朝、起きたら『食い尽くし系』が隣人になっていたら?
念願のマイホーム!
僕と采子がここで暮らすようになって1年になる。
まだ子どもはいなかった。お互い32歳。仲も良好だった。
ただし、最近市職員としての業務が忙しくて、あっちの方はご無沙汰だったが。
秩父市郊外の土地だったので、隣近所は離れていた。
庭は芝生を敷き、ドッグランまである。パグが走り回っていた。
テラスからの眺めは最高だ。遠くの山並みは四季折々の色で模様替えをし、眼を楽しませてくれた。気兼ねなくBBQまでできる。
もっとも自宅の四方は売地の看板が立ち、いずれ家が建ち並び、気楽な遊びもできなくなるだろう。だったら今のうちに満喫しておかねば、というわけである。
◆◆◆◆◆
ある日。
朝、僕が起きてテラスに出るなり驚いた。
いつの間にか、塀の向こうに新居が建っているではないか。
頬をつねった。
昨日まで家の周りは田畑に囲まれていたのに、なぜ今朝になって降って湧いたように直方体の新築が現れたのか?
とにかく――隣家が勝手に現れようがいまいが、日曜の昼はBBQをやる予定だったのだ。匂いが出ようと遠慮することはあるまい。
せっかく上質のリブロースをはじめ、スペアリブ、ミノ、ソーセージを揃えているのだ。賽は投げられた。
そんなわけで庭で炭を熾し、網に肉や野菜を並べると、馨しい煙が立ち込めた。
焼き上がるまでに、夫婦でキンキンに冷えたビールを口にしたときだった。
隣家の玄関から住人が現れた。
興味津々なそぶりで我が家の門扉を開け、勝手にも芝生に入り込んでくるではないか。
「いやいやいや……。これは一軒家ならではお楽しみですな。匂いに誘われて、ついお邪魔しちゃいました」
と、ずんぐりした体型の脚の短い男は言った。なぜか両手を後ろに回している。
年齢は30代半ば。だんご鼻で、眼はにこやかに笑っているのだが、底意地の悪い人相をしていた。髪の毛は側頭部を刈り上げ、頭の先をデッキブラシみたいに立てている。
断りもなく敷地に入り込まれたことは不愉快だったが、今後このお隣さんとの付き合いもある。僕たちは無理に口角を上げた。
「よかったら、ご一緒にどうです? お近づきのしるしにご馳走しましょう」
いささか業腹だったが、僕は言った。市役所の総務部で揉まれていると、おのずと我慢強くなるものだ。
妻は椅子をもう一脚持ってきて、コンロの前に置いた。
「どうぞ。食材はたくさんありますから、遠慮なく」
「ヤバイよヤバイよ。いきなり初対面でお呼ばれになっちゃうなんて。紹介が遅れました。私、入川 哲郎と言います。以後お見知りおきを」と、男はダミ声でおどけて言い、後ろに回していた手を前に出した。「ジャジャ――ン。そんなこともあろうかと、ちゃっかり用意してたりして!」
図々しいにもほどがある。この男、皿と箸を持参していたのだ。
それからは開いた口がふさがらなかった。
遠慮なく、と言ったのはあくまで社交辞令で、まさか僕たちの食べるペース以上の速さで食べ散らかすとは予想だにしなかった。
缶ビールまで急ピッチで飲み干され、せっかく夫婦が楽しみにしていたのに、大方の食材が入川の胃袋に消えた。
「はー。食った食った!……いや、すみませんね。せっかくお二人の休日に邪魔してしまい、ご馳走になるなんて」
「いえ……、僕たちにとっても初のお隣さんですから、仲良くやっていきたいですしね」
食べ足りない僕が不満を押し殺して言うと、采子が隣で、
「……今後ともよろしくお願いします」
と、引きつった顔で頭を下げた。
入川は現在一人暮らしであるという。ネットビジネスで多額の利益を得ており、一戸建てに住み出したんだとか。文字通り、今朝越してきて初日だという。どうやって一晩で新築が建ったのか聞いても、「リアルに、野暮なことは聞かんといてくださいったら!」と、笑って誤魔化された。
後片付けしようとすると、やっと入川は帰ってくれた。
せめて片付けくらい、協力すべきだろ。
僕たちは後になって腹が立った。
抗議するならその場ですべきだったのだ。
◆◆◆◆◆
このファーストコンタクトは、ほんの序章にすぎなかった。
平日の夕食時、入川は我が家を訪ねてきては、勝手にキッチンに入ってきておかずをつまんだり、挙句の果て、冷蔵庫を開けては中身を漁ったりと、厚かましく距離を縮めてくるのだ。
気に入った食材――主に肉類やスイーツ系を好んだ――があれば、断りもなく手を付けるんだから、親の顔が見たくなる。
きっと育ちが悪かったのだろう。
土曜の3時のおやつ時にも、家の呼び鈴が鳴った。
リビングでくつろいでいた僕たちは、顔を見合わせた。
お互いの顔に、もしや……という色が浮かんでいる。
玄関には案の定、入川が立っていた。
ずんぐりむっくりのウォンバットを思わせる体型で、よく食べるせいか腹が突き出ている。デッキブラシみたいな頭頂部はさぞかし硬い髪質にちがいない。
「ガチでいい匂いがしてきたんです。これはロールケーキだなって。さっそくご馳走にならなきゃって思い立ちましてね」
この男、銀座の某有名店から取り寄せた、濃厚ショコラロールの匂いを嗅ぎ分けただと?
勝手にリビングへと上がり込んだ入川は、テーブルで切り分けたばかりのケーキを眼にするなり、「ヤバイよヤバイ! おれの嗅覚、凄すぎ!」と、言ってだらしない笑みを浮かべた。
追い返すべきだった。
甘やかすと入川はつけ上がった。
自分のケーキを平らげるだけならまだしも、采子の方がむしろ遠慮して、半分残していると、
「それ、いらないんですか? よかったら食べてさしあげますよ」
と、人の分まで掠め取っていくのである。
呆れるやら腹が立つやら。
「おれって、癒し系ならぬ卑しい系だったりして!」
入川はダミ声で笑い、悪びれたふうもなく頭をかいた。
切り分けていないケーキはまだ半分残っていた。これはとっておくから、今日のところはお引き取り下さいと語気を強めて言うと、
「実っちゃん、そんな殺生なこと言わんといてくださいよ。まだおれっちの胃袋は入るのに――」
哀れっぽい声で両手を合わせるのだ。
まったく――筋金入りの面の皮の厚さだ。
◆◆◆◆◆
「あの人って、今話題になってる『食い尽くし系』じゃない?」
夜、ベッドに横になったときだった。隣の采子が下着をつけると白けた様子で、天井を見上げたまま言った。
「食い尽くし系?」
と、僕。
パンツを履く。あいにく今日も不能だった。仕事の重圧で気分が乗らないこともある。今年の春に係長に昇進したばかりだった。
「たとえば会社の飲み会で、大皿に盛られた春巻きが出されたとするでしょ。1人2個までという暗黙のルールなのに、食い尽くし系の人は遠慮なく他人の分まで食べ尽くしてしまうの。ふつう、みんなに行き渡るように空気読むでしょ」
「いるな、たまにそんな人。初めから小皿に取り分けてたらいいんじゃないか」
「ロールケーキのときもそうだったじゃない。他人が手を付けていないのを見て、平気で取っちゃったりするの。食い尽くし系にルールなんて意味ないんだから」
采子が言うには、結婚相手がこの手であることが発覚した場合、最悪離婚の火種になりかねないという。
冷蔵庫にキープしてあった配偶者のプリンを食べてしまったり、小皿に取り分けてあった子どものおかずにまで手を付けてしまうなど、問題行動を起こす。
しかも本人に悪気がなく、反省もしないので改善される見込みは薄いとか。
このタイプは幼児期の家庭環境に、多少なりとも問題があったと考えられる。
両親が共働きのため、冷蔵庫から直接ものを取って食べたり、兄弟の多い家庭で大皿でおかずが提供され、早い者勝ちの世界で育ったため、成人してからも食に卑しかったりするという。
あるいは「たくさん食べる子はえらい」と褒められた経験からなってしまったり、自分が家庭内で優位性を示すため、わざと食い尽くしたりと、いろんな要因も挙げられる。
いずれにせよ共通して言えるのは、他人への気づかいの足りなさや、迷惑をかけていることの自覚のなさである。
◆◆◆◆◆
やがて3カ月が経った。
入川はさすがに毎日こそやってこなかったが、きつく注意してやれば、一応は立場をわきまえた。
隣人であろうとなかろうと、ルール違反する輩にはハッキリ苦言を呈すべきなのである。
なんだかんだ家ではのんびりすごす僕だったが、出勤すればデスクワークに忙殺されているうちに、入川のことなど眼中になかった。
僕には市職員としての責務があった。
妻は今のところ家庭を守らせていた。元来身体が弱いところもあって静養がてら家に置いていたのだ。
いずれ子どもができれば子育てにシフトすればいいし、できないのなら前の仕事――保育士として復帰してもいいと思っていた。
ある金曜の夕方。
自宅に帰宅してみると――。
玄関に、僕のものではない男物の靴があった。
キッチンでは采子が夕飯の支度をしていた。
露骨に顔をしかめ、リビングを指さす。
嫌な予感しかしない。
なんと12帖の明るい部屋では入川が我が物顔でソファにふん反り返り、缶ビールを片手に映画を観ているではないか。足元にはパグが懐いた様子で寝そべっている。
液晶テレビの画面をひと目見るなり、言葉を失った。
僕がコレクションしていた人気アニメのBDであることはすぐにわかった。
この男、人さまの棚から勝手にディスクを取り、デッキで再生したにちがいない。
さすがの僕も頭に血が上った。
声を嗄らして罵る。
「実っちゃん、そんなお堅いことおっしゃらずに……。お隣さん同士じゃないですか!」
「いくらなんでも、超えてはならない境界線ってあるでしょが! あんただって、逆の立場でやられたら怒るはずだ!」
「我々は運命共同体でしょ。お宅のものはおれのもの。おれのものも、よかったらお宅の好きにしてくれたら……」
「うるさい! そんな自分勝手な言い分が通るか!」
パグは僕の怒声で逃げ惑った。
さすがの入川も舌を出して退散した。
◆◆◆◆◆
そんなこんなで季節はめぐった。
危機管理課の係長として地域防災計画についての会議が連日あり、予算の関係で頭を悩ませていた。
近ごろは自宅でBBQもしなくなった。準備と片付けが面倒すぎる。
パグだけが芝生を走り回っていた。
最近は定時で帰れる日も少なく、采子とコミュニケーションを取っていなかった。
そのせいか、妻の様子がおかしい。
食事中、いきなり洗面所へかけ込む姿を見て、不審に思った。
今のは、つわりじゃないか?
「できたみたい」
采子はテーブルに戻ってくるなり、下腹を押さえて言った。
「ひょっとして、赤ちゃんが?」
采子は頷く。
待て。素直に喜べないぞ。
最近、とんとご無沙汰だったはずだが。なにせ仕事が忙しく、勃たなかったのだ。
僕が顔色を失ったのを見て妻は、
「……この子、あなたのじゃないの」
と、衝撃の告白。
「僕のじゃない?」
「そ」
「……まさか、ひょっとして?」
「入川さんの子種」
采子ときたら、顔を赤らめ、頬に手を当てる始末。
なにが危機管理課の係長だ。僕自身、危機管理が行き届いていなかったとは。
よもや食い尽くし系に、妻まで寝取られるとは脇が甘いで済まされない。
◆◆◆◆◆
僕は雄叫びを上げながら隣家に突撃した。
戸を叩き、罵声を浴びせる。
何事かと入川が出てきた。
僕の手の包丁を眼にするなり察したのだろう。
「リアルにヤバいって、実っちゃん。話せばわかる!」と、入川は両手を広げ、降参ポーズをした。「バレちゃあ仕方ない。采子さん、ガチでいい味だったよ。ここ1年以上、あんたは相手にしてあげなかったんだろ? 寝物語として、彼女教えてくれたぜ。今じゃあ、おれっちの色に染めてやったと思ってる」
「このクソが! 人の家に上がり込み、采子まで抱くとは!」
もう破れかぶれだ。
市職員としての理性など、嵐の真っ只中のパラソルにすぎない。
侵略者め。
おまえなんかこうしてやる!
次の休日の昼間。庭でBBQをした。
炭を熾し、網にたっぷり黄色い脂肪のついた肉を並べる。
入川め、おまえを食い尽くすことで証拠を隠滅してやるぞ。
金輪際、僕のものは奪えまい。
あとで重機を手配し、入川の家も解体してやる。どうせある朝、タケノコみたいに現れたのだ。勝手に消しても構わないだろう。
「采子、おまえも食べろ。食べることで奴を供養してやるんだ」
「実ったら、後先考えないんだから」
「子どもはどうする」
「産む一択だったりして」
「勝手にしろ。――おい待て。もし、その子も食い尽くし系だったら?」
了




