第七十一話:森の精霊と、光合成の和定食(3/3)
静寂が、店を支配していた。
いや、静寂ではない。お盆の上で、湯気を立てる料理たちが放つ、温かい湯気と、そこから立ち上る、味噌と出汁の、優しい香りだけが、そこにあった。
それは、光合成を忘れたドライアドの少女が、自らの手で、初めて味わう、大地の香りだった。
彼女は、震える手で、箸を手に取った。
そして、まず、湯気の立つ味噌汁の椀を、おそるおそる、その一口を、唇に運んだ。
その瞬間、彼女の、長い間、色褪せていた世界に、鮮やかな温もりが戻った。
(…あたたかい…!)
それは、ただの味覚ではなかった。魂が、震えた。
味噌と豆腐の、どこまでも優しい大豆の甘み。ワカメの、ほのかな海の香り。そして、それら全てを包み込む、出汁の、懐かしい旨味。
バラバラだったはずの全ての「命」が、口の中で、一つの、完璧な「美味しい」という名の、温かいエネルギーへと、昇華していく。
それは、ただの味ではなかった。
「大丈夫だ」
「お前の緑は、まだ、死んでなどいない」
「さあ、もう一度、光を浴びるんだ」
そう、料理そのものが、彼女の、固く閉ざされた魂に、直接、語りかけてくるようだった。
一口ごとに、奇跡は、より確かな形となって彼女の身に現れ始めた。
最高の栄養…マグネシウム、鉄分、ミネラルが、彼女の、疲れ切っていた体の隅々まで行き渡り、その「光合成」のスイッチを、内側から、力強く、力強く、押していく。
今まで、ただの「重り」としてしか感じられなかった、自分の体が、内側から、じんわりと、確かな「熱」を生み出し始めている。
やて、皿の上が綺麗に空になる頃には、彼女の瞳には、もう、あの、諦めに満ちた色はない。
そこにあったのは、内側から、自信という名の光で輝く、誇り高き、一人の「森の精霊」の瞳だった。
彼女は、自分の、緑色の髪を、そっと撫でた。
黄色く、くすんでいたはずの髪が、内側から発光するように、潤いと、艶やかな輝きを取り戻している。
《……ああ……!これが、わたくしの、光…。これなら、枯れずに済む。もう一度、あの美しい森と、共に生きていける…!》
彼女の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。それは、絶望の涙ではない。暗闇の中に、一筋の、しかし確かな光を見出した、歓喜の涙だった。
彼女は、続ける。今度は、もっと、嬉しそうに。
《体が、軽い…!葉が、喜んでる!これが、本当の、春なんだ…!》
「…おう、いい顔つきになったじゃねえか」
俺は、空になった器を手に、店の入り口に立つ。
「その調子なら、森の精霊も安心だな」
三人の見習いたちも、その、あまりにも美しい復活劇に、ただ、誇らしげに頷いていた。
「あれは、俺が教えただけの和定食じゃねえ。お前らが、初めて、本当の意味でぶつかり合い、一つの答えを出した、お前らの作品だ。よくやったな」
俺の、いつもとは少し違う、プロとして認める言葉。
三人は、顔を見合わせると、涙を浮かべる代わりに、汗を拭い、ニヤリと、最高に誇らしげな笑みを浮かべた。
その日、森の木々は、もう、精霊の悲しい溜め息に凍えることはなくなった。
代わりに、どこからともなく、風に乗って聞こえてくる、仲間たちの楽しげな声と、その輪の中心で、自らの緑の髪を誇らしげに輝かせる、一人のドライアドの笑顔に、全ての命が、温かい祝福を贈るのだった。
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