第九話:幽霊令嬢とプルースト効果 (3/3)
俺は、生地を流し込んだ型を、予熱しておいた石窯にそっと滑り込ませた。
熱が加えられることで、生地に含まれた香りの成分が一斉に解き放たれ、店の中に満ちていく。
まず、バターのナッツのような香ばしい匂い。それは、暖炉の炎のような、心を落ち着かせる温かさ。
次に、レモンの皮の爽やかで、どこか懐かしい香り。それは、夏の日の木漏れ日のような、きらきらとした明るさ。
そして、それらを追いかけるように、シナモンの甘く、温かい香り。それは、物語を読んでくれた母の、優しい声のようだった。
三つの香りが混じり合い、絡み合い、まるで一つの物語を奏でるオーケストラのように、優しいハーモニーとなって、店中を陽だまりのような温かさで満たした。
リリアンは、その香りを胸いっぱいに吸い込むように、うっとりと目を閉じている。その透き通った頬に、一筋、また一筋と、真珠のような涙が伝うのが見えた。それはもう、悲しみの涙ではない。失われた温もりを、少しずつ思い出している、喜びの涙だった。
やがて、石窯から、完璧な焼き色のマドレーヌを取り出す。ぷっくりと、愛らしく膨らんだ、黄金色の貝殻。その表面はカリッとしていながら、中心はふんわりと柔らかいのが、見ただけで分かる。
「さあ、嬢ちゃん。お待たせ。焼き立てだ。今が、一番香りが立つ瞬間だぜ」
俺は、湯気が立つマドレーヌを純白の皿に乗せ、リリアンの目の前に、そっと差し出した。
彼女は、それを食べるのではない。ゆっくりと、その顔を皿に近づけ、立ち上る香りを、深く、深く、まるで自分の魂に吸い込むかのように、一身に受け止めた。
その瞬間、彼女の瞳が、カッと見開かれた。
閉ざされていた記憶の扉が、香りの鍵によって、一気に開かれたのだ。
《あ……ああ……! 思い出しましたわ……! この香り……!》
彼女の脳裏に、色褪せていたはずの記憶が、まるで昨日のことのように、鮮やかな色彩を持って蘇る。
幼い日の、よく晴れた午後。屋敷の庭にある、白いテラス。テーブルの上には、今、目の前にあるのと同じ、焼きたてのお菓子。そして、その向こう側で、優しく微笑む母の顔。
「リリアン、今日のおやつは特別よ。あなたが一番好きな、レモンのマドレーヌ」
そう言って、母が自分を抱きしめてくれた時の、温もり。陽の光の匂い。母のドレスから香る、優しい匂い。
全てが、この香りの中にあった。
忘れていたのではなく、心の奥底に、大切にしまわれていただけだったのだ。
《母様……。そうでしたわ、これは、ただのお菓子の香りなどではございません。わたくしを愛してくれた、母様の、優しい香り……》
彼女の体から、長い間彼女をこの世に縛り付けていた未練という名の重い鎖が、はらり、と音を立てて解けていくのが分かった。
リリアンは、俺に向き直ると、今までで一番穏やかで、美しく、そして満ち足りた微笑みを浮かべた。
《ぶっさん様……本当に、ありがとうございます。わたくし、もう、思い残すことはございません。やっと、母様の元へ、帰ることができますわ》
彼女の体が、足元から、ふわりと光の粒子に変わっていく。それは、悲しい消滅ではなく、安らかな眠りへと向かう、祝福の光だった。
「ああ。ゆっくり、おやすみ。母君によろしくな」
俺がそう言うと、彼女は満足そうに頷き、完全に光となって、夜空へと昇っていった。後には、マドレーヌの甘く、優しい香りだけが、静かに残されていた。
一人になった店で、俺は、彼女が遺した香りを胸いっぱいに吸い込む。
料理は、腹を満たすだけじゃない。時には、こうして、彷徨える魂さえも癒すことがある。
俺は、誰もいなくなったカウンターの向こうに、そっとマドレーヌを一つ供えると、静かに店の明かりを消した。
今夜は、きっといい夢が見られそうだ。
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