第九話:幽霊令嬢とプルースト効果 (2/3)
「あんたのために、世界で一番、記憶に響く焼き菓子を作ってやる。少し、長くなるが、付き合ってくれるかい?」
俺の言葉に、リリアンはこくりと頷いた。俺はまず、彼女をカウンターの席に促し、落ち着かせるように一杯の白湯(の、ような見た目の霊気)を差し出した。もちろん彼女は飲めないが、その心遣いが、彼女の張り詰めた心を少しだけ解きほぐしたようだった。
「いいかい、嬢ちゃん。人間の五感の中で、嗅覚、つまり匂いを感じる感覚だけは、特別なんだ。他の感覚は、一度、頭で『これはなんだ?』って考える部分を通ってから、記憶や感情に届く。だが、匂いだけは、記憶や感情を司る部分に、直接、ダイレクトに届くんだ。俺がいた世界じゃ、これを『プルースト効果』って呼んでる。だから、本人がすっかり忘れちまってるような昔の記憶が、ある匂いを嗅いだ途端、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ることがあるんだ。あんたの未練を解く鍵は、間違いなくその香りにある」
俺は、できるだけ優しく、語りかけるように説明する。
「だから、思い出せるだけでいい。その香りは、どんな感じだった? 陽だまりのよう、温かい抱擁のよう…。他には何か覚えてないかい? 例えば、少し酸っぱいような、爽やかな感じはしなかったか?」
俺がそう尋ねると、リリアンの瞳が、わずかに揺れた。
《……! そうですわ! 言われてみれば、母の部屋の窓から見えた、お庭のレモンの木に似た、爽やかな香りがしたような……。そうです、あの香りですわ》
「よし、それでいい。じゃあ、少しだけ、ピリッとするような、甘くて不思議な香りはどうだ? 例えば、冬の日に、暖炉の前で母君が飲んでいた温かい飲み物とか、そういう記憶は?」
《……! いたします! いたしますわ! 母が、風邪をひいたわたくしのために、温かいミルクに入れてくれた、あの甘くて、少しだけスパイシーな香り……!》
断片的な情報が、俺の頭の中で一つのレシピを組み立てていく。
バターの温かい香り、レモンの爽やかな香り、そしてシナモンやナツメグのようなスパイスの香り。間違いない。彼女の思い出の菓子は、俺の故郷、フランスの古典的な焼き菓子**「マドレーヌ」**に近いはずだ。
「嬢ちゃんの思い出の香り、正体が分かったぜ。今から、そいつを再現してやる」
俺は厨房に立つと、まずボウルに新鮮な卵を割り入れ、きめ細かい砂糖を加えて、白っぽく、もったりとするまですり混ぜる。次に、上質な小麦粉と、生地をふっくらさせるための「魔法の粉」ベーキングパウダーを、高い位置から空気を含ませるようにふるい入れる。
そして、ここからが香りを作り出す、一番大事な工程だ。
俺は小さな銅鍋に、たっぷりのバターを入れて、弱火にかける。ただ溶かすだけじゃない。鍋を揺すりながら、じっくりと、バターの中の水分を飛ばしていく。パチパチという音が、やがて静かになり、バターが淡い褐色に色づき始める。ナッツのような、甘く香ばしい香りが最高潮に達した瞬間を見極め、火から下ろす。**「焦がしバター(ブール・ノワゼット)」**だ。これが、温かみとコクのある香りの、揺るぎない土台になる。
生地に、その黄金色の焦がしバターと、すりおろしたばかりのレモンの皮、そしてほんの少しのシナモンを加えて、艶やかに混ぜ合わせる。
《……あ……》
カウンターから、リリアンの息をのむような声が聞こえる。
まだ焼く前だというのに、ボウルから立ち上る甘く複雑な香りが、彼女の記憶の扉を、少しずつ、しかし確実にノックし始めているのが分かった。
俺は、その完璧な生地を、愛らしい貝殻の形をした小さな型に、一つ一つ丁寧に流し込んでいく。
さあ、これからが本番だ。この香りを、熱の力で最大限に解き放ち、彼女の魂に届けてやる。
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