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序章(4)「危機は音もなく忍び寄る」

 従業員の男性が店を出てから、どれくらいの時間が経っただろうか。

 おそらくは、五分も経っていないはずだ。けれど、音が消えた店内では、秒針の刻む音さえもが異様に長く引き伸ばされているように感じられた。

 ふと、喉の奥にちりりとした痒みを覚えた。

 乾燥のせいだろうか。私は手元の水を一口飲んだが、その違和感は消えない。それどころか、空気そのものが、じわじわと重たくなっているような気がした。


 (……?)


 ふと感じた空気の違和感に私は窓の外に目を向ける。

 日差しのせいで体感温度が違うのか、なんだか少し室温が上がった気がする。

 大きな窓から見える外の景色は、相変わらず穏やかな冬の午後のままだ。走る車の列も、歩道を急ぐ人々も、先ほどと何も変わらない。何の変哲もない寒々しい真冬の光景だ。

 天井のエアコンを見上げる。空調が止まってから、さほど時間は経ってないとはいえ、こんなに室温は保たれるものだろうか。なぜだか、この室内だけが、世界から切り離されたように変質している気がした。

 窓の上の方から、一筋水が垂れてきていた。見上げると、窓の上の方が少し結露で白くなり、そこから水の筋が続いている。ゆっくりと静かに落ちる水滴に、胸の奥に言いようのない不吉さが顔をもたげた。


「遅いわね……」


 カウンターの奥で、女性店員が不安げに呟いた。彼女は何度もスマートフォンの画面を確認しているが、電波の入りも悪いのか、いらいらと端末を振っている。


 その時、私はその視界の端に、静かな揺らめきを見つけた。

 店の入り口――先ほど男性が出ていった扉の隙間から、細い糸のような「何か」が揺らめきながら入りこんでいた。

 それは、白というよりは薄灰色をした、頼りない筋だった。

 最初は、冬の午後の光が作り出した幻覚かと思った。けれど、確かな実態を持って天井に向かって登っている。


 ――煙。


 心臓がどくん、と大きく跳ねた。

 鼻を突く匂いは、かすかではあったが「料理の失敗」などという牧歌的なものではなくなっていた。ビニールが焼けるような、あるいは塗料が焦げるような、化学的で不快な悪臭。


「あの、煙が……」


 私が声を上げるのと、向かいの老紳士が立ち上がるのは同時だった。

 老紳士は文庫本をポケットにねじ込み、鋭い眼差しで入り口の扉を凝視している。


「お嬢さん、これはただ事ではないな」


 従業員の女性が扉を見て、私たちに目を向けるのを待っていたように——


  ドォォォン……。


 扉の向こう側から、低く重い地響きのような音が伝わってきた。

 何かを崩したような、物が倒れたような、そんな音が。


「……!?」


 その衝撃の数秒後入り口扉の上のガラス窓を、黒い何かが横切った。……いや、覆った。直後、扉の隙間から噴き出す煙の量が一気に増す。


「火事……!?」


 女性店員が悲鳴に近い声を上げ、入り口の扉へと駆け寄る。


「待って!!」


 私は反射的に立ち上がり、以前、会社の防災訓練で聞いた講師の言葉を必死に手繰り寄せた。


「不用意に開けないで!まず扉が熱くないか確認して!」


 私の制止に、彼女は震える手でドアの表面に触れた。


「熱く……ない。熱くはないわ」


 その言葉に、彼女自身が一番安堵したようだった。熱くないのなら、まだ火は遠い。廊下へ出られるはずだ。そんな希望的観測が彼女の背中を押したのだろう。

 彼女がドアノブを回し、勢いよく扉を開いた。


「――っ!?」


 その瞬間、私は見た。

 扉の向こうから、生き物のような勢いでなだれ込んできた、どす黒い灰色の塊を。

 

 熱風ではない。けれど、それは冷気よりも鋭く喉を突き、肺を刺す猛毒。

 

「……っ」


 悲鳴さえ、形にならなかった。

 扉を開けた彼女は、流れ込んできた煙をまともに吸い込んだ瞬間、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。逃げる動作も、顔を覆う仕草さえもなく、文字通り「一瞬」で意識を奪われたのだ。


 (有毒ガス……!)


 脳裏に、防災訓練の資料にあった太字の警告がフラッシュバックする。

 煙は熱いだけではない。一吸いで中枢神経を麻痺させる一酸化炭素や、目に見えない有毒物質の塊なのだ。

 心臓が爆ぜるほど跳ねる。私は叫びそうになる口を手で押さえ、迷わずその場に這いつくばった。

 

「床に!伏せて!」


 向かいの老紳士に向かって怒鳴る。

 待ってましたとばかりにカフェの天井を這い進んでくる黒い煙。少しでも綺麗な空気が残っているのは、床からわずか数十センチの隙間だけだ。視界は一気に濁り、鼻を突く異臭が思考を掻き乱す。

 床に顔を押し付けるようにして見上げると、先ほどまで明るい日差しを反射していた店内の天井が、今は渦巻く黒煙に飲み込まれ、不気味に蠢いていた。

 窓からの光はまだそこにあるのに、届かない。

 

 倒れた彼女を助けに行かなければならない。そう思うのに、指一本動かすたびに肺が火を吹くように熱い。

 

 逃げ道だったはずの扉の向こうからは、もはや煙以外、何の音も聞こえてこなかった。

 様子を見に行ったあの男性従業員も、きっと――。

 

 最悪の想像が、煙よりも重く私の心にのしかかった。



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