第七十一話:森の精霊と、光合成の和定食(1/3)
あの、誇り高きリザードマンの剣士ゲッコウが、その身に活力を取り戻してから数週間。
気まぐれ食堂ねこまんまの厨房は、春本番の、心地よい活気に満ち溢れていた。
「親方!昨日の『昆布締めの熟成テスト』、結果が出ました!やっぱり、麒麟様の鱗の粉末を振った方が、旨味の凝縮度が格段に上です!」
ザックが、興奮した様子で、二つの昆布締めにした魚の切り身を、俺の前に差し出す。その瞳には、もはや単なる料理人ではない。食材の理を探求する、科学者のような光が宿っていた。
「ほう。見事なもんだ。こりゃ、リルが言ってた『酵素活性の最適化』ってやつか?」
俺が尋ねると、リルが、誇らしげに、しかし、謙虚に頷く。
「はい。ゴルが、店の裏の氷室で、毎日欠かさず、完璧な湿度管理をしてくれたおかげです。この熟成法なら、干物作りにも応用できるはずです」
「おう!俺、頑張ったぜ!これで、冬も、もっと美味い魚が食えるな!」
ゴルが、力強く拳を握る。
厨房の主役は、完全に、彼ら三人に移っていた。もはや「まかない」のレベルではなく、新しい調理法や保存食の研究開発にまで、その探求心を広げている。
俺、仏田武ことぶっさんは、そんな彼らの、プロフェショナルなやり取りを、カウンター席から、茶をすすりながら、ただ、目を細めて見守っていた。
(…たくましくなりやがって。もう、俺が口を出す幕じゃねえな)
そんな、新しい日常が始まった、あるうららかな春の昼下がりのことだった。
カランコロン、と、店のドアが開く。
だが、その音には、いつものような来客を告げる軽やかさがない。まるで、風に押されて、偶然に開いてしまったかのような、ひどく、か細い音だった。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
透き通るように白い肌、森の湖のような澄んだ瞳。そして何より目を引くのは、その髪だ。陽の光を浴びて輝く、若葉のような緑色の髪をしていた。
(…人間、か?いや、違うな。この雰囲気は…)
彼女の体からは、まるで森そのもののような、清浄な気が発せられている。木の精霊、ドライアドだ。
だが、その美しい少女は、ひどく思い詰めた表情をしていた。顔色も優れず、ふらふらとした足取りで、今にも倒れてしまいそうだ。
「…いらっしゃいませ」
ザックが、店の代表として、一歩前に出る。
すると、少女はビクッと肩を震わせ、おずおずとカウンターの席に腰掛けた。
《あ、あの……旅の者から、噂を聞いて……。どんな悩みも、ここの料理が解決してくれる、と……》
脳内に響いてきたのは、テレパシーで聞こえてくるものの、ひどく弱々しい声だった。
その、あまりにも切実な声に、厨房の三人の顔が、真剣なものに変わるのが、気配で分かった。
俺は、いつものように、口を開きかけた。
だが、その前に、ザックが、静かに、俺の方を振り返った。
その瞳には、こう書かれていた。「親方、俺たちに、やらせてください」と。
俺は、ただ、黙って、深く頷いた。
ザックは、少女の前に向き直ると、まず、その青白い顔色と、力なく垂れた緑色の髪を、静かに見つめた。
そして、リルとゴルと共に、厨房の隅で、小さな円陣を組む。
「…ひでえ顔色だ。明らかに、元気がねえ。だったら、あのリザードマンの旦那(第七十話)の時みてえに、ガツンと気合が入る、黒酢あんかけみてえなもんか!?」ザックが結論を急ぐ。
「待って、リーダー!」リルが鋭く制止した。「彼女は、獣人じゃない。森の精霊だ。それに、あの髪を見て。あれは、ただの髪じゃない。彼女の、命そのものである『葉』だ。葉の色が、黄色く、くすみ始めてる…!」
「…葉っぱ…?ってことは、病気か何かか?」
「分からない…。でも、彼女に必要なのは、気合じゃない。もっと、根本的な、生命力を補う何かだ…!」
意見がぶつかり、厨房の空気が凍りつく。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、俺、ぶっさんの、静かな声だった。
「…お前ら、二人とも、いい線いってるぜ。だが、一番大事なことを見落としてる」
三人の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
俺は、カウンターから立ち上がると、彼らの前に、一枚の、色鮮やかな「ほうれん草の葉」を置いた。
「嬢ちゃんの不調は、病気でも呪いでもねえ。あんたたち植物で言うところの、『根腐れ』みてえなもんだ。だが、問題は土の中の根っこじゃねえ。その『葉』そのものが、腹を空かせちまってるんだよ」
俺は、リルの目を見た。
「あいつの髪…『葉』が、なぜ緑色か、知ってるか?『葉緑素』って色素のおかげだ。そいつが、太陽の光を浴びて、エネルギーを作り出す。それが、『光合成』だ。だが、その大事な葉緑素を作るには、土から吸い上げる栄養…特に『マグネシウム』っていうミネラルが必要不可欠なんだよ」
俺の、あまりにも的確なヒント。
三人の脳裏に、雷が落ちた。
「…そうか!」
リルが、声を上げた。「マグネシウム不足…!だから、葉緑素を作れなくて、葉の色が黄色く…!僕たちのアイデアと、親方のヒント…体を温める(ザック)と、生命力を補う(リル)…。全部を、一つにできる!」
ザックが、ドライアドの少女に向き直る。
その顔には、もう、一片の迷いもなかった。
「お嬢さん、俺たちに、最高の料理を作らせてくれ。あんたの魂に、もう一度、春の輝きを灯してやる!**『森の精霊に捧ぐ、光合成の和定食』**をな!」
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