第七十二話:ケンタウロス射手と、師を超える矢(1/3)
あの、誇り高きリザードマンの剣士ゲッコウが、その身に活力を取り戻してから数週間。
気まぐれ食堂ねこまんまの厨房は、春本番の、心地よい活気に満ち溢れていた。
「親方!例の『黒酢あんかけ』、俺なりに改良してみました!隠し味に、あの雪蜂の女王様から頂いた蜜を一滴…酸味と甘みの、ギリギリの勝負です!」
ザックが、小さな味見皿を俺の前に差し出す。その瞳には、もはや単なる模倣ではない。師の味を超えようとする、挑戦者の光が宿っていた。
「ほう。やるじゃねえか」
俺がその一口を味わうと、口の中に、黒酢の酸味と、蜂蜜の奥深い甘みが、見事な調和を生み出していた。
「…美味い。だがな、ザック。まだ、蜜の甘さが、酢の角を殺しちまってる。これじゃあ、あの剣士の魂は、震えねえぜ」
「くそっ…!やっぱり、バレてたか…!」
ザックが、本気で悔しそうに頭を掻く。
その横で、リルが、静かに、しかし、的確に分析する。
「…リーダー。今の配合だと、糖度が酸度を上回って、ただの『甘酢』になってる。必要なのは、調和じゃなく、ぶつかり合いだ。二つの強い個性が、互いを殺さずに、ギリギリで共存する、あの『味噌チーズグラタン』(第六十五話)の時の、あの奇跡のバランスだよ」
「おう!どっちも美味いんだから、どっちも立ててやらねえとな!」
ゴルが、力強く拳を握る。
厨房の主役は、完全に、彼ら三人に移っていた。もはや「まかない」のレベルではなく、過去の客の物語を、自分たちの力で、さらに高みへと押し上げようと、日々、切磋琢磨している。
俺、仏田武ことぶっさんは、そんな彼らの、プロフェッショナルなやり取りを、カウンター席から、茶をすすりながら、ただ、目を細めて見守っていた。
(…たくましくなりやがって。もう、俺が口を出す幕じゃねえな)
そんな、新しい日常が始まった、あるうららかな春の昼下がりのことだった。
カランコロン、と、店のドアが、力強く開かれた。
そこに立っていたのは、俺たちが、よく知る男だった。
上半身は、鍛え上げられた人間の青年。そして、その腰から下は、力強い栗毛の馬の体。森の射手、ケンタウロスの旦那だ。かつて(第二十八話)、イップス(精神的なスランプ)に陥っていたところを、俺と見習いたちが「チャーハン作り」で救った、あの誇り高き射手。
だが、その姿は、あの時とは、まるで違っていた。
その瞳には、一点の曇りもなく、その手には、あの白木の長弓が、まるで体の一部のように、静かに握られている。
「…いらっしゃいませ、師匠!」
ザックが、厨房から飛び出し、嬉しそうに叫んだ。あのチャーハンの一件以来、ザックは、彼を「弓の師匠」として、密かに慕っていたのだ。
「今日は、どうしたんですか!腹でも減りましたか?」
ケンタウロスは、ザックの、あまりにも無邪気な歓迎に、一瞬、面食らったようだったが、やがて、その口元に、かすかな笑みを浮かべた。
《…ああ。腹も、減ってはいる。だが、今日は、お前たちに、頼みがあって来た》
脳内に響いてきたのは、あの時のような、自信を失った声ではない。風のように、どこまでも澄み切った、射手の声だった。
《…お前たちのおかげで、我が腕は、戻った。いや、以前よりも、研ぎ澄まされている。だが、我は、まだ、本当の『師』…この弓を授けてくれた、我が師を超えることができぬ》
その、あまりにも切実で、そして、高みを目指す者だけが知る、孤独な悩み。
厨房の三人の顔が、真剣なものに変わるのが、気配で分かった。
俺は、いつものように、口を開きかけた。
だが、その前に、ザックが、静かに、俺の方を振り返った。
その瞳には、こう書かれていた。「親方、俺たちに、やらせてください」と。
俺は、ただ、黙って、深く頷いた。
ザックは、ケンタウロスの前に向き直ると、まず、その、一点の曇りもない瞳を、まっすぐに見つめ返した。
そして、リルとゴルと共に、厨房の隅で、小さな円陣を組む。
「…師匠超え、か。とんでもねえ悩み、持ってきやがったな…」ザックが、嬉しそうに、しかし、真剣な顔で唸る。
「…うん。彼の問題は、技術じゃない。心だ。かつてのイップスとは違う。師匠という、あまりにも大きな『壁』を、無意識に、超えられないものだと、心が決めてしまっているんだ…!」
「…じゃあ、どうすりゃいいんだよ!俺たち、弓のことは、何も知らねえぞ!」
ゴルの、当然の疑問。
その時、リルが、静かに、しかし、確信に満ちた声で言った。
「…いいや。僕たちは、知ってる。弓も、料理も、本質は同じだってことを。僕たちが、親方の『まかない茶漬け』(第四十六話)で、親方を超えようとした、あの時のように…」
リルの、その一言。
三人の脳裏に、雷が落ちた。
「…そうか!」
ザックが、声を上げた。「『型』を破る、ってことか…!師匠から教わった、完璧な『型』。それを、一度、俺たちの料理で、ぶっ壊してやる。そして、その先にある、新しい『型』を、あんた自身の手で、掴み取れってな!」
ザックが、ケンタウロスに向き直る。
その顔には、もう、一片の迷いもなかった。
「師匠、俺たちに、最高の料理を作らせてくれ。あんたの、その、美しすぎる『型』を、内側からぶち壊す、**『常識破りの、アボカドと山葵の冷製パスタ』**をな!」
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