第十話:歌姫と奇跡のハニージンジャー (3/3)
彼女は、そのカップを両手で大切そうに包み込むと、おずおずと、その一口を口に含んだ。
ハチミツの優しい甘さと、ショウガの温かい刺激が、まるで乾いた大地に染み込む恵みの雨のように、荒れてヒリヒリしていた喉を、じんわりと、優しく潤していく。
《あ……温かい……。痛みが、和らいでいくようです……》
彼女は、目を閉じてその温もりを味わうと、二口、三口と、ゆっくりとハニージンジャーティーを飲み進めた。体が、内側からぽかぽかと温まっていくのが分かる。張り詰めていた喉の筋肉が、少しずつ、緩んでいくのを感じた。
「次はこっちだ。熱くないうちにどうぞ」
俺が、ふるふると湯気の立つ茶碗蒸しを差し出すと、彼女は頷き、そっとスプーンを入れた。
とろりとした葛あんが、つるりとした喉ごしで、彼女の喉を優しく通り過ぎていく。出汁の奥深い旨味と、卵の優しい甘みが、荒れた心と体に染み渡るようだった。彼女は、夢中で、しかしその仕草はどこまでも上品に、全てを綺麗に平らげた。
食事が終わる頃には、彼女の顔色はすっかり良くなり、その表情は、来た時とは比べ物にならないほど、穏やかになっていた。
そして、彼女は、何かを確かめるように、そっと自分の喉に手を当てた。
期待と、まだ拭いきれない不安が入り混じった瞳で、俺を見る。俺は、励ますように、静かに頷いてみせた。
彼女は、意を決したように、ほんの少しだけ口を開き、息を吐き出すように、小さな声を出そうとした。
「……あ」
それは、歌声と呼ぶには、あまりにもささやかだった。
だが、今までのかすれた音とは全く違う、澄んだ、美しい一音が、まるで教会の鐘のように、凛として、店の中に「ポーン」と響き渡ったのだ。
《……声が……出た……》
彼女の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。それは、絶望の涙ではない。暗闇の中に、一筋の、しかし確かな光を見出した、歓喜の涙だった。
「言ったろ? 嬢ちゃんの喉は、ただ疲れてただけなんだ。すぐに元通りとはいかねえが、ちゃんと休ませて、ケアしてやりゃあ、また前みたいに、最高の歌声を森中に響かせられるさ」
俺は、お土産にアナグマ印の特製ハチミツを小さな瓶に詰め、ショウガの欠片と共に布に包んで渡した。
「しばらくは無理せず、そいつで喉を労ってやんな。歌いたくてうずうずするだろうが、今一番の薬は、沈黙だぜ。最高の楽器は、最高の休息を必要とするもんだ」
彼女は、涙を拭うと、何度も、何度も、深く頭を下げて感謝を伝えた。その動き一つ一つに、万感の思いが込められているのが分かった。そして、希望に満ちた表情で、静かに店を出ていった。
「さてと……」
俺は、一人になった店で、カウンターに残された石板に目をやる。
そこには、彼女が最後に書いたであろう、まだ涙で滲んだ、しかし力強い文字が残されていた。
『ありがとう』
その一言が、どんな万雷の拍手よりも、俺の心に温かく響くのだった。
俺は、いつかまた聞こえてくるであろう、彼女の美しい歌声に思いを馳せながら、静かに店の片付けを始めた。
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