第九話:幽霊令嬢とプルースト効果 (1/3)
ドワーフのツチネが、工房の炉に新たな魂を灯しに帰ってから数日。森は静かな夜を迎えていた。客足も途絶え、俺、仏田武ことぶっさんは、店の最後の片付けをしていた。カウンターを磨き、椅子を整え、床を掃き清める。一日を無事に終えたこの、静かな時間が俺は好きだった。
「さて、今日の営業も終わり、と。明かりを消すかね」
俺が壁にかけられたランプの火を吹き消そうと、手を伸ばした、その時だった。
ふっと、店の中の空気が変わった。ロウソクの炎が、風もないのに、ゆらりと大きく揺れる。そして、閉まっているはずの店の壁を、すぅ……っと、人の影が、まるで水面に滲む絵の具のように通り抜けてきたのだ。
「なっ……!?」
思わず息をのむ。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。月明かりが、彼女の体を通り抜けて、床に淡い光の輪郭を描いている。生きていれば、きっと高貴な家の令嬢だったのだろう。上質なシルクのドレスを身にまとい、その顔立ちは人形のように整っている。だが、その体は半ば透け、表情はひどく儚げで、どうしようもない深い悲しみを湛えていた。
(幽霊……か。ついに、この世の者じゃねえ客まで来ちまったか。まあ、考えてみりゃ、鬼やゴーレムが来る店だ。今さら驚くことでもねえか)
不思議と恐怖はなかった。彼女からは、悪意や怨念といった冷たいものは一切感じられない。ただ、この場所に縛り付けられてしまった、どうしようもない、深い未練の念だけが、静かに伝わってくる。
少女の幽霊は、俺に気づくと、ふわりと優雅に一礼した。その動きは、まるで重さというものを知らないかのようだ。
《……夜分に、申し訳ございません。あなた様が、この食堂の主、ぶっさんとお見受けいたします》
その声は、テレパシーで脳内に直接響いてくるが、今までの誰とも違った。まるで、遠い場所で鳴らされている、ガラスの鈴の音のように、澄んでいて、どこか寂しげだった。
「ああ、俺がぶっさんだが……。嬢ちゃん、あんた、何か訳ありのようだな。見るからに、腹が減ってるってわけじゃなさそうだ」
俺が尋ねると、彼女――リリアンと名乗った――は、悲しそうに微笑んだ。その笑顔は、あまりに綺麗で、そしてあまりに悲痛だった。
《わたくし、この世に強い未練がございまして、成仏できずにいるのです。その未練とは…幼い頃に亡き母が作ってくれた、あるお菓子の“香り”。味も、名前も、もう思い出せないのです。けれど、あの陽だまりのような、温かい抱擁のような、優しい香りだけが忘れられなくて……》
彼女は、透き通った胸にそっと手を当て、切なそうに続けた。
《わたくしは、もう何も食べることはできません。この体に、触れることも。ですが、もう一度、あの香りを胸いっぱいに吸い込むことができたなら、きっと、この永い孤独から解放され、安らかに眠りにつけるはずなのです》
食べられない客。求めるのは、味ではなく、香り。
料理人として、これほど難しく、そして、そそられる挑戦はない。
俺の脳裏に、ある言葉が浮かぶ。「プルースト効果」だ。
特定の香りが、それに結びつく過去の記憶や感情を、鮮明に呼び覚ます現象。彼女の未練の正体は、それだ。
「なるほどな。嬢ちゃんの未練、よく分かった。その思い出の香り、俺が再現してみせよう」
《……本当、ですの? このような、曖昧な記憶しかございませんのに……?》
「ああ。料理は、舌だけで味わうもんじゃねえ。香りも、立派なご馳走だ。あんたのために、世界で一番、記憶に響く焼き菓子を作ってやる。少し、長くなるが、付き合ってくれるかい?」
俺の言葉に、リリアンは、驚きと、そしてかすかな希望にその瞳を揺らしながら、こくりと、深く頷いた。
それは、彷徨える魂を癒すための、特別な夜の始まりだった。
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