることは、両家にとって危険なの」
エリシアは母親の説明を聞きながら、何か方法がないかと必死に考えた。結婚式を延期することなら受け入れられる。戦争が終わるまで婚礼衣装をしまっておくことも、隣国へ嫁ぐ日が何年も先になることも、レオナルトと結婚できるのなら我慢できると思った。けれど、父親は婚約そのものを解消しなければならないと言っている。敵国の侯爵家と婚姻関係を結ぶ約束が残っていれば、両家とも内通を疑われる可能性があり、王宮からも婚約の解消を求められているという。
「婚約を延期するだけではいけないのですか?戦争が終わるまで待つことも許されないのでしょうか。結婚式を取りやめるだけなら、私も我慢できます。ですから、どうか婚約だけは……」
「すまない、エリシア。お前たちの婚約は、正式に解消しなければならない。私もヴァイスベルク侯爵とは長い付き合いだし、あの青年のことも気に入っている。できることなら約束を守ってやりたかったが、今の状況では難しいんだ」
エリシアは俯き、膝の上で両手を握りしめた。左手の薬指には、婚約が決まった日にレオナルトから贈られた指輪が嵌められている。小さな青い宝石をあしらった銀の指輪で、彼が自ら宝石商を訪れ、彼女に似合うものを選んでくれたと聞いていた。婚約した日から大切に身につけてきたその指輪を、もう外さなければならないのだろうか。そう考えた途端、胸の奥が苦しくなり、顔を上げることができなくなった。
母親はエリシアの隣に腰を下ろし、娘の背中を優しく撫でた。父親も机を離れ、彼女の前に膝をついて目線を合わせてくれた。二人とも娘の幸せを願って婚約を認め、婚礼の準備を進めてきたのだから、今の状況を喜んでいるはずがない。エリシアもそれは理解していたが、レオナルトと結婚できなくなる悲しみを受け入れることはできなかった。
その夜、エリシアは自室でレオナルトから届いた手紙を読み返した。数日前に受け取ったばかりの手紙には、騎士団の訓練が忙しいことや、次に会う日を楽しみにしていることが書かれている。最後には、結婚式まであと三か月になったと、少し浮かれた様子の文章が添えられていた。彼の文字を目で追ううちに涙が溢れ、便箋に落ちないよう慌てて顔を背けた。何度も読み返してきた大切な手紙を汚したくなくて、エリシアは布で涙を拭いながら、ゆっくりと便箋を折り畳んだ。
翌日の午後、レオナルトから帰国を知らせる手紙が届いた。祖国から召還命令が下り、三日後には国境を越えなければならないという。さらに、両家の合意のもとで婚約解消の手続きを進めることになったとも記されていた。手紙の最後には、出発する前にどうしてもエリシアに会いたいと書かれており、彼もまた、この別れを簡単には受け入れられずにいることが伝わってきた。
エリシアは返事を書くために机へ向かったが、何を書けばよいのか分からず、しばらく白い便箋を見つめていた。会いたいという気持ちは、彼と同じだった。顔を見れば泣いてしまうかもしれないし、別れの時間が近づけば、帰らないでほしいと頼んでしまうかもしれない。それでも、何も言わないまま彼を祖国へ帰すことなどできなかった。エリシアはようやく筆を取り、短い返事を丁寧に書き始めた。
『レオナルトさん。お手紙を拝読いたしました。突然のことで、まだ気持ちの整理がついておりませんが、私もお会いしたいと思っております。お帰りになる前に、どうか一度、私に会いにいらしてください。 エリシアより』
返事を届けるよう侍女に頼んだあと、エリシアは衣装部屋へ向かった。婚礼のために用意していたドレスや装飾品が並ぶ部屋には、仕立て屋から届いたばかりの布地見本も置かれている。母親と相談しながら選んだ婚礼衣装は、まだ完成していなかった。エリシアはそれらを見つめ、次にレオナルトと会うときには、婚約が決まった日に彼から贈られた水色のドレスを着ようと決めた。
レオナルトがアルヴェイン伯爵家を訪れたのは、帰国前日の午後だった。応接室には両家の代理人が立ち会い、婚約解消の書類が用意されていた。窓の外では春の陽射しが庭園を照らし、木々の間を小鳥が飛び交っている。数日前まで婚礼の準備について話し合っていた部屋で、今度はその婚礼を取りやめるための手続きが行われようとしていた。
エリシアが応接室へ入ると、先に到着していたレオナルトが立ち上がった。彼は濃紺の騎士服を身につけており、腰には正式な儀礼用の剣を佩いている。いつもなら彼の姿を見るだけで嬉しくなるのに、今日は顔を合わせた途端に涙が出そうになった。レオナルトも彼女の姿を見て表情を曇らせたが、周囲に代理人たちがいることを意識したのか、落ち着いた様子で挨拶をしてくれた。
「エリシアさん。今日は来てくれてありがとう。そのドレス、とてもよく似合っているよ」
「ありがとうございます。レオナルトさんからいただいたものですから、今日も着てきました。お気に入りのドレスなのです」
エリシアは微笑もうとしたが、思うように表情を作ることができなかった。彼に褒められるたびに嬉しくて仕方がなかった日々を思い出し、今日が最後になるかもしれないと考えると、胸の奥が苦しくなった。レオナルトも何か言いたそうにしていたが、代理人が手続きの開始を告げたため、二人はそれぞれ用意された席へ着いた。
婚約解消の手続きは、驚くほど簡単に終わった。代理人が書類を読み上げ、両家の当主が署名し、最後にエリシアとレオナルトがそれぞれ名前を書いた。婚約の成立には何か月もの準備が必要だったというのに、それを終わらせるために費やされた時間は、わずか半刻にも満たなかった。エリシアは署名を終えた書類が代理人の手によって片づけられる様子を見つめながら、自分たちの婚約が本当に終わってしまったのだと、少しずつ実感していた。
手続きが終わると、レオナルトはエリシアの父親に頼み、二人きりで話す時間をもらった。父親は娘の様子を心配していたが、最後の別れを妨げるつもりはなかったらしく、庭園を散策することを許してくれた。エリシアはレオナルトに手を差し出され、いつものようにその手を取った。婚約者ではなくなったというのに、彼の手の温もりも、歩く速さを合わせてくれる優しさも、以前と何も変わっていなかった。
二人は庭園の小道を並んで歩き、噴水の近くを通り過ぎた。庭師が丹精込めて育てた薔薇の蕾が膨らみ始め、花壇には色とりどりの春の花が咲いている。エリシアが幼い頃から親しんできた庭園は、いつもと変わらない美しさを保っていた。レオナルトと初めてこの庭を歩いた日のことや、婚約が決まったあとに二人で過ごした時間を思い出すと、懐かしさと悲しみが入り混じった。
「エリシアさん。すまない。君との約束を守れなくなってしまった。結婚式まであと三か月だったのに、こんな形で婚約を終わらせることになるなんて、俺も考えていなかった」
「謝らないでください。レオナルトさんが悪いわけではありませんもの。私だって、どうしてこんなことになってしまったのか、まだよく分からないのです」
「俺は君を幸せにすると約束した。結婚したら一緒に庭を歩こうとも、いろいろな場所へ出かけようとも話したのに、何一つ実現できなくなってしまった」
レオナルトは足を止め、エリシアの方へ向き直った。彼の表情には、これまで見たことのないほど深い苦悩が浮かんでいた。いつも穏やかで、どんなときでも頼もしかった人が、今は言葉を選ぶことさえ難しそうにしている。エリシアは彼の手を握り直し、少しでも気持ちを伝えようとしたが、何から話せばよいのか分からなかった。
「私は、幸せでした。レオナルトさんと出会ってから、たくさんの幸せをいただきましたもの。初めてお会いした日も、婚約が決まった日も、二人で鈴蘭を植えた日も、私にとっては大切な思い出です」
「……過去の話にしないでくれ。俺は、これからも君と一緒にいたかった。君が妻になってくれる日を、ずっと楽しみにしていたんだ」
「私だって、同じ気持ちです。ですが、明日にはお別れしなければなりません。レオナルトさんは祖国へお帰りになって、私はここに残るのですね」
エリシアは彼の顔を見上げながら、涙を堪えようとした。ここで泣いてしまえば、彼を困らせてしまうかもしれない。明日から祖国へ戻り、戦争に参加しなければならない人に、これ以上つらい思いをさせたくなかった。それでも、彼の手を握っていると、もう二度とこの温もりに触れられないのではないかという不安が強くなり、目元に涙が滲んでしまう。
「戦争が終わったら、必ず迎えに来る。何年かかっても、君のところへ帰ってくるから。だから、どうか希望を捨てないでほしい」
「……そんな約束をしてはいけません。戦争がいつ終わるのかも分からないのですから、私のために無理をなさらないでください」
「無理をしているわけじゃない。俺は君を愛している。婚約がなくなったからといって、その気持ちまでなくなるわけじゃないんだ」
「私だって、あなたを愛しています。これから先も、きっとずっと、レオナルトさんのことを忘れられないと思います」
エリシアは言葉を続けようとしたが、涙が溢れてしまい、うまく話すことができなくなった。彼の手を握ったまま俯き、頬を伝う涙を手の甲で拭う。婚約が解消されたことは理解しているし、彼が祖国へ帰らなければならない理由も分かっていた。それでも、これから先、どれほど会いたいと思っても、簡単には会えなくなってしまう。その現実を受け入れるには、彼女はまだあまりにも若かった。
エリシアは涙を拭う。レオナルトは彼女の様子を見つめ、何かを言おうとして唇を開いたものの、すぐには言葉が出てこなかった。やがて彼はエリシアをそっと抱き寄せ、両腕で優しく包み込んだ。エリシアも彼の背中に腕を回し、幼い頃から慣れ親しんだ温もりを確かめるように身体を寄せた。
レオナルトの胸元に顔を埋めると、いつも身につけている革手袋の匂いがした。騎士団の訓練を終えたあとに会った日も、庭園で一緒に過ごした日も、彼からは同じような香りがしていた。エリシアはその懐かしさに胸を締めつけられ、彼の上着を握る手に力を込めた。レオナルトは彼女の背中をゆっくりと撫でながら、泣き止むまで待ってくれた。
「俺は、必ず生きて帰る。君に待っていてほしいと頼む資格がないことは分かっているし、何年も君の人生を縛るような約束をさせたくない。それでも、俺自身は君を忘れられないと思う」
「……私も、忘れられません。レオナルトさんと過ごした時間は、私にとって何よりも大切なものですから」
「エリシアさん。どうか、幸せでいてくれ。俺がそばにいられなくても、君には笑っていてほしいんだ」
エリシアは彼の胸元で首を横に振った。幸せになってほしいと言われても、彼のいない未来など想像できなかった。ほかの誰かと結婚し、別の屋敷で暮らし、いつか彼のことを思い出さなくなる。そんな日が来るとは、どうしても思えなかった。レオナルトが自分の幸せを願ってくれていることは嬉しかったが、今の彼女にとって、彼と一緒にいられること以上の幸せは考えられなかった。
レオナルトは彼女の左手に目を落とし、薬指に嵌められた指輪を見つめた。小さな青い宝石をあしらった銀の指輪は、婚約が決まった日に彼自身が選んでくれたものである。エリシアは婚約を解消した以上、返さなければならないのかもしれないと考え、指輪にそっと触れた。
「その指輪は、君が持っていてくれないか。君のために選んだものだから、返してもらっても俺には使い道がない。もし君が嫌でなければ、これからも大切にしてくれると嬉しい」
「……よろしいのですか?婚約は解消されてしまいましたのに、私が持っていても構わないのでしょうか」
「ああ。婚約がなくなっても、君に贈った気持ちは変わらないよ。俺にとっても大切な思い出だから、君の手元に残しておきたいんだ」
エリシアは指輪を見つめ、ゆっくりと頷いた。正式に婚約が解消された以上、公の場で身につけることは難しいかもしれない。それでも、彼との思い出を手放さずに済むことが嬉しかった。エリシアは指輪の上に右手を重ね、これからも大切にすると約束した。レオナルトは彼女の言葉を聞いて微笑み、額にそっと口づけてくれた。
二人はそのあとも、しばらく庭園で過ごした。話したいことは山ほどあったはずなのに、いざ最後の時間を迎えると、何を話せばよいのか分からなくなってしまう。結婚後に暮らすはずだった屋敷のことも、二人で植えた鈴蘭のことも、口にすれば涙が溢れそうだった。それでも、レオナルトはエリシアが落ち着くまで隣にいてくれ、彼女も少しずつ気持ちを整えながら、彼との残された時間を大切に過ごした。
やがて、屋敷の方から迎えの使用人がやってきた。レオナルトが帰らなければならない時間になったのである。エリシアは最後まで彼の手を離したくなかったが、彼には祖国へ帰る義務がある。侯爵家の嫡男として、騎士として、守らなければならない人々がいることを理解していた。彼を困らせるようなことは言いたくなくて、エリシアは何度も深呼吸をしながら、別れの挨拶をするために顔を上げた。
「どうか、お身体を大切になさってください。お食事もきちんと召し上がって、無理をなさらないでくださいね。私は、レオナルトさんがご無事でいてくださることを、いつもお祈りしております」
「ありがとう、エリシアさん。君も元気でいてくれ。身体を冷やさないように気をつけて、食事もきちんと取るんだよ。君は夢中になると、食事の時間を忘れてしまうことがあるからね」
「……そんなことまで覚えていらっしゃるのですね。これからは気をつけますから、レオナルトさんも約束してくださいね」
レオナルトは頷き、もう一度エリシアを抱きしめた。彼女も彼の背中に腕を回し、最後の温もりを忘れないように、しばらくそのままでいた。やがて彼がゆっくりと身体を離すと、エリシアは名残惜しさを堪えながら手を放した。二人は屋敷の玄関まで並んで歩き、待機していた馬車の前で最後の挨拶を交わした。
レオナルトが馬車に乗り込むと、御者が手綱を取り、ゆっくりと馬車を動かし始めた。エリシアは玄関先で見送り、窓から手を振る彼に向かって、小さく手を振り返した。馬車が角を曲がり、完全に見えなくなるまで、彼女はその場に立ち続けていた。春の風が吹き抜け、ドレスの裾を揺らしていく。エリシアは左手の指輪に触れながら、明日には彼が国境を越え、遠い祖国へ帰ってしまうのだと考えた。
その日の夜、エリシアは自室へ戻ると、婚礼のために用意していた品々を一つずつ片づけ始めた。母親と選んだ髪飾りや、仕立て屋から届いた布地見本、招待客の名簿を入れた箱を机の上に並べ、傷まないよう丁寧に包んでいく。婚礼衣装の完成を楽しみにしていた頃には、こうして準備を取りやめる日が来るなど考えもしなかった。エリシアは作業の途中で何度も手を止め、レオナルトと過ごした時間を思い出していた。
翌朝、レオナルトは国境を越え、祖国へ帰っていった。エリシアのもとには彼が無事に出発したという知らせだけが届けられ、その後の詳しい動向を知ることはできなかった。両国の国境は厳しく管理されるようになり、私的な手紙のやり取りも禁止された。これまで当たり前のように届いていた彼からの便りが途絶え、エリシアは毎朝、郵便を運ぶ使用人の姿を見るたびに、胸の奥が寂しくなるのを感じていた。
戦争が始まってから半年が過ぎた頃には、王都の街並みも少しずつ変わり始めていた。以前は隣国から輸入されていた織物や香辛料が店頭から姿を消し、広場には戦時国債の購入を呼びかける掲示が貼られている。騎士団の募集所には若い男性たちが列を作り、教会では出征した家族の無事を祈る人々の姿が絶えなかった。開戦当初、両国の宮廷では数か月もあれば決着がつくと考えられていたが、国境地帯の険しい山々と複雑な補給路が双方の進軍を妨げ、戦線はほとんど動かなくなっていた。
エリシアは毎朝、新聞を読むようになっていた。食堂に届けられた新聞を受け取り、まず戦況を伝える欄に目を通す。どの地域で戦闘が起きたのか、どの部隊が前線へ送られたのか、どれほどの死傷者が出たのか。恐ろしい記事ばかりだったが、読まずにはいられなかった。レオナルトがどこにいるのか知りたかったし、彼が無事でいるという知らせが、どこかに載っているのではないかと期待していた。
敵国の騎士の動向がアルヴェイン王国の新聞に詳しく掲載されることはなかったが、ヴァイスベルク王国の部隊が大きな戦闘に参加したという記事を見つけるたびに、エリシアは不安になった。彼がその部隊に所属しているかどうかも分からないのに、新聞を閉じることができなくなる。反対に、戦闘が少なかった日には少し安心し、彼もどこかで穏やかな一日を過ごしているかもしれないと考えることもあった。
エリシアのもとに最初の縁談が持ち込まれたのは、秋の終わり頃だった。相手は国内の子爵家の嫡男で、今年二十一歳になる青年だった。王立学院を優秀な成績で卒業し、現在は父親の補佐として領地経営を学んでいるという。穏やかな人柄で知られ、家柄も申し分ない。エリシアの父親とは以前から交流があり、両家の関係も良好だった。
父親は彼女を執務室へ呼び、相手の経歴を記した書類を差し出した。エリシアは書類に目を通し、そこに書かれている青年が立派な人物であることを理解した。婚約を解消した令嬢にとって、これほど条件のよい縁談を紹介してもらえる機会は多くないかもしれない。それでも、相手の名前を見たとき、彼女の心に浮かんだのはレオナルトの顔だった。
「エリシア。すぐに結婚を決める必要はない。ただ、一度会ってみるだけでもどうだろうか。相手の家からも、まずは顔合わせの機会を設けたいと申し出があったんだ」
「……お父様、申し訳ございません。私はまだ、結婚を考えられません。せっかくご紹介いただいたのに、失礼なことをしてしまいますね」
「レオナルト殿のことが忘れられないのだね。あの青年との婚約が解消されてから、まだ半年しか経っていないのだから、無理もないと思うよ」
エリシアは小さく頷いた。父親は困ったように眉を下げたものの、彼女を叱ることはなかった。レオナルトとの婚約が決まったとき、娘がどれほど喜んでいたかを知っている。婚約解消の日に、彼女がどれほど泣いていたかも覚えていた。父親自身も、できることなら二人を結婚させてやりたかったのだろうと、エリシアは思っていた。
「気持ちは分かる。だが、あの青年は敵国の騎士だ。戦争がいつ終わるのかも分からないし、仮に終わったとしても、以前のような関係に戻れる保証はない。それでも、待つつもりなのかい?」
「……はい。私は、まだレオナルトさんにお会いしたいのです。あの方がどこかで生きていらっしゃるのなら、いつかまたお会いできる日が来るかもしれません。ですから、今はほかの方との結婚を考えることができません」
父親はしばらく黙っていたが、やがて書類を閉じ、机の引き出しへしまった。エリシアが顔を上げると、父親は娘の気持ちを尊重すると話し、今回の縁談は断っておくと約束してくれた。いつか気持ちが変わったときには遠慮なく相談してほしいとも言われ、エリシアは深く頭を下げた。父親が自分の気持ちを理解してくれたことが嬉しく、執務室を出る頃には少しだけ心が軽くなっていた。
その夜、エリシアは久しぶりにレオナルトへ手紙を書いた。戦争が始まってから、両国間の私的な通信は禁止されている。手紙を書いたところで、届ける方法はなかった。それでも、彼に伝えたいことがあるたびに、エリシアは机に向かうようになっていた。便箋を広げて筆を取ると、以前のように彼と話している気持ちになれたし、胸の奥に溜まった不安や寂しさを、少しずつ言葉にすることができた。
『レオナルトさん。
こちらは、すっかり秋になりました。お庭の木々も色づき始め、朝晩には暖炉が恋しくなるほど冷え込んでいます。そちらはいかがでしょうか。お怪我などされていませんか。きちんとお食事を召し上がっていらっしゃいますか。
今日は、お父様から縁談のお話をいただきました。とても立派な方だそうですが、お断りしました。お父様には申し訳ないと思っていますが、今の私には、ほかの方との結婚を考えることができないのです。
私は、まだあなたにお会いしたいのです。
あの日、会いたくなってももう会えないと申し上げましたね。今でも、そう思うことがあります。けれど、あなたが生きていてくださるのなら、いつかまたお会いできる日が来るかもしれません。
どうか、ご無事でいてください。
エリシアより』
書き終えた手紙を丁寧に折り畳み、封筒へ入れる。宛先には、かつて何度も書いた侯爵家の住所を記した。もちろん、投函することはできないため、エリシアは封筒を机の引き出しへしまい、鍵をかけた。引き出しの中には、すでに何通もの手紙が収められている。彼の誕生日に書いたものや、庭園の花が咲いたことを知らせるもの、眠れない夜に気持ちを綴ったものもあった。冬が訪れる頃には、その数は二十通を超えていた。
戦争が始まってから一年が経過した春、エリシアは十七歳になった。彼女は以前よりも社交の場へ出る機会を減らし、母親とともに慈善活動へ参加するようになっていた。王都の教会では、戦争によって父親や兄を失った家族を支援するための寄付が集められており、貴族の夫人や令嬢たちが衣類の仕分けや食料の配給を手伝っていた。最初は母親の付き添いとして参加していたエリシアだったが、次第に自分から仕事を引き受けるようになり、週に何度か教会へ通うようになっていた。
教会の敷地内には、戦争で親を失った子どもたちを保護するための小さな施設が設けられていた。古い修道院の建物を改修したもので、石造りの廊下には冬の冷気が残り、食堂の窓からは中庭に植えられた果樹が見えている。子どもたちは年齢ごとに部屋を分けられ、修道女たちの世話を受けながら暮らしていた。エリシアは衣類の仕分けを終えたあと、修道女に頼まれて子どもたちの勉強を手伝うようになり、読み書きのできない幼い子には絵本を読んで聞かせていた。
ある日の午後、エリシアは食堂の隅に座っていた小さな女の子に声をかけた。栗色の髪を二つに結んだその子は、ほかの子どもたちが遊んでいる間も窓の外を眺めており、手元には古びた布の人形を抱えている。修道女の話によれば、国境近くの村から避難してきたばかりで、父親は戦闘で亡くなり、母親とも離れ離れになってしまったという。
「こんにちは。私はエリシアと申します。よろしければ、一緒に絵本を読みませんか?今日は新しいお話を持ってきたのです」
「……お母さんは、いつ帰ってくるの?」
女の子はエリシアの顔を見上げ、真剣な表情で尋ねた。エリシアはすぐには答えられず、隣の椅子に腰を下ろした。母親がどこにいるのか、無事でいるのかさえ分からない子どもに、簡単に帰ってくると約束することはできなかった。彼女は女の子の手元にある人形へ目を向け、少し考えてから、落ち着いた口調で話しかけた。
「お母様に会いたいのですね。私には、お母様がいつ帰っていらっしゃるのか分かりません。ですが、あなたが寂しいときには、ここで一緒に過ごすことができます。お話をしたくなったら、私にも聞かせてくださいね」
女の子はしばらくエリシアを見つめていたが、やがて小さく頷き、抱えていた人形を膝の上へ置いた。エリシアが絵本を開くと、彼女は少しずつ椅子を寄せ、色鮮やかな挿絵を覗き込んできた。最初はほとんど言葉を発しなかったものの、物語が進むにつれて登場人物の名前を尋ねるようになり、最後にはお気に入りの場面をもう一度読んでほしいと頼んでくれた。エリシアはその願いに応えながら、子どもたちが安心して過ごせる場所を守ることの大切さを、改めて感じていた。
それからエリシアは、以前にも増して孤児院へ通うようになった。子どもたちに文字を教え、傷んだ衣服を繕い、天気のよい日には中庭で一緒に花を育てた。修道女たちの仕事を手伝ううちに、戦争によって家族を失った人々がどれほど多いのかを知り、自分が暮らしている屋敷の外にも、さまざまな苦しみを抱えた人がいることを実感するようになった。レオナルトの無事を祈る気持ちは変わらなかったが、彼の帰りを待つあいだにも、自分にできることがあるのだと思えるようになっていた。
季節が巡り、エリシアが十八歳になった春にも、戦争は終わらなかった。国境地帯では激しい戦闘が繰り返され、両国の軍は幾度となく進軍と撤退を重ねていた。王都には負傷した兵士たちが運び込まれ、教会の鐘が戦死者を悼んで鳴らされる日も増えていた。エリシアは新聞を読むたびにレオナルトの身を案じ、彼がどこかで無事に暮らしていることを願っていたが、二年近く便りが届かないままでは、以前のように希望を持ち続けることも難しくなっていた。
その知らせが届いたのは、雨の降る午後だった。エリシアは孤児院から帰宅し、自室で濡れた外套を脱いだところだった。侍女が温かいお茶を運んできた直後、父親から執務室へ来るよう伝えられたのである。普段なら夕食の席で話すようなことでも、今日はわざわざ呼び出されたことが気になり、エリシアは急いで身支度を整えた。
執務室へ入ると、父親は机の前に立っていた。母親も窓際の椅子に座っており、二人とも沈んだ表情を浮かべている。エリシアはその様子を見た途端、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。父親の手には一枚の書類が握られており、机の上には戦況を伝える新聞が広げられていた。
「エリシア。今日、王宮から新しい報告が届いた。先月、ヴァイスベルク王国の部隊が北部戦線で大きな損害を受けたそうだ。敵軍の動向について詳しい情報が集められているのだが、その中に、レオナルト殿の名前があった」
エリシアは父親の顔を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。レオナルトの名前が戦況報告に載っていたということは、彼が前線で戦っていたのだろう。これまで居場所さえ分からなかった彼の消息を、ようやく知ることができた。それなのに、父親の表情には安堵の色がなく、母親も目元を押さえている。
「……レオナルトさんは、ご無事なのですか?お怪我をなさったのでしょうか。それとも、どこか別の場所へ移動されたのですか?」
父親は書類へ視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。エリシアは返事を待ちながら、指先が冷たくなっていくのを感じていた。彼が負傷したのなら、治療を受けている場所を知りたかった。捕虜になったのなら、いつか帰国できる可能性もあるはずだった。どのような知らせであっても、彼が生きているのなら、まだ希望を持てると思っていた。
「レオナルト殿が所属していた部隊は、敵軍の包囲を受けて壊滅したと報告されている。生存者はごく少数で、彼自身も戦死者の名簿に記載されていた。遺体は確認されていないそうだが、現地の状況から、生存は極めて難しいと考えられている」
エリシアは父親の言葉を聞き、目の前の景色が遠ざかっていくように感じた。戦死者の名簿に名前があるということは、彼が亡くなったと判断されたのだろう。けれど、遺体は確認されていないという。どこかで負傷しているだけかもしれないし、別の部隊に保護されている可能性もあるのではないか。エリシアは必死に考えを巡らせたが、父親の表情を見ていると、その希望がどれほど小さなものなのかも理解できてしまった。
「……まだ、分からないのですよね。レオナルトさんが亡くなったところを、誰も確認していないのでしょう?それなら、どこかで生きていらっしゃるかもしれません」
「その可能性が全くないとは言い切れない。だが、戦闘からすでに一か月以上が経過している。今のところ、生存を裏づける情報は届いていないんだ」
「それでも、私は……。レオナルトさんが亡くなったなんて、まだ信じられません。あの方は、必ず生きて帰ると約束してくださったのですから」
エリシアはそこまで話すと、とうとう涙を堪えられなくなった。父親が慌てて近づき、母親も椅子から立ち上がって彼女を抱きしめてくれた。エリシアは母親の肩に顔を埋め、声を上げて泣いた。婚約を解消した日から、いつか再会できることを願い続けてきた。何通もの手紙を書き、毎朝新聞を読み、彼が無事でいるよう祈ってきた。その願いが届かなかったのかもしれないと思うと、胸が苦しくて仕方がなかった。
その夜、エリシアは夕食をほとんど口にすることができなかった。母親に勧められて温かいスープを少しだけ飲んだものの、食欲は戻らず、早々に自室へ引き上げた。机の引き出しを開けると、そこにはレオナルトへ宛てた手紙が何十通も収められている。エリシアは一番古い封筒を取り出し、婚約を解消した直後に書いた文章を読み返した。あの頃の自分は、彼が生きて帰ってくると信じていたし、いつかまた会える日を楽しみにしていた。
引き出しの奥には、小さな木箱が置かれていた。蓋を開けると、レオナルトから贈られた指輪が入っている。婚約を解消したあと、公の場では身につけられなくなったため、エリシアは大切に保管していた。小さな青い宝石は、二年前と変わらない輝きを保っている。彼が宝石商を訪れ、自分のために選んでくれた日のことを思い出すと、涙が溢れてしまった。
エリシアは指輪を手に取り、左手の薬指へ嵌めた。二年前よりも少し指が細くなったのか、以前より緩く感じられたが、まだ問題なく身につけることができた。彼から贈られた大切な品を眺めながら、エリシアは窓の外へ目を向けた。雨は夜になっても降り続いており、庭園の木々が風に揺れている。レオナルトが今どこにいるのか、生きているのかさえ分からない。それでも、彼を忘れることなどできなかった。
翌日から、エリシアは再び孤児院へ通い始めた。修道女たちは彼女の様子を心配していたが、エリシアはこれまでどおり子どもたちの世話を手伝いたいと申し出た。何もせずに部屋へ閉じこもっていると、レオナルトのことばかり考えてしまう。子どもたちと過ごしている間は、少しだけ気持ちが落ち着いたし、彼らの笑顔を見ることで、自分にもまだできることがあると思えた。
それから一年が経ち、エリシアは十九歳になった。戦争は三年目に入り、両国とも疲弊していた。王都では物価が上がり、以前は豊富に並んでいた食料品も、手に入れることが難しくなっていた。貴族の屋敷でも節約が求められるようになり、華やかな舞踏会はほとんど開かれなくなった。エリシアの家でも使用人たちと相談しながら食料の管理を見直し、余裕のある物資は教会へ寄付するようになっていた。
縁談は、その間にも何度か持ち込まれた。父親は娘の気持ちを尊重していたが、十九歳という年齢を考えると、将来について心配せずにはいられなかったのだろう。相手の家柄や人柄を確かめ、条件のよい話があればエリシアへ紹介してくれた。彼女も父親の気遣いには感謝していたが、結婚を考える気持ちにはなれなかった。
「エリシア。レオナルト殿のことを大切に思っているのは分かる。だが、お前自身の幸せについても考えてほしい。あの青年も、きっとお前が幸せに暮らすことを望んでいると思うんだ」
「……はい。私も、いつまでもこのままでよいとは思っておりません。ですが、今はまだ、ほかの方と結婚する気持ちになれないのです。お父様にはご心配をおかけして申し訳ありません」
「謝る必要はないよ。お前が納得できる道を選んでほしいんだ。ただ、何か困ったことがあれば、いつでも相談してくれ。私たちはお前の味方だからね」
エリシアは父親の言葉に頷き、深く頭を下げた。両親が自分の気持ちを尊重してくれていることは、何よりもありがたかった。周囲の令嬢たちが次々と結婚していくなかで、自分だけが立ち止まっているように感じることもあったが、レオナルトへの想いを無理に忘れようとは思わなかった。彼と過ごした時間は、これから先も大切にしていきたい思い出だった。
十九歳の冬、エリシアは孤児院の子どもたちと一緒に、小さなクリスマスの飾りを作った。紙を切って星の形に整え、色糸を通して窓辺へ吊るす。子どもたちは楽しそうに作業を進め、完成した飾りを互いに見せ合っていた。以前、母親を探していた栗色の髪の女の子も、今ではすっかり施設の生活に慣れ、年下の子どもたちの面倒を見るようになっていた。
エリシアはその成長を嬉しく思いながら、窓辺に飾られた星を眺めた。子どもたちの笑顔を見るたびに、戦争が早く終わってほしいと願わずにはいられなかった。これ以上、家族を失う子どもが増えてほしくなかったし、遠く離れた場所で苦しんでいる人々にも、穏やかな日々が戻ってきてほしかった。レオナルトがどこかで生きているのなら、彼にも同じような平穏が訪れてほしいと願っていた。
そして、四年目の春が訪れた。
エリシアが二十歳になった頃、両国の間で停戦交渉が始まったという知らせが届いた。長引く戦争によって双方の国力は大きく損なわれ、これ以上の戦闘を続けることは難しくなっていた。国境地帯の領有権問題についても、第三国の仲介を受けながら新たな協定を結ぶ方向で話し合いが進められているという。王都では久しぶりに明るい話題が広まり、人々は戦争の終結を期待するようになっていた。
交渉は数か月にわたって続いたが、やがて正式な和平条約が締結された。四年間に及んだ戦争は終わり、両国の国境では段階的に通行制限が解除されることになった。王都の広場には大勢の人々が集まり、教会の鐘が平和の訪れを告げて鳴り響いた。戦争で家族を失った人々にとって、喜びだけで迎えられる日ではなかったものの、これ以上の犠牲者が出なくなることに、多くの人が安堵していた。
エリシアも孤児院の子どもたちと一緒に、和平を祝う小さな食事会を開いた。修道女たちが用意した焼き菓子を配り、子どもたちと歌を歌いながら、これからの暮らしについて話した。戦争が終われば、離れ離れになった家族を探すことも、以前より容易になるかもしれない。エリシアは子どもたちの希望に満ちた表情を見つめ、平和が戻ってきたことを心から嬉しく思っていた。
それでも、彼女の胸には埋められない寂しさが残っていた。戦争が終わったという知らせを聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのはレオナルトの顔だった。四年前、彼は必ず生きて帰ると約束してくれた。けれど、彼の消息は二年前の戦闘を最後に途絶えたままであり、今も生存を確認する知らせは届いていない。和平が成立したからといって、失われた命が戻るわけではないことを、エリシアはよく理解していた。
ある日の午後、エリシアは久しぶりに自室の引き出しを開け、レオナルトへ宛てた手紙を取り出した。四年間に書き続けた手紙は百通を超えており、古いものから順番に紐で束ねられている。最初の頃は彼に会いたいという気持ちを綴ることが多かったが、次第に孤児院での出来事や季節の移り変わり、家族と過ごした時間について書くようになっていた。返事が届くことはなかったものの、彼に話しかけるように文章を書く習慣は、今でも続いている。
エリシアは新しい便箋を広げ、久しぶりに筆を取った。戦争が終わったことを知らせたかったし、四年間にあった出来事を、彼に聞いてほしかった。けれど、書き始めようとすると、胸の奥にさまざまな感情が込み上げてきた。もし彼が生きていたら、今頃どこで何をしているのだろう。祖国へ帰り、家族と再会しているのかもしれない。あるいは、まだどこかの病院で治療を受けている可能性もある。どれほど考えても答えは出ず、エリシアはしばらく白い便箋を見つめていた。
『レオナルトさん。長かった戦争が、ようやく終わりました。四年前、あなたとお別れした日のことを、今でもよく覚えています。あの日は春の花が咲いていて、庭園には暖かな風が吹いていましたね。あなたが私の手を握ってくださったことも、最後に抱きしめてくださったことも、忘れた日はありません。
私は二十歳になりました。あの頃より少しは大人になれたでしょうか。最近は孤児院で子どもたちのお世話をすることが増え、以前よりも裁縫が上手になった気がします。あなたがご覧になったら、きっと驚かれるでしょうね。
戦争が終わった今、あなたがどこかで生きていてくださることを、もう一度願っています。
もし、いつかまたお会いできるのなら。
私は、あなたにお伝えしたいことがたくさんあります。 エリシアより』
エリシアは書き終えた手紙を封筒へ入れ、これまでの手紙と一緒に引き出しへしまった。窓の外では、庭園の薔薇が咲き始めている。四年前、レオナルトと別れた日にも同じような花が咲いていたことを思い出し、彼女はしばらく窓辺に立っていた。戦争が終わり、世界は少しずつ以前の姿を取り戻そうとしている。自分もこれから先の人生について考えなければならないのだろうと、エリシアは思っていた。
和平条約の締結から一か月ほど経った頃、アルヴェイン伯爵家には、隣国との交流再開に関する知らせが次々と届くようになった。戦争中に閉鎖されていた街道が再び開かれ、商人たちは長らく途絶えていた交易を再開する準備を進めていた。両国の貴族たちも、以前のような友好関係を築くため、少しずつ連絡を取り合うようになっていた。
エリシアの父親も、かつて親しくしていたヴァイスベルク王国の貴族たちへ手紙を送り始めていた。その中には、レオナルトの父親であるヴァイスベルク侯爵も含まれていた。エリシアは父親からその話を聞き、胸の奥に複雑な気持ちが広がるのを感じた。侯爵家の人々も、息子を失った悲しみを抱えているのだろう。いつか再び顔を合わせる機会があれば、レオナルトと過ごした時間について話したいと思っていた。
六月のある日、エリシアは朝から孤児院へ出かけていた。子どもたちと一緒に庭の花壇を整え、昼食のあとには読み書きの勉強を手伝った。午後になると雨が降り始めたため、外遊びを取りやめ、食堂で絵本を読むことになった。エリシアは子どもたちに囲まれながら物語を読み進め、窓を伝う雨粒を眺めていた。
屋敷へ帰り着いたのは、夕方近くになってからだった。雨はすでに上がっており、庭園の木々には水滴が残っている。馬車を降りると、エリシアは玄関先で待っていた侍女に外套を預け、濡れた靴を履き替えるために自室へ向かおうとした。そのとき、執事が少し慌てた様子で近づいてきた。
「エリシア様。お客様がお見えになっております。旦那様から、エリシア様がお戻りになりましたら、すぐに応接室へご案内するよう申しつかっております」
「お客様ですか?どなたがいらっしゃったのでしょう。今日は特に、お約束はなかったと思うのですが」
「それが……。旦那様から、直接お会いになればお分かりになると伺っております。どうか、応接室までお越しくださいませ」
エリシアは不思議に思いながらも、執事の案内に従って廊下を進んだ。父親がわざわざ自分を呼んでいるということは、何か大切な話があるのだろう。戦争が終わってからは、隣国との交流再開に関する相談が増えていたため、今回もその関係かもしれないと考えた。廊下の窓からは夕方の柔らかな陽射しが差し込み、雨上がりの庭園を明るく照らしていた。
応接室の前まで来ると、執事は扉を軽く叩き、中から返事があるのを待った。エリシアはドレスの裾を整え、客人に失礼のないよう身支度を確かめた。父親が直接会えば分かると言った以上、以前から付き合いのある人物なのだろう。戦争が終わってからは、しばらく疎遠になっていた貴族たちが屋敷を訪れることも増えていたため、今回もその一人かもしれないと考えていた。
執事が扉を開くと、室内には父親と母親が揃っていた。二人はエリシアの姿を見ると、何も言わずに部屋の奥へ視線を向けた。窓際には一人の男性が立っており、手には季節の花を束ねた小さな花束を持っている。エリシアは客人に挨拶をしようとしたが、男性がこちらへ振り返ったところで、思わず足を止めた。
「エリシアさん。俺と結婚して下さい」
それは死んだはずの最愛の人からの数年ごしのプロポーズなのだった




