第十話:歌姫と奇跡のハニージンジャー (1/3)
幽霊令嬢リリアンが、思い出の香りと共に安らかな眠りへと旅立ってから数日。店にはまた、穏やかな日常が戻ってきていた。俺、仏田武ことぶっさんは、鼻歌まじりに店の掃除をしていた。あの夜に焼いたマドレーヌの甘い香りが、まだ店の隅に残っているような気がする。
カランコロン。
今まで聞いたどの音とも違う、まるで教会の聖歌隊が鳴らす銀の鈴のような、澄み切ったドアの音がした。
顔を上げると、そこに、息をのむほど美しい女性が立っていた。腰まである長い髪は、深海の水をそのまま写し取ったかのように艶やかな青色で、その肌は磨き上げられた真珠のように、内側から淡い光を放っている。そして、ドレスの裾からのぞく足元は、人間のそれではなく、光の加減で虹色に輝く、美しい鱗に覆われていた。海の歌姫、セイレーンだ。
だが、その神々しいほどの美貌とは裏腹に、彼女の表情は深い悲しみに沈んでいた。彼女は何かを伝えようと、その形の良い唇をわずかに開いたが、そこから漏れたのは、美しい歌声とは程遠い、カサカサに乾いた、聞いているこちらの喉まで痛くなるような息の音だけだった。
「いらっしゃい。まあ、無理に喋るな。喉、やっちまったんだろ?」
俺が言うと、彼女は驚いたように大きく目を見開き、そして、こくりと、まるで世界の終わりのように悲しそうに頷いた。その大きな瞳から、ぽろり、と真珠のような涙がこぼれ落ちる。俺は慌ててカウンターから、書き物用の小さな石板と、柔らかい木炭を差し出した。
彼女は、それを受け取ると、震える手で、しかしその筆跡は流れるように美しい文字を綴った。
『わたくしは、この森の湖に住むセイレーン。森の動物たちに、わたくしの歌を聴かせるのが、何よりの喜びでした。けれど、数日前から、わたくしの命とも言えるこの声が、全く出なくなってしまったのです。無理に歌おうとすると、まるでカエルのような、しゃがれた声しか出なくて…。もう、みんなに歌を届けることができないかと思うと、悲しくて、胸が張り裂けそうです』
石板に、ぽつり、またぽつりと彼女の涙が落ちて、丁寧に書かれた文字を滲ませていく。
なるほど。歌うのが好きすぎて、自分の喉の限界を超えて酷使しすぎたんだな。歌手やアナウンサーによくある、職業病みたいなもんだ。
俺は彼女に温かいお茶を一杯出すと、その喉元を、じっと観察する。
(呪いの類じゃない。これは、完全に物理的な問題だ。喉の中にある声帯が、炎症を起こして真っ赤に腫れ上がり、悲鳴を上げてる状態だな)
「嬢ちゃん、あんたの喉の中にはな、『声帯』っていう、ものすごくデリケートな、一対の粘膜のヒダがあるんだ。肺から送られた空気が、そのヒダを絶妙に震わせることで、綺麗な声が出る。あんたみたいな歌姫の声帯は、きっと世界最高の楽器みてえなもんだろう。だが、使いすぎると、その声帯が炎症を起こして赤く腫れちまう。そうなると、うまく震えられなくて、声がかすれちまうのさ」
俺は、できるだけ優しく、分かりやすく説明する。彼女は、自分の喉にそんな精密な器官があることなど、知らなかったのだろう。驚いたように、自分の首筋にそっと触れている。
「あんたの喉に今一番必要なのは、無理に声を出すことじゃない。徹底的な『保湿』と『保温』、そして『炎症を抑える』ことだ。つまり、最高の楽器には、最高のメンテナンスが必要ってわけだ」
俺はニヤリと笑うと、絶望に沈む歌姫に、力強く宣言した。
「心配するな。あんたのその美しい声を取り戻すために、とっておきの『歌姫のための喉ケアセット』を作ってやる。俺に任せな」
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