第七十話:リザードマンと、疲労回復の黒酢あんかけ(1/3)
あの、眠れぬグリフォンの衛兵ガイウスが、穏やかな寝息と共に巣へと帰ってから、数週間。
気まぐれ食堂ねこまんまの厨房は、春本番の、心地よい活気に満ち溢れていた。
「親方!昨日の『昆布締めの熟成テスト』、結果が出ました!やっぱり、麒麟様の鱗の粉末を振った方が、旨味の凝縮度が格段に上です!」
ザックが、興奮した様子で、二つの昆布締めにした魚の切り身を、俺の前に差し出す。その瞳には、もはや単なる料理人ではない。食材の理を探求する、科学者のような光が宿っていた。
「ほう。見事なもんだ。こりゃ、リルが言ってた『酵素活性の最適化』ってやつか?」
俺が尋ねると、リルが、誇らしげに、しかし、謙虚に頷く。
「はい。ゴルが、店の裏の氷室で、毎日欠かさず、完璧な湿度管理をしてくれたおかげです。この熟成法なら、干物作りにも応用できるはずです」
「おう!俺、頑張ったぜ!これで、冬も、もっと美味い魚が食えるな!」
ゴルが、力強く拳を握る。
厨房の主役は、完全に、彼ら三人に移っていた。もはや「まかない」のレベルではなく、新しい調理法や保存食の研究開発にまで、その探求心を広げている。
俺、仏田武ことぶっさんは、そんな彼らの、プロフェッショナルなやり取りを、カウンター席から、茶をすすりながら、ただ、目を細めて見守っていた。
(…たくましくなりやがって。もう、俺が口を出す幕じゃねえな)
そんな、新しい日常が始まった、あるうららかな春の昼下がりのことだった。
カランコロン、と、店のドアが開く。
そこに立っていたのは、一人の、屈強な戦士だった。
体長は二メートルを超え、全身は、磨き上げられた翡翠のような、美しい緑色の鱗に覆われている。その手には、剣や斧ではなく、一本の、使い込まれた木剣が握られていた。湿地帯に住まう、誇り高き剣士、リザードマンだ。
だが、その姿は、伝説に語られるような力強さとは程遠かった。
自慢であるはずの翡翠の鱗はくすみ、その強靭な筋肉は、まるで鉛でも仕込まれたかのように、重く、気だるそうだ。彼は、カウンターの席にどかりと腰を下ろすと、木剣を脇に置き、深いため息をついた。
「…いらっしゃいませ」
ザックが、店の代表として、一歩前に出る。
すると、リザードマン――ゲッコウと名乗った――は、その、爬虫類特有の鋭い瞳を、悲しそうに伏せた。
《…ああ。すまないが、何か、食わせてくれ。いや、それよりも、何か、疲れが取れる、妙薬はないか…?》
脳内に響いてきたのは、鍛え上げられた戦士のものとは思えぬ、ひどく疲労し、かすれた声だった。
《我は、一族最強の剣士として、日々、鍛錬を欠かしたことはない。だが、ここ数ヶ月、どういうわけか、体が全く言うことを聞かんのだ。木剣を一度振るっただけで、息が上がり、次の日には、全身が、まるで石になったかのように、動けなくなってしまう。もう、年なのかもしれん…》
その、あまりにも切実な、トップアスリートならではの悩み。
厨房の三人の顔が、真剣なものに変わるのが、気配で分かった。
俺は、いつものように、口を開きかけた。
だが、その前に、ザックが、静かに、俺の方を振り返った。
その瞳には、こう書かれていた。「親方、俺たちに、やらせてください」と。
俺は、ただ、黙って、深く頷いた。
ザックは、ゲッコウの前に向き直ると、まず、そのくすんだ鱗と、疲労しきった筋肉を、しかし、決して憐れむのではなく、ただ、その原因を探るように、静かに見つめた。
そして、リルとゴルと共に、厨房の隅で、小さな円陣を組む。
「…疲れが取れない…か。だったら、あの、ケットシーの大将(第五十七話)の時みてえに、ガツンと気合が入る、生姜焼きみてえなもんか!?」ザックが結論を急ぐ。
「待って、リーダー!」リルが鋭く制止した。「彼の問題は、やる気じゃない。筋肉そのものが、悲鳴を上げてるんだ。激しい運動で生まれる『乳酸』っていう疲労物質が、うまく処理できていないんだ!必要なのは、気合じゃなく、回復だよ!」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
意見がぶつかり、厨房の空気が凍りつく。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、俺、ぶっさんの、静かな声だった。
「…お前ら、二人とも、いい線いってるぜ。だが、一番大事なことを見落としてる」
三人の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
俺は、カウンターから立ち上がると、彼らの前に、一つの「梅干し」を置いた。
「あいつの体はな、エンジンが汚れちまってるんだよ。疲れの元(乳酸)っていう『燃えカス』が、溜まりに溜まって、うまく動けなくなってる。『クエン酸回路』っていう、体ん中のエンジンがな」
俺は、ザックの目を見た。
「あいつに必要なのは、その燃えカスを、もう一度、エネルギーとして燃やしちまう、最高の『着火剤』だ。…そうだろ?」
俺の、あまりにも的確なヒント。
三人の脳裏に、あの、玄武(第三十八話)を目覚めさせた、あの日の記憶が蘇る。
「…そうか!」
リルが、声を上げた。「クエン酸…!あの、山の主を目覚めさせた、あの力だ!梅干しだけじゃない、酢の力を使えば、もっと強力に、彼のエンジンを再起動できる!」
ザックが、ゲッコウに向き直る。
その顔には、もう、一片の迷いもなかった。
「大将、俺たちに、最高の料理を作らせてくれ。あんたの、その錆びついちまった体に、もう一度、最高の炎を灯してやる!**『疲労回復!鶏肉と春野菜の黒酢あんかけ定食』**をな!」
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